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2006年07月30日

年間第17主日 (2006/7/30 ヨハネ6・1-15)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 主日のミサの朗読配分は、マタイの年、マルコの年、ルカの年の3年周期になっています。ヨハネ福音書はほとんどの箇所にイエスの死と復活というテーマが現れているので、四旬節や復活節に集中して読まれます。ただし、ヨハネ1・19~2・11(イエスと最初の弟子たちの出会い=年間第2主日)と6章(パンについての話)だけは年間主日の流れの中に組み込まれて読まれることになっています。今年はマルコの年で、先週の箇所(マルコ6・30-34)に続くのは、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話(6・35-44)ですが、きょうの福音では同じ話をヨハネ福音書から読みます。そして、きょうから5週間、ヨハネ福音書の6章が読まれていくことになります。このようにして、主日のミサの中で4つの福音書をバランスよく読むことができるようになっているのです(ただし、今年の場合は、来週8月6日が「主の変容」の祝日に重なるので、少し例外です)。

福音のヒント

   (1) 写真はカファルナウムの近くにある「パンと魚の教会」と呼ばれる教会の祭壇の下のモザイクです。5世紀ごろに作られたものだそうです。きょうの福音の出来事が古代の教会の中で大切にされていたことが分かります。この出来事が起こった場所は正確には分かりません。「向こう岸」とありますが、異邦人の地のことではなくカファルナウムの周辺の地だったようです。
 「山」は特別に「神がご自身を現す場」「神との出会いの場」です。「過越祭」はエジプトの奴隷状態からの解放という、神の救いのわざの原点を記念するイスラエル最大の祭りです。ヨハネ福音書は、この出来事をとおしてイエスの神性が現れ、新しい過越とも言うべき大きな救いが示されることを伝えるために、この場所と時を選んでいるようです。

  (2) 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)というイエスの問いはヨハネ6章全体にかかわる大きな問いです。この問いの本当の答えは、6・35にあるイエスの宣言、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」ということだからです。もちろん弟子たちは、ここではまだ、そのことは理解できていません。「二百デナリオン」は200日分の日給にあたりますからたいへんな額です。とても自分たちの手には負えない、と考えて「足りないでしょう」「何の役にも立たないでしょう」と言うのです。このようなつぶやきはわたしたちの中にもあるかもしれません。

  (3) 11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。「感謝の祈りを唱え」はギリシア語で「エウカリステオーeucharisteo」ですが、マルコ、マタイ、ルカでは「賛美の祈りを唱え(エウロゲオーeulogeo)」という言葉が使われています。賛美と感謝の違いはあまり問題になりません。どちらもこのパンが神から与えられたものであることを確認し、このパンを与えてくださった神に賛美と感謝をささげているのです。「分け与える」は他の福音書では「パンを裂いて与える」というような表現になっていますが、動作としては同じです。これは最後の晩さんのときの動作、そしてミサの中での司祭の動作にもつながる大切な表現です。

  (4) パンを食べたすべての人は満腹しました。男の数が5千人ですから女性や子どもを入れれば1万人ほどの人がいたことになるでしょう。この不思議な出来事は4つの福音書すべてに伝えられていますが、このような出来事をどう考えればよいのでしょうか。
 第一朗読で読まれる列王記下4・42-44には同じような出来事が伝えられています。そこでは、紀元前9世紀の預言者エリシャが大麦パン20個を100人の人に食べさせ、人々は食べきれずに残したという話になっています。5つのパンで5千人というのはもっと奇跡的な出来事であることが強調されていますが、正確な数字だと考えなくてもよいのではないでしょうか。この話のもとには、弟子たちのなんらかの体験があったはずです。それは「大勢の人がいて、パンは絶対に足りないと思ったのに、イエスを中心にそのパンを分け合ったとき、そこにいたすべての人が満たされた」というような体験だったのかもしれません。

  (5) 「パンの屑(くず)」(12,13節)の「屑」と訳された言葉は、原文では「裂かれたもの」を意味する言葉が使われていますから、正確には「パンのかけら」と訳したほうがよいかもしれません。「十二」はイスラエルの部族を象徴する数だとも言われますが、ただ単に完全さを現す意味で「十二」という数になっているのかもしれません。とにかくここでは、イエスのもとにある豊かさが強調されていると言えるでしょう。
 「イエスのもとにある本当の豊かさ」とは何でしょうか。11節のイエスの動作にその秘密があるのではないでしょうか。イエスは食事の際の動作の中で、神とのつながり、人と人とのつながりをはっきりと示しています。目の前にパンがあってそれを自分が食べるから満たされるのではなく、わずかなパンでもそれを与えてくださった神とのつながりを思い、そこにいるすべての人とのつながりを大切にしていただくときに満たされる。わたしたちの中にもそのような体験があるのではないでしょうか。

  (6) この出来事に対する人々の反応は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」というもので、決して否定的なものではありませんでした。しかし、イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている」と受け取ります。イエスが十字架につけられた時の罪状書きはまさに「ユダヤ人の王」というものでした(ヨハネ19・19)。ここでの「王」もローマ帝国の支配を打ち破り、ユダヤ人をローマから解放してくれる政治的指導者の意味でしょう。イエスの力を見た人々はイエスにこのような期待をかけ、イエスを自分たちの王に祭り上げようとしたのです。わたしたちはイエスに何を期待しているのでしょうか。そして、イエスはわたしたちに何を求めているのでしょうか。

投稿者 ct : 2006年07月30日 10:44

コメント

+主の平和+

福音のヒントありがとうございます。

+神に栄光+
 読んでいて、以前から持っていた問題が解けました。それは、もし皆に足りるように分け与えることが目的だったのならば、主がお与えになったパンが皆に十分満ち足りたのだから別にそこまででいいはずではないか、わざわざ余ったことまで詳しく書くのはどうしてかということです。
 今回私なりにわかったことは、パンを割いて配ったあと残ったのは、パンだけでなく、そこに詰まっている主が私たちの心を満たしてくれた祝福、命、愛、神秘と真理の光だったのだということでした。ですから、こうなっては、余るほどあったことは、たいしたことでない訳がありません!主は、すべての人の心を満たすことができる愛をお持ちでいらっしゃり、集まっていなかった人々の分もしっかりと愛をお与えできるお方です。主は、実に私たちに余るほどの愛を注いでくださっていますね!
本当にありがとうございました。 
+神に感謝!

投稿者 余るほどの愛 : 2006年07月29日 14:54

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