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2006年12月31日
聖家族 (2006/12/31 ルカ2・41-52)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭」は春分の日の後に行なわれる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していたということになります。なお、当時の成年は13歳からでしたので、イエスはまだ成人前ということになります。
43節で「少年」と訳されている言葉はギリシア語では「パイスpais」という言葉です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ども、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録の3・13、4・27、30で「僕イエス」と訳されている箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ42・1など)で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。
(2) 両親は、イエスを見失い、探して、三日後に神殿にいるイエスを見つけます。「三日後」や「探す・見つける」は復活を感じさせる言葉です(ルカ24・5,23,24参照) 。ルカはこの少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
49節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
ルカ福音書の中で神殿という場所は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境内でのことでした。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21・37-38)。12歳のイエスが神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すものだと言ってもよいでしょう。ルカ福音書の最後の場面は、イエスの昇天後の弟子たちの姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・52-53)と結ばれています。
ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、ある特定の地上の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。
(3) 49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9・22「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。
復活されたイエスの言葉、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=デイ)のではないか」(ルカ24・26)から考えると、イエスが「父のところにいる」ということも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。
(4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)とあります。イエスの誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)という言葉がありました。51節の「これらのこと」とは、12歳のイエスの神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ということも含まれるようです。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
(5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「神と人とに愛された」(52節)という言葉はホッとさせられる言葉です。この世界のすべての子どもに何よりも必要なのは、このことではないでしょうか。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来の機能だと言えるでしょう。
一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗期や親子の断絶の問題に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにもありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな問題を抱えた家族の一員となってくださったのです。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じることができれば、「わが家も聖家族」ということになるのではないでしょうか。
2006年12月24日
待降節第4主日 (2006/12/24 ルカ1・39-45)
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(1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。マリアの場合は処女でしたから、彼女が母となるということは人間的にはまったくありえないことです。もしそれがありうるとしたら、まったく神の力以外の何ものでもないということになります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1・35)から、このマリアからイエスが生まれることになるのです。
(2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これは「最も祝福された女性」という意味です。これはヘブライ語やアラム語で最上級を表す表現なのです。士師記では、イスラエルに味方して敵の将軍を倒したカイン人のヤエルという女性がたたえられていますが、そこにも同じような表現があり、新共同訳聖書は次のように訳しています。「女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女」(士師記5・24)。
今わたしたちが唱えている「恵みあふれる聖マリア…」という祈り(ラテン語の「アヴェ・マリアAve Maria」)の前半は、ルカ1・28の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、このエリサベトの言葉から採られています。日本語では、「主はあなたを選ばれ、祝福され」と訳されていますが、どうでしょうか。「選ばれ」というとマリアだけが例外的に祝福されているように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、「最も祝福されている方」という意味なのです。
(3) 「胎内のお子さまも祝福されています」は直訳では「また、あなたの胎の実は祝福された方」となります。「も」というので、これもへたをすると、イエスが祝福されているのは、マリアが祝福されているからだと誤解されてしまうかもしれません。しかし、実際は逆のはずです。「胎の実」であるイエスが「祝福された方」であり、「主」(43節)であるからこそ、マリアは「最も祝福された女性」なのです。
エリサベトはマリアの胎内にいる子を「わたしの主」と呼んでいます。そこにはすでに成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、先取りされていると言えそうです。洗礼者ヨハネは「主の道を整え」(3・4)るために来て、この「主」の到来を告げたからです。
(4) 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)は、ルカ11・27,28の次の言葉を思い出させます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」マリアはただ単にイエスの母だから素晴らしいのではなく、むしろ神の言葉を信じた信仰のゆえに幸いなのです。
このマリアの信仰は、1・38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉にもっともよく表れています。マリアは自分とは関係のないところで神の言葉が実現することを信じ、願っているのではありません。「この身に」(直訳では「わたしに」)と言って、自分の中に神の約束が行なわれることを信じ、それに自分を委ねていきます。それはエリサベトも同じでしょう。
わたしたちにとっても、神の言葉(約束)はわたしたちから遠いところで実現するのではないはずです。まさに「このわたしに」実現することとして、神の言葉は語られているのです。そしてだからこそ、わたしたちが自分のうちに実現する神の言葉をどう受け入れ、どう答えるかが問われるのです。マリアの場合には、特別に「み言葉を自分の中に宿している」というイメージがあるかもしれません。わたしたちも、わたしたち自身のうちにみ言葉を宿す、という感覚を持つことができるでしょうか。
