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2006年11月12日
年間第32主日 (2006/11/12 マルコ12・38-44)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まってきました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。サドカイ派の中にも律法学者はいましたが、律法学者の多くはファリサイ派に属していました(マルコ2・16参照)。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が細かく解釈していった「口伝律法」を大切にし、厳密に守ろうとした派です。中でも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。
(2) イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する批判は、マタイ23・1-36やルカ11・39-51にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「人に見せるため」(マタイ23・5参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも自分が人より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。
福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への問いかけだとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人から評価されるためにはどうしたらいいか? わたしたちもそのような思いから完全に自由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。
この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉も出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やもめにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者たちは自分の利益を上げていたということでしょうか。
(3) この律法学者と正反対の立場にいるのが「やもめ」です。やもめ(寡婦)は、寄留の他国人や孤児(みなしご)と並んで社会的弱者の代表でした。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22・20-23参照)。
寄留者とは、周囲に自分の守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。
(4) 当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さいせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉ぐらいの価値でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがしますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の真実のあり方が問われているのです。
(5) 彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。「生活のすべてを神に差し出した」と受け取ることもできるでしょう。
全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか? この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで/壺(つぼ)の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない」(列王記上17・14)という神の言葉が実現した、という話です。すべてを差し出したところに神の救いの力が働くという体験がわたしたちの中もあるでしょうか。
イエスの受難・死・復活の道とは、まさにそういう道だったとも言えるでしょう。
神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい一人の女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿には真実なものは何もない、と言うかのように、神殿を後にします(マルコ13・1参照)。
投稿者 ct : 2006年11月12日 16:23
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