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2006年11月26日

王であるキリスト (2006/11/26 ヨハネ18・33b-37)

教会暦と聖書の流れ

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 教会の暦は待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」は年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日の朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。

福音のヒント

    (1) イエスは最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑に処せられることに決まりましたが、その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。この罪状は「ローマ帝国に対する反逆者」を意味しています。イエスが誕生したとき、すでにパレスチナはローマ帝国の支配下にありましたが、いちおうはヘロデ大王と呼ばれる王がいて、ローマ帝国を後ろ盾としてパレスチナを支配していました。イエスが成人して活動していたころ、ガリラヤ地方にはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスという領主がいましたが、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領になっていました。つまり「ユダヤ人の王」はいてはならないわけであり、もし誰かが自分を「ユダヤ人の王」だと主張すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになるのです。

  (2) 「王」という言葉はギリシア語で「バシレウスbasileus」と言います。この言葉から「国=バシレイアbasileia」という言葉が生まれました。これは英語で言えば「King」と「Kingdom」の関係ですので、「バシレイア」は「王国」と訳したほうが正確かもしれません。また「王としての支配」「王であること」「王になること」という意味もあります。現代の国家には「共和国」という王のいない国がありますが、古代では王なしに国は考えられませんでした。ピラトはイエスが「わたしの国(バシレイア)」(36節)と言った言葉を聞いたので、「それでは、やはり王(バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めるのです。
 
  (3) 「この世には属していない」(36節に2回)と訳されている箇所は、直訳では「わたしの国はこの世の中からのものではない」です。「~の中から」というところには「エックek」という前置詞が使われています。新共同訳のように「この世に属していない」ととることもできますが、むしろ「この世に根拠をおいていない」という意味にとったほうがよいかもしれません。
 イエスのバシレイアは、この世のバシレイアと違います。それは宗教的領域と世俗的領域というような領域の違いというよりも、因(よ)って立つ根本原理の違いです。イエスの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理でしょう。これは力の原理です。一方イエスは「真理について証しする」のであり、イエスのバシレイアは、人間の力ではないものに根拠を置いているのです。

  (4) 「真理」という言葉はギリシア語で「アレーテイアaletheia」ですが、この言葉にはもともと「隠されていないこと」という意味があります。ギリシア人にとって、真理とは、「そのものの外見の覆いを取り去った本質」というようなニュアンスがあります。一方、ヘブライ語は「エメト」です。これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。
 ヨハネ福音書にはこの「真理」という言葉がよく使われていますが、この両方のニュアンスがあるようです。それは決して抽象的・哲学的な真理ではなく、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエスが言葉と生き方をとおして現す」ということを示しているのです。きょうの箇所の続きで、ギリシア・ローマ文化の中に生きるピラトは「真理とは何か」(38節)と問いかけますが、イエスは何も答えません。この対話はここで終わっています。イエスの語る「真理」は抽象的な哲学論議の問題ではないのです。この真理とは、イエスの生涯、特に十字架の死と復活の中に現されるものなのです。

  (5) 「真理」という言葉は人間によって悪用されてきた面もあります。ある人々が、自分たちは「真理」を持っていると主張し、その「真理」を振りかざすところから、生きている人間の喜びや苦しみを無視した残虐な行為に走ることができるとしたら、真理とは非常に危険なものではないでしょうか。
 イエスの真理は違います。イエスがあかしする「真理」とはなんでしょうか? それはヨハネ福音書の内容に即して言えば、「神が愛であること」だと言ったらよいのではないでしょうか。
 1・17-18「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
 3・16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 13・1「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 15・9-10「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

  (6) この真理はイエスの生涯をとおして示されました。そして、最終的にいつかそれが明らかになるのだ、と信じるのが終末についての信仰です。イエスが王となるということは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ことだといってもよいのでしょう。そしてそう信じるときに今のわたしたちが何を大切にして生きるか、が問われてくるのです。

投稿者 ct : 12:06 | コメント (0)

2006年11月19日

年間第33主日 (2006/11/19 マルコ13・24-32)

教会暦と聖書の流れ

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 教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年(B年)では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、次週の日曜日「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。

福音のヒント

  (1) きょうの箇所はマルコ13章5節から13章の最後(37節)まで続く長い説教の一部です。13章の初めにこの説教が語られた状況が記されています。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』イエスは話し始められた」(13・1-5)。
 ガリラヤから出てきた弟子たちはエルサレムの都の壮麗な神殿の建物を見て圧倒されます。彼らはこれこそ確かなものだと思ったのでしょう。それに対して、イエスは「これは滅びていくものだ」ということを語り、神殿を見ながら弟子たちに向けてこの遺言のような説教を語りました。イエスはこの中で、偽(にせ)キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などというこれから起こることを語ります。そしてその後、最後に起こることを語るのがきょうの箇所です。

