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2006年12月31日
聖家族 (2006/12/31 ルカ2・41-52)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) ルカ福音書だけが伝える12歳の少年イエスのエピソードです。「過越祭」は春分の日の後に行なわれる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭りで、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿を訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を連れてエルサレムに巡礼していたということになります。なお、当時の成年は13歳からでしたので、イエスはまだ成人前ということになります。
43節で「少年」と訳されている言葉はギリシア語では「パイスpais」という言葉です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ども、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録の3・13、4・27、30で「僕イエス」と訳されている箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ42・1など)で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。
(2) 両親は、イエスを見失い、探して、三日後に神殿にいるイエスを見つけます。「三日後」や「探す・見つける」は復活を感じさせる言葉です(ルカ24・5,23,24参照) 。ルカはこの少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
49節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
ルカ福音書の中で神殿という場所は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境内でのことでした。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(21・37-38)。12歳のイエスが神殿で学者たちと問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すものだと言ってもよいでしょう。ルカ福音書の最後の場面は、イエスの昇天後の弟子たちの姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24・52-53)と結ばれています。
ルカ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していました。ルカ福音書の中での神殿とは、ある特定の地上の場所であるというより、「父のところ」であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。
(3) 49節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイdei」という言葉の訳です。「必ず~することになっている」「どうしても~しなければならない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ9・22「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、「神が定めたことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそうすべきである」というニュアンスのある言葉です。
復活されたイエスの言葉、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=デイ)のではないか」(ルカ24・26)から考えると、イエスが「父のところにいる」ということも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。
(4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51節)とあります。イエスの誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)という言葉がありました。51節の「これらのこと」とは、12歳のイエスの神殿でのエピソードだけでなく、「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった」ということも含まれるようです。「仕える」は直訳では「服従する、従う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
(5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。いずれにせよ、誰もが自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。「神と人とに愛された」(52節)という言葉はホッとさせられる言葉です。この世界のすべての子どもに何よりも必要なのは、このことではないでしょうか。子どもだけでなく、すべての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来の機能だと言えるでしょう。
一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗期や親子の断絶の問題に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにもありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな問題を抱えた家族の一員となってくださったのです。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じることができれば、「わが家も聖家族」ということになるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2006年12月31日 16:39
コメント
+主の平和+
この聖家族の日に私は実家に帰りました。そして自分の家族において主から大変なお恵みをいただきました。信仰しない家族のうちにイエス様が降りてきたのを感じることができたのです。イエス様が私の家族に対するたくさんの計画をすでに携えていらして、私の家族にこれからたくさんの祝福とお恵みをくださるこということをわからせてくださったんです!大変な喜びです!
私の家族における宣教方法ですが、これは私が主の道に導かれたときにいわれた言葉で宣教します。それは、「イエス様はあなたを愛している」という言葉です。仮に、それを伝える私が不完全で欠点が多くとも、この言葉は誰も否定できない真実であります。また御父はこれを知らせるためにすべての霊魂をおつくりになったのだから、必ず誰の心にも響く真実の言葉であると思うのです。
いかに暗闇が厚くとも、光を注ぐのならば、闇は光の中に入れない。光は注ぎ続けるのならば、いつの日かはそこを照らし出します。神様の愛は、絶え間ない、永遠の愛です。
私の家族も不完全な私の愛情よりも、実は神様の完全な愛を求めているはずです。そしてすべての人々は、お互いを通じてその愛を求めて、分け与えることを望まれています。ですから、私もまだ主を信じられない家族に常に言い続けます。「イエス様はあなたを愛している」イエス様が愛される人を私が愛さずにいられましょうか!主は、人を愛されるのです。
いつの日か疑いと偽りの暗闇を越えてこの真実の光が霊魂の深層に必ずたどりつくと信じています。そのときは、私も家族とともに主のうちに喜び合えるのです。
こんなすばらしい希望を下さった、神様に感謝!
投稿者 主はあなたを愛している : 2007年01月03日 16:18
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