(5) 天使のお告げを受けたマリアは、なぜエリサベトのもとへ行ったのでしょうか。マリアは常識的には信じられないような天使の言葉を確かめるためにエリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、前の箇所で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っていたマリアの深い信頼からすると、これは考えにくいでしょう。あるいは、出産を控えたエリサベトを手伝うために、エリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(56節)と言われていますので、これも考えにくいことです。
マリアがエリサベトを訪問した目的は、神の約束の実現を一緒に待つためではないでしょうか。自分たちのうちに神の約束が成就されつつあるのを感じ取り、その喜びを分かち合うためマリアはエリサベトを訪ねたのではないでしょうか。この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という集いの根本的な意味だと言ってもよいのではないでしょうか。
2006年12月17日
待降節第3主日 (2006/12/17 ルカ3・10-18)
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福音のヒント
(1) この箇所の直前には、洗礼を受けに来た人々に対する洗礼者ヨハネの次のような言葉があります。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3・7-9)。非常に厳しい裁きのメッセージです。アブラハムの子孫であるユダヤ人だから祝福を受けられるだろうというような甘い期待は打ち砕かれます。すべての人は今、回心する(=悔い改める)かどうかを問われているのです。10-14節では、その「悔い改めにふさわしい実」とは何かが具体的に語られています。
(2) 群集に向かって要求されるのは、断食や苦行を行なうことではなく、持っているものを、それを必要としている人と分かち合うことでした。それは周りの人を大切にすることと言い換えてもよいでしょう。あらゆる人に回心を呼びかけたヨハネのもとにはさまざまな人が訪れました。ここには「徴税人」と「兵士」が登場しています。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業だというだけで罪びとのレッテルを貼られていました。「兵士」はローマ軍の兵士でしょうか。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも兵士を持っていました。彼らに対してヨハネが語ったのも、ただ、人に対して悪を行なわないように、ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、今、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。
(3) 15節の「メシア」はヘブライ語ですが、原文はギリシア語の「クリストスchristos=キリスト」です。どちらも「油を注がれた者」、つまり神から特別な使命を与えられた人を意味します。メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」の到来を予告しました。「履物のひもを解く」(16節)はしもべの仕事で、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。
「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」の対比は分かりにくいかもしれません。まず「洗礼を授ける」と訳される言葉ですが、これはギリシア語で「バプティゾーbaptizo」という一つの動詞で「(水に)沈める、浸す」ことを表します。洗礼者ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈めることでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い、罪のしもべである自分に死んで、新しく神のしもべである人に生まれ変わる「回心」を表すものでした。これが「水による洗礼」です。
(4) では「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージだったと考えられます。17節には「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。あらかじめ麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使う道具です。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」それは本来は神の裁きのイメージだったのです。つまり、洗礼者ヨハネが語った「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。
もちろん、実際に来られた方イエスは、裁きをもたらしたのではありませんでした。イエスも終末における裁きを語られましたが、地上で活動したイエスは、むしろ神のゆるしをもたらす方でした。キリスト教は洗礼者ヨハネの言葉を実際に来られたイエスに当てはめ、イエスの姿からこの言葉を再解釈していきました。福音書の中では、「聖霊による洗礼」は「聖霊の中に人を沈めること=人に聖霊を与えること」と理解され、それがイエスによって実現することだと語るのです。なお、ここでは「火」は非常に激しい力を持つものとして聖霊のシンボルだと理解されています(使徒言行録2・3参照)。
(5) わたしたちは洗礼者ヨハネの言葉を信じて、ヨハネの弟子になろうとしているのではありません。本当に見つめるべきなのは、ヨハネではなくイエスなのです。イエスがもたらしたものは何か、ということのほうがはるかに大切です。
ところで、ルカ福音書はきょうの箇所(18節)で、ヨハネは「民に福音を告げ知らせた」と言っています。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「決定的な方が来られるということ」でしょう。と同時に「今、回心することによって救いにあずかることができるということ」も福音だと言えるでしょう。
わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。
2006年12月10日
待降節第2主日 (2006/12/10 ルカ3・1-6)
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(1) 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1節)。ティベリウスは第2代ローマ皇帝で、紀元14年に即位していますから、これは紀元28年ごろのことだということになります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降(くだ)った」(2節)は、旧約聖書に見られる典型的な預言者の紹介の仕方です。たとえば、「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(ゼカリヤ1・1)。
「預言者」はギリシア語では「プロフェーテースprophetes」で、もともと「プロ(予め)」と「フェーミ(言う)」という語の合成語ですから、ギリシア語の訳としては「予言者」のほうが正確でしょう。しかし、この背景にあるヘブライ語の「ナービー」という言葉には単に「予言する人」ではなく「神の言葉を告げる人」という意味が強いので、「預言者」という漢字を当てたほうが内容的には適切だと言えそうです。ちなみに、中国語では「豫」(「予」の正字体)と「預」の間に意味の差はないそうです。
(2) イスラエルの歴史の中では、王国時代から捕囚後まで数多くの預言者が活動しましたが、洗礼者ヨハネやイエスの時代は、最後の預言者が去ってからかなりの時がたっていました。神はもはや預言者の口をとおして民に語りかけることはない、と感じられていた時代でした。その時代に「預言者」として登場したのが洗礼者ヨハネでした。神はこの世界に対して、今まさに決定的なことをなさろうとしている、その神の言葉を伝えるのが預言者としての洗礼者ヨハネの使命でした。