  (2) 24-27節には、旧約聖書から採られたさまざまな表現が用いられています。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24-25節)は、イザヤ13・10などに見られる表現で、決定的な神の裁きの日の到来を表すしるしです。
 「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26節)というのは、ダニエル7・13に基づいています。
 「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(7・13-14)
 本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でしたが、この箇所から特別な意味が生まれました。それは「神が最終的に遣わす審判者」の意味です。この箇所でマルコは、栄光のうちに再び来られるキリスト(再臨のキリスト)を「人の子」と呼んでいるのです。

  (3) そもそも聖書の中で「世の終わり」についてのメッセージが語られる背景には「迫害」という厳しい現実がありました。紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝がパレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス王の時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ人の中には殉教する人もいました。神に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代だったのです。その中で「この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる」と語り、迫害の中にいた信仰者を励まそうとしたのがダニエル書です。迫害の最中ですから、直接的な表現は許されません。そこで時代を紀元前6世紀という過去に設定し、捕囚の地バビロンでダニエルという人が見た幻として、今起こっていることと将来起こることを描くのです。

  (4) ですから基本的に終末のメッセージは希望のメッセージなのです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現する!
 23節までの説教でイエスが予告した「偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊」などという出来事は、マルコにとってほとんどすべてがもうすでに現実に起こっていることでした。その中で、実は救いの日は近づいているのだ、と語るのです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マルコ13・28-29)。
 一方、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ警告のメッセージになっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。神の決定的な裁きは突然やってくる」と語ることによって、神のみ心にかなう生き方をするように、と警告するのです。
 わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。そのわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。

  (5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章の初めで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。「愛は決して滅びない」(〓コリント13・8)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか?

投稿者 ct : 16:01 | コメント (0)

2006年11月12日

年間第32主日 (2006/11/12 マルコ12・38-44)

教会暦と聖書の流れ

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 マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しいやもめの姿です。イエスはこの後、神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を見ながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13・31)ものへの信頼を説いていくことになります(13章)。

福音のヒント

   (1) イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まってきました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。サドカイ派の中にも律法学者はいましたが、律法学者の多くはファリサイ派に属していました(マルコ2・16参照)。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が細かく解釈していった「口伝律法」を大切にし、厳密に守ろうとした派です。中でも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。

  (2) イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する批判は、マタイ23・1-36やルカ11・39-51にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「人に見せるため」(マタイ23・5参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも自分が人より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。
 福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への問いかけだとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人から評価されるためにはどうしたらいいか? わたしたちもそのような思いから完全に自由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。
 この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉も出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やもめにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者たちは自分の利益を上げていたということでしょうか。

  (3) この律法学者と正反対の立場にいるのが「やもめ」です。やもめ(寡婦)は、寄留の他国人や孤児(みなしご)と並んで社会的弱者の代表でした。
 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22・20-23参照)。
 寄留者とは、周囲に自分の守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。

  (4) 当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さいせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉ぐらいの価値でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがしますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の真実のあり方が問われているのです。

  (5) 彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。「生活のすべてを神に差し出した」と受け取ることもできるでしょう。
 全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか? この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで/壺(つぼ)の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない」(列王記上17・14)という神の言葉が実現した、という話です。すべてを差し出したところに神の救いの力が働くという体験がわたしたちの中もあるでしょうか。
 イエスの受難・死・復活の道とは、まさにそういう道だったとも言えるでしょう。
 神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい一人の女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿には真実なものは何もない、と言うかのように、神殿を後にします(マルコ13・1参照)。

投稿者 ct : 16:23 | コメント (0)

2006年11月05日

年間第31主日 (2006/11/5 マルコ12・28b-34)

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 先週の福音(マルコ10・46-52)の舞台はエリコでしたが、きょうの箇所はかなり飛んでいて、エルサレムの神殿の境内での場面になっています。その間に、イエスはエルサレムに入り、当時の宗教的・社会的指導者たちとの間でさまざまな対話をしました。これらの対話は、3年周期の主日のミサの朗読配分の中で、A、B、C年に割り振られていて、今年(B年・マルコの年)は、それらの対話の結びにあたるこの箇所だけが読まれます。

