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2006年12月10日
待降節第2主日 (2006/12/10 ルカ3・1-6)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1節)。ティベリウスは第2代ローマ皇帝で、紀元14年に即位していますから、これは紀元28年ごろのことだということになります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降(くだ)った」(2節)は、旧約聖書に見られる典型的な預言者の紹介の仕方です。たとえば、「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(ゼカリヤ1・1)。
「預言者」はギリシア語では「プロフェーテースprophetes」で、もともと「プロ(予め)」と「フェーミ(言う)」という語の合成語ですから、ギリシア語の訳としては「予言者」のほうが正確でしょう。しかし、この背景にあるヘブライ語の「ナービー」という言葉には単に「予言する人」ではなく「神の言葉を告げる人」という意味が強いので、「預言者」という漢字を当てたほうが内容的には適切だと言えそうです。ちなみに、中国語では「豫」(「予」の正字体)と「預」の間に意味の差はないそうです。
(2) イスラエルの歴史の中では、王国時代から捕囚後まで数多くの預言者が活動しましたが、洗礼者ヨハネやイエスの時代は、最後の預言者が去ってからかなりの時がたっていました。神はもはや預言者の口をとおして民に語りかけることはない、と感じられていた時代でした。その時代に「預言者」として登場したのが洗礼者ヨハネでした。神はこの世界に対して、今まさに決定的なことをなさろうとしている、その神の言葉を伝えるのが預言者としての洗礼者ヨハネの使命でした。
「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を」(3節)とありますが、「洗礼」はギリシア語で「バプティスマbaptisma」です。この言葉はもともと「水に沈めること、浸すこと」を意味しています。ヨハネが行なっていたバプティスマとは、ヨルダン川の水に人間の全身を沈めるものでした。一度水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで新たな命に生きることを表します。「悔い改め」と訳された語は、「メタノイアmetanoia」で、元の意味は「心を変えること」です。旧約聖書では「神に立ち返る」と言われていることです。「心を神に向け、神に立ち返る」という意味で「回心」という漢字が当てられるようになりました。古い自分に死んで、新たに神とともに生きる、と言ったらよいでしょうか。この目的は「罪の赦し」です。罪が神から離れることであるとすれば、回心とそのしるしであるバプティスマは、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。
もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。
(3) 4-6節はイザヤ書40章の引用です。この箇所の少し前から見てみましょう。
「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手(みて)から受けた、と。
3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る」
イザヤ40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神によるゆるしと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。
上のイザヤ書本文では、「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野の道とは捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。「道を備えよ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声だったようです。福音書は、七十人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)に基づいてこの箇所を「荒れ野で叫ぶ者の声」と読んで、これを洗礼者ヨハネに当てはめています。また、イザヤ書本文では「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。
(4) ルカはマタイやマルコよりも長い引用をしています。それは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を伝えたかったからです。翻訳を比べてみるとイザヤ40・5とルカ3・6は少し違っています。「人は皆」は直訳では「すべての肉」です。「主の栄光がこうして現れる」を「神の救い」としたのは七十人訳の影響です。いずれにせよ、ルカはイエスによってもたらされる救いがすべての人に及ぶことを強調するためにこの言葉を引用しています。新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。
待降節はただ単にクリスマスを準備する季節ではありません。12月24日までイエスの誕生を待って、25日には誕生を祝うというだけではなく、待降節から降誕節までの期間をとおして、「イエスが来られる」ということの意味を味わうと考えたらよいでしょう。
イエスの到来には3重の意味があります。「2千年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」「今わたしたちの生活の中に来てくださるイエス」。わたしたちにとって、やはりこの3番目の意味が大切でしょう。だとすれば、「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、わたしたちが主とともに歩んでいく道でもあるのではないでしょうか?
投稿者 ct : 2006年12月10日 14:45
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