「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を」(3節)とありますが、「洗礼」はギリシア語で「バプティスマbaptisma」です。この言葉はもともと「水に沈めること、浸すこと」を意味しています。ヨハネが行なっていたバプティスマとは、ヨルダン川の水に人間の全身を沈めるものでした。一度水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで新たな命に生きることを表します。「悔い改め」と訳された語は、「メタノイアmetanoia」で、元の意味は「心を変えること」です。旧約聖書では「神に立ち返る」と言われていることです。「心を神に向け、神に立ち返る」という意味で「回心」という漢字が当てられるようになりました。古い自分に死んで、新たに神とともに生きる、と言ったらよいでしょうか。この目的は「罪の赦し」です。罪が神から離れることであるとすれば、回心とそのしるしであるバプティスマは、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。
もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。
(3) 4-6節はイザヤ書40章の引用です。この箇所の少し前から見てみましょう。
「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手(みて)から受けた、と。
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」
イザヤ40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神によるゆるしと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。
上のイザヤ書本文では、「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野の道とは捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。「道を備えよ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声だったようです。福音書は、七十人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)に基づいてこの箇所を「荒れ野で叫ぶ者の声」と読んで、これを洗礼者ヨハネに当てはめています。また、イザヤ書本文では「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。
(4) ルカはマタイやマルコよりも長い引用をしています。それは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を伝えたかったからです。翻訳を比べてみるとイザヤ40・5とルカ3・6は少し違っています。「人は皆」は直訳では「すべての肉」です。「主の栄光がこうして現れる」を「神の救い」としたのは七十人訳の影響です。いずれにせよ、ルカはイエスによってもたらされる救いがすべての人に及ぶことを強調するためにこの言葉を引用しています。新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。
待降節はただ単にクリスマスを準備する季節ではありません。12月24日までイエスの誕生を待って、25日には誕生を祝うというだけではなく、待降節から降誕節までの期間をとおして、「イエスが来られる」ということの意味を味わうと考えたらよいでしょう。
イエスの到来には3重の意味があります。「2千年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」「今わたしたちの生活の中に来てくださるイエス」。わたしたちにとって、やはりこの3番目の意味が大切でしょう。だとすれば、「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、わたしたちが主とともに歩んでいく道でもあるのではないでしょうか?
2006年12月03日
待降節第1主日 (2006/12/3 ルカ21・25-28、34-36)
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(1) 「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13・10、エゼキエル32・7、ヨエル2・10などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。世の終わりは確かに一面では破滅のメッセージなのです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、これも破滅そのものであり、ここには何の救いも感じられないかもしれません。しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあるのです。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。
「終末=世界の終わり」と言われてもピンとこないとしたら、「個人の終わり=死」について考えてみると良いでしょう。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)という面では同じなのです。それは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。そして、そこに向かって、今をどう生きるかがわたしたちに問われるのです。
この永遠との出会いの中で「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ということがわたしたちキリスト者の希望です。そこには「神の愛に反する一切のものが滅びる」という面があることも否定できません。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。
(2) 28節の「解放」と訳された言葉は、ギリシア語の「アポリュトローシスapolytrosis」です。これは本来、「身代金を払って奴隷を解放すること」を意味する言葉です。「あがない」と訳すこともできますが、ここでは、完全な救いの実現を表す言葉として受け取ればよいでしょう。わたしたちにとって、いったい何からの解放でしょうか。逆に言えば、わたしたちは今、何に縛られているのでしょうか。
25-26節から考えれば、それは「この世界の混乱に対する不安」だと言ったらよいかもしれません。この世界の悪の現実、戦争や犯罪や暴力という現実、それらを見れば見るほど悲観的になり、どこにも救いがないと感じるかもしれません。しかし、神はこの現実の中でもわたしたちを救いと解放に導いてくださっているとイエスは約束されるのです。
あるいは、わたしたちを縛っているものは「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)だとも言えるでしょうか。財産や快適な生活に固執して、本当に大切な生き方を見失っているのもわたしたちの現実の一面でしょう。そこからの「解放」と考えても良いのかもしれません。
(3) 「いつも目を覚まして祈りなさい」の「目を覚ましている」ということはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。
マルコ13章では、目に見えるものではなく、目に見えないが確かなもの、すなわち決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告だと言ったらよいでしょう(B年年間第33主日の「福音のヒント」参照)。
マタイ24-25章で、「目をさましていなさい」という命令は、最終的に「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)というイエスの宣言につながっていきます。「目を覚ましている」ということは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることなのです(A年待降節第1主日の「福音のヒント」参照)。
(4) ルカは、目を覚ましていることを祈ることと結びつけます。「目を覚ましていること=祈ること」だと言っても良さそうです。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰の中にもあることでしょう。目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、それよりももっと大切なことに心を向けさせるのが「祈り」なのです。
「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることが「祈り」です。
27節にもある「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成させる時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」なのです。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13・12)と言います。このキリストとの決定的な出会いを意識し、「来られるキリスト」に目を向けていることが「祈り」だと言ったらよいのではないでしょうか。