福音のヒント

   (1) イエスがエルサレムの神殿の境内で対話した相手は、祭司長・律法学者・長老(11・27以下)、ファリサイ派・ヘロデ派(12・13以下)、サドカイ派(12・18以下)などで、皆、当時のユダヤ人社会の宗教的・社会的な指導者たちでした。多くの対話はイエスに対して攻撃的な内容なので「論争物語」とも言われますが、きょうの箇所は論争とは言えません。イエスとここに登場する律法学者の意見は一致しているからです。

  (2) 29-30節の「イスラエルよ、聞け・・・」は、申命記6・4-5の引用です。これに続けて申命記には次の言葉があります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6・6-9)。この箇所がいかに大切にされていたかが分かります。今回のイラストに描かれているのは、この申命記6・4-9などの聖句を記した小さな羊皮紙の入った小箱を額と腕につけたユダヤ人の姿です。このような習慣はイエス時代にすでにあり、福音書の中で「聖句の入った小箱」(マタイ23・5)と言われているものがこれにあたります。この申命記6・4-5が最も大切な掟であることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。
 神を愛するとはどういうことでしょうか。キリシタン時代の人は「神の愛(ラテン語のカリタスcaritas)」のことを「御大切(ごたいせつ)」と訳したと言われます。「愛」とは「大切にすること」だといえば、日本語としてはもっとも分かりやすいかもしれません。

  (3) もう1つの掟「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19・18にあります。新共同訳聖書では、レビ記17-26章のはじめに「神聖法集」という見出しが付けられていて、この部分が大きな1つの律法集であることが分かります。19章はその中心ともいえる箇所です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19・2)という言葉にこの神聖法集の根本的な考え方が表れています。「聖」であることとは、単に祭儀的な意味での「聖」ではなく、むしろ対人関係において神のように「貧しく弱い立場にいる人を大切にすること」が求められています。その中にこの隣人愛の掟があります。
 「隣人」という言葉は確かに近い人々を表す言葉です。ルカ10章では「隣人とは誰か」が問題になり、イエスは有名な「善いサマリア人」のたとえを語ることになりました。

  (4) レビ記も決してユダヤ人だけを愛すればいいと教えてはいません。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19・33-34)。
 ここで大切なのは、「寄留者を愛せ」という掟の根拠は、神がエジプトに寄留していたイスラエルの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知り、救ってくださった(出エジプト記3・7参照)という神の救いのわざだということです。つまり、あなたがたには寄留者の苦しみが分かるはずだから、寄留者を大切にしなさい、ということであり、同時にまた、神が愛してくださったように、あなたがたも愛するべきだ、ということでもあります。
 イエスの時代のファリサイ派や律法学者の問題は、掟を守ることによって神の救いにあずかることができると考え、自分の力で救いを勝ち取ろうとしたことでした。掟の前提にすべての人を救ってくださる神の愛があることを忘れ、自分の力に頼ろうとした結果、彼らは神との生きた関係を見失い、また、貧しく律法を知らない人々を「罪びと」として切り捨てることになってしまったのです。イエスが批判したのはまさにこの点でした。
 
  (5) 律法学者は「第一の掟」についてたずねますが、イエスは2つの掟を語りました。この2つの掟を結び付けたことは確かにイエスの考えをよく表しているでしょう。ただし、この2つを最も大切な掟だとする考えはイエスだけのものとも言えないようです。実際、ルカ10章でこの2つの掟を語るのはイエスではなく、律法学者のほうです。
 この箇所でも最も重要な掟について、イエスと律法学者の意見は一致しています。イエスの言う「あなたは神の国から遠くない」(34節)という言葉は、律法学者の答えを評価するものですが、神の国を明確に約束しているとも言えません。問題は掟をどう考えるかではなく、その掟をどう生きるか、です。マルコ福音書の中で神の国が確かに約束されるのは「幼子」でした(10・14-15)。イエスが指し示しているのは、神の愛に対する幼子のような信頼を持ったとき、神と人への愛が沸き起こってくるという世界なのでしょう。
 マルコはこの対話で、11・27から始まった当時の宗教的指導者たちとイエスとの対話を締めくくります。「もはや、あえて質問する者はなかった」(34節)。誰もイエスに反論できませんでした。しかし、彼らの多くがイエスに対して抱いていた反感は変わりません。本当の対立は、議論の中身ではないのです。律法の基準に基づく自分たちの地位や名誉を守ろうとした当時の社会的・宗教的指導者たちと、すべての人の父(アッバ)である神に信頼し、貧しく小さな人々とともに歩むイエスの生き方が対立しているのです。

投稿者 ct : 16:17 | コメント (0)