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2006年09月24日
年間第25主日 (2006/9/24 マルコ9・30-37)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 弟子たちは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合って」いました。「何を議論していたか」と問われても彼らは「黙って」います。それがイエスの考えや生き方と合わないことを知っていたからです。情けない弟子たちの姿です。この弟子たちに向かってイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と言われます。これは3回目の受難予告の後の言葉とよく似ています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・43-45)。9・35の言葉も一般的な教えというより、イエスの受難の道に弟子たちを招く言葉なのです。
「人よりも先になりたい、上になりたい、偉くなりたい」という思いから自由になることは難しいことです。弟子たちは、実際にイエスの受難と死の姿に接することによって、そこから解放されていきました。わたしたちはどうしたら解放されるのでしょうか?
(2) ここまでの話と37節の子どもについてのイエスの言葉「子供の一人を受け入れる者は・・・」はうまくつながらないように感じられるのではないでしょうか。マタイやルカもそのように感じたようです。平行箇所(同じような話を伝える箇所)で、マタイ18・4では「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という言葉が加えられていますし、ルカ9・48では「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」という言葉が加えられています。もしかしたら、マルコ福音書は「子どものようになること(=子どもであることを受け入れること)」と「子どもを受け入れること」を区別していないのかもしれません。
マルコ福音書では、年間第27主日に読まれる10・13-16にも子どもが登場します。そこではこう言われています。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。子どもに関するイエスの言葉はいろいろな形で伝えられていったようです。マルコはたまたまその一つをきょうの箇所で伝えているという見方もできるでしょう。
(3) だとしたら、36-37節は前の部分と切り離して受け取ることもできるでしょう。「子どもを受け入れる」とは本来どういうことでしょうか? これと似ている表現は、福音書の次のような箇所にも見られます。
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。・・・はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10・40,42)。ここでは、迫害を受けているイエスの弟子に対する態度のことが問われているようです。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。ここでは「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人」が「最も小さい者」と呼ばれています。
イエスの時代、人間は律法という基準でその価値をはかられていました。当時の社会では、子どもは「無能力者」の代表で、子どもであること自体には価値がないと考えられていました。一人前の人間は律法を学び、律法を忠実に守る人間だ、という考えで人間を評価すれば、子どもであるということは、欠陥でしかなかったのです。迫害されている弟子や助けを必要としている小さな人々と「子ども」のイメージはつながっています。この人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだということになるでしょう。
(4) 現代の子どもたちはイエスの時代の子どもたちとは違って律法の基準ではかられているわけではありません。しかし、「どれだけ役に立つか」という経済的基準ではかられている面はあるのではないでしょうか。「少子化」の問題が叫ばれる中で、子どもの数がもっと必要だと言われます。しかしそれは、社会の安定のため、今の大人のために役に立つものとして子どもの数を必要としているに過ぎないのではないでしょうか? 大人の都合(役に立つか、立たないか?)で子どもを見る見方は、極端な場合、子どもたちを欲望の道具にしてしまったり、犯罪や虐待の対象にしてしまうことだってありうるのです。
子どもに対するイエスの見方は、当時の社会の一般的な見方とも現代の産業社会の見方とも違っていました。イエスは人間を律法の基準や経済的価値で見ることをせず、すべての人を神の子として見ました。父である神はすべての人を愛し、特に小さい者に目を注がれる方です。そこで、子どもの小ささと無力さ、そしてその子どもが示す「絶対的な信頼」(子どものように神の国を受け入れること)は、神の前で、だれもが本来そうあるべき姿(ある意味での理想・模範)だということになります。
わたしたちはどうしたら、自分自身の小ささや無力さを受け入れることができるのでしょうか? また、わたしたちがイエスの眼差しをもって子どもを受け入れるとは本当にどういうことなのでしょうか?
投稿者 ct : 2006年09月24日 15:23
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