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2006年12月24日

待降節第4主日 (2006/12/24 ルカ1・39-45)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 クリスマスの直前の待降節第4主日には、イエスの誕生に直接関係する福音の箇所が読まれます。今年はルカ福音書1章の「マリアのエリサベト訪問」と呼ばれる箇所です。  ルカ福音書1章ではまず、洗礼者ヨハネの父ザカリアに天使ガブリエルが現れ、高齢の妻エリサベトが身ごもったという話が伝えられていました(5-25節)。そして、6ヶ月目に同じ天使ガブリエルは、ガリラヤのおとめマリアに救い主の母となることを告げます(26-38節)。きょうの箇所は、この2人の女性が会う場面ですが、ここには後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が先取りされている、と言ってもよいでしょう。

福音のヒント

  (1) エリサベトはマリアの親類で、高齢になっていたにもかかわらず、洗礼者ヨハネを身ごもりました。人間的には不可能と思われることですが、だからこそ、そこに神の力が働いている、ということになります。洗礼者ヨハネの誕生という出来事には神の力が働いているのです。マリアの場合は処女でしたから、彼女が母となるということは人間的にはまったくありえないことです。もしそれがありうるとしたら、まったく神の力以外の何ものでもないということになります。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(1・35)から、このマリアからイエスが生まれることになるのです。

  (2) エリサベトはマリアに向かって「あなたは女の中で祝福された方」(42節)と言います。これは「最も祝福された女性」という意味です。これはヘブライ語やアラム語で最上級を表す表現なのです。士師記では、イスラエルに味方して敵の将軍を倒したカイン人のヤエルという女性がたたえられていますが、そこにも同じような表現があり、新共同訳聖書は次のように訳しています。「女たちの中で最も祝福されるのは/カイン人ヘベルの妻ヤエル。天幕にいる女たちの中で/最も祝福されるのは彼女」(士師記5・24)。
 今わたしたちが唱えている「恵みあふれる聖マリア…」という祈り(ラテン語の「アヴェ・マリアAve Maria」)の前半は、ルカ1・28の天使の言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と、このエリサベトの言葉から採られています。日本語では、「主はあなたを選ばれ、祝福され」と訳されていますが、どうでしょうか。「選ばれ」というとマリアだけが例外的に祝福されているように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそうではなく、「最も祝福されている方」という意味なのです。

  (3) 「胎内のお子さまも祝福されています」は直訳では「また、あなたの胎の実は祝福された方」となります。「も」というので、これもへたをすると、イエスが祝福されているのは、マリアが祝福されているからだと誤解されてしまうかもしれません。しかし、実際は逆のはずです。「胎の実」であるイエスが「祝福された方」であり、「主」(43節)であるからこそ、マリアは「最も祝福された女性」なのです。
 エリサベトはマリアの胎内にいる子を「わたしの主」と呼んでいます。そこにはすでに成人した後のイエスと洗礼者ヨハネの関係が、先取りされていると言えそうです。洗礼者ヨハネは「主の道を整え」(3・4)るために来て、この「主」の到来を告げたからです。

  (4) 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)は、ルカ11・27,28の次の言葉を思い出させます。「イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。『なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。』しかし、イエスは言われた。『むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である』」マリアはただ単にイエスの母だから素晴らしいのではなく、むしろ神の言葉を信じた信仰のゆえに幸いなのです。
 このマリアの信仰は、1・38「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉にもっともよく表れています。マリアは自分とは関係のないところで神の言葉が実現することを信じ、願っているのではありません。「この身に」(直訳では「わたしに」)と言って、自分の中に神の約束が行なわれることを信じ、それに自分を委ねていきます。それはエリサベトも同じでしょう。
 わたしたちにとっても、神の言葉(約束)はわたしたちから遠いところで実現するのではないはずです。まさに「このわたしに」実現することとして、神の言葉は語られているのです。そしてだからこそ、わたしたちが自分のうちに実現する神の言葉をどう受け入れ、どう答えるかが問われるのです。マリアの場合には、特別に「み言葉を自分の中に宿している」というイメージがあるかもしれません。わたしたちも、わたしたち自身のうちにみ言葉を宿す、という感覚を持つことができるでしょうか。

  (5) 天使のお告げを受けたマリアは、なぜエリサベトのもとへ行ったのでしょうか。マリアは常識的には信じられないような天使の言葉を確かめるためにエリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、前の箇所で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言っていたマリアの深い信頼からすると、これは考えにくいでしょう。あるいは、出産を控えたエリサベトを手伝うために、エリサベトのもとに行ったのでしょうか。しかし、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」(56節)と言われていますので、これも考えにくいことです。
 マリアがエリサベトを訪問した目的は、神の約束の実現を一緒に待つためではないでしょうか。自分たちのうちに神の約束が成就されつつあるのを感じ取り、その喜びを分かち合うためマリアはエリサベトを訪ねたのではないでしょうか。この2人の出会いの中に、「教会」の根本的なイメージを感じ取ることができるでしょう。「いろいろ問題や悲惨なこともあるけれど、それでも神の約束は確かにわたしたちの中で実現に向かっているよね」ということを分かち合い、その喜びを確かめ合うのが、教会という集いの根本的な意味だと言ってもよいのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2006年12月24日 16:35

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