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2006年09月03日

年間第22主日 (2006/9/3 マルコ7・1-8,14-15,21-23)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 年間第17~21主日までの5週間にわたってヨハネ福音書6章が読まれてきましたが、きょうから再びマルコ福音書の朗読に戻ります。年間16主日はマルコ6・30-34でしたが、その後、マルコ福音書は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与え、湖の上を歩いて舟をこぎ悩んでいた弟子たちに近づき、さらに、多くの病人をいやしたイエスの姿を伝えています。そして、きょうの箇所になります。直前に出てくる地名は「ゲネサレト」で、これはガリラヤ湖の北東岸の町の名です。

福音のヒント

  (1) マルコ福音書では、イエスの活動はずっとガリラヤ地方を中心に行なわれていて、ただ生涯の最後にイエスはエルサレムに行き、そこで十字架にかかって死ぬことになります。ヨハネ福音書ではイエスは活動中に何度かエルサレムとガリラヤを行き来していますし、エルサレムでの活動も伝えられています。マルコは、神の国を告げるイエスの活動の場であった「ガリラヤ」とイエスを十字架につけた町である「エルサレム」を対比させている、という見方もできるでしょう。ここでも、「エルサレムから来た」という言葉に、その人々がイエスに敵対的な人々であるという意味が込められているようです。

  (2) ファリサイ派は律法を熱心に学び、厳格に守ろうとしていたユダヤ教の一派でした。彼らは、律法学者たちが何世代もかけて作り上げてきた律法解釈を大切にしていました。それがこの箇所では「昔の人の言い伝え」(3節)と言われているものです。イエスの時代には文字に書かれることなく、律法学者たちが口伝えで受け継いできたので「口伝律法」と呼ばれています。なお、これが後の時代に「ミシュナ」や「タルムード」という膨大なユダヤ教文書になって現代まで伝えられていくことになりました。
 「ファリサイ」という言葉の本来の意味は確かではありませんが、一説によると「分離する」という言葉から来ていて、「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」あるいは「罪や汚れから分離した者」の意味ではないかと考えられます。ファリサイ派は「清さと汚れ」に敏感でした。ここでいう「手を洗わない」は現代の衛生観念の問題ではありません。手を洗うのは、宗教的な清めのためです。なお、4節に「市場(いちば)から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない」とあります。「市場」は異邦人と接触する場であり、特に汚れを移されやすい場であると考えられていました。
 「汚れた」と訳されている言葉は、ギリシア語で「コイノスkoinos」です。この言葉は本来は「共通の」という意味でした。「交わり」とか「一致」と訳される「コイノニアkoinonia」という言葉はここから来ています。ファリサイ派にとって、特別に清められていないもの=「共通のもの」は皆汚れていたのです。

  (3) ファリサイ派の人々のイエスに対する批判は、イエスご自身の行動だけでなく、むしろイエスの弟子やイエスが関わっていた人々についてのことが多かったようです。ここでの「手を洗わない」という問題もそうですが、他にも「なぜ断食しないのか?」(マルコ2・18)、「なぜ安息日に麦の穂を摘むのか?」(2・23-24)といったイエスの弟子たちに対する非難が伝えられています。イエスの弟子たちは「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)であり、ファリサイ的な敬虔さから程遠かったのでしょう。当時の宗教者の基準からは評価されないそんな弟子たちを、イエスはいつも弁護してくれました。
 しかしここには、ただ単に弟子たちへの思いやりというだけでなく、もっと根本的なイエスの生き方が表れていると言うべきでしょう。イエスは「分離」ではなく「交わり(コイノニア)」を重んじました。イエスにとってすべての人は「アッバ(父)である神の子」であり、その人間を「清いか、汚れているか」「正しい人か、罪びとか」で分けることよりも、すべての人を神の子として、この神との交わりの中に招き、人と人との兄弟姉妹としての交わりの中に招くこと、これがイエスの使命であり、メッセージだったのです。

  (4) 6-7節にはイザヤ29・13が引用されています。14-15節は、宗教的な清めにこだわっていた当時のファリサイ派に対する一般的な反論でしょう。イエスが問題にしているのは、さまざまな清めの儀式ではなく、人間の心のあり方です。21-22節では、心の中から出て人を汚すものとして、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」が挙げられています。もちろん、どれも大きな問題ですが、特に「悪口、傲慢」というところに注目してもよいかもしれません。それはまさにきょうの箇所でのファリサイ派や律法学者の問題だからです。「自分たちは宗教的な清めのためにいつも努力している、それなのにイエスの弟子は手を洗わない!」そう言って、彼らは自分たちの優越感から他者を見下し、非難するのです。
 わたしたちの中にも同じ問題がないとは言えないでしょう。自分は真面目で熱心だと思えば思うほど、その基準を人に押し付けて、他人を「汚れた人間」「ダメなやつ」として裁いてしまう危険があります。それはイエスの心とどれほど遠いことでしょうか?

  (5) 省略されている箇所には次のような言葉があります。18-19節「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。下線の部分は分かりにくい箇所ですが、「彼はすべての食べ物は清いと言われた」と訳すこともできます。そうだとすれば、これはイエスの言葉ではなく、マルコの解説でしょう。旧約聖書の律法には食べてよいものと食べてはいけないものについてのさまざまな規定(食物規定)がありました。しかし、初代キリスト教会はユダヤ教の食物規定を乗り越えていきます。それは異邦人をキリスト信者として受け入れるために必要なことでした。このことはイエス自身の教えにさかのぼることなのだ、とマルコは言いたいのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2006年09月03日 11:47

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