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2006年07月23日
年間第16主日 (2006/7/23 マルコ6・30-34)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 30節の「使徒」という言葉は、マルコ3・14でも使われていました。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3・14-15)。ギリシア語では「アポストロスapostolos」で、「アポステローapostello(遣わす、派遣する)」という動詞から来ています。意味は「遣わされた者」です。遣わされた者の使命は「神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出す」ことですが、これはイエスがしてきたことと同じだと言えます。「使徒」はイエスの近くにいた12人の弟子、初代教会では、復活したイエスに出会い、イエスから派遣された特別な人を指す言葉ですが、福音書を読むときは、いつもわたしたち自身が「遣わされた者」であることを忘れないようにしましょう。2000年前のガリラヤとユダヤでイエスがしていたことを、今のわたしたちが自分の置かれた場でなんとかしていこうとするとき、わたしたちも「使徒」だと言えるはずです。
(2) イエスは群衆の「飼い主のいない羊のような有様」(34節)を見ます。羊は弱い動物なので、群れを離れると滅んでしまいます。「飼い主=羊飼い=牧者」の役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣から守り、草のあるところに導くことでした。右上の写真は、イスラエル占領下にあるゴラン高原(ガリラヤの北西にあたる)で見かけた羊と羊飼いです。この羊飼いはドゥルーズ人というアラブ系の人のようでした。イスラエル人の先祖も羊飼いでしたので、旧約聖書には「飼い主のいない羊」のイメージがたびたび現れます。
一番印象的なのはエゼキエル34章でしょう。エゼキエルは、人々を守らず、かえって人々から奪い取るだけのイスラエルの牧者たち(指導者たち)を厳しく批判してこう言います。
「3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」
そして民の姿を次のように表現しています。
「5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいない」
そして、神ご自身が「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11節)、また「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」(23節)と約束されます。イエスはこの牧者として人々に目を注いでいます。
(3) 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は、新約聖書の中で12回使われていて、そのうちマタイ福音書に5回、マルコに4回(この箇所のほか、1・41、8・2、9・22)、ルカに3回使われています。この言葉は他の箇所でも説明しました(C年年間第15主日の「福音のヒント」など)が、「スプランクノン(はらわた)」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、「はらわたする」と訳した人もいます。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じてしまう深い共感(コンパッションcompassion)表す言葉なのです。イエスの愛の行いはいつもここから出てきていると言ってもいいのでしょう。
きょうの箇所で、この深い共感からイエスがしたことは「教え始められた」ということでした。マルコはいつものように教えの内容を伝えていません。もちろんそれは「神の国(神が王となること)」についての教えです。「王」と「羊飼い」のイメージはつながっています。この箇所のイエスの教えは、「野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル34・5)羊たちを一つの集め、力づける牧者としての言葉だと考えればよいでしょう。わたしたちもそのようなイエスの言葉を聞くことがあるでしょうか。
(4) 現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。31節でイエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を必要としているかもしれません。
ただし、この場面の弟子たちは簡単には休めなかったようです。群集が押し寄せてきたからです。きょうの箇所の後の5つのパンと2匹の魚の話では、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)と命じられ、大群衆にパンを配るのを手伝わされています。結局のところ、休むことはできなかったのでしょうか。
イエスが「教え」「パンを分け与える」。これは「ことばの典礼」と「感謝の典礼」からなる「ミサ」そのものではないでしょうか。いろいろな休み方がありますが、本当の休みはイエスのもとにいて、イエスとともに時を過ごし、イエスの言葉を聞き、イエスの食卓にあずかること。そう感じられたらどんなに素晴らしいことでしょう?
投稿者 ct : 2006年07月23日 11:47
コメント
私たちも遣わされた者、使徒なんですね。
イエスさまが父のもとから遣わされてきて、
今度はこの私が派遣される。
主の不思議な計画を思わされ感謝です。
投稿者 角本尚彦 : 2006年07月15日 12:56
+主の平和 +
福音のヒントありがとうございました。
1)「神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出す」
神の愛と神秘の王国。天地を造られた全能の神が私たちの本当の父であり、御父は深い愛情をこめて私たちの霊魂を御腕に抱えて私たちの人生そのものを神の愛によって聖化してくれている。これが本来の真理であります。父は私たちをこの地上におつくりになりましたが、常に私たちは真理である神の神秘のうちに生きています。これは、すべての人においてそうであると私は信じています。ただ、ほとんどの人においては、魂がそれに気づかず、認識において真理が逆になっているようです。逆というのは、まずこの地上があり、世界観があり、そして神の神秘があるかないかという考え方です。しかし、これらの事柄はすべて自分の「外側」から聞いたことであります。しかし、神秘においては、これは、心のうちから神の力と知恵によって「内側」から体験を通じて得られる事柄で、疑う余地がないのです。
自分の魂の源とは離れている外側の事柄を小さいころから信じて生きてきた人たちにもすべての人における真理である神の国について述べ伝えることが大切だと思います。それを聞くことによってその人たちの魂が深い意識を呼び起こしキリストへと向かうように叫び出すのではないかと、私は最近主に呼ばれてきた兄弟姉妹と話すときよく思います。彼らの普段に認識している意識よりももっと深い何かが神の存在を認めて動いている、キリストにめぐり合いたいという気持ちに乾いている、そう感じるのです。
キリストは弟子たちを迎え、御父の栄光と神秘を明らかにされました。そして弟子を派遣し同じように人々を迎え、伝えられた福音を伝えるように命じました。
私たちの福音宣教は、いかに一人でもその神秘に目覚めるために必要な御言葉を伝えることができたなら、あるいは、奥深く眠っている魂がこの外側の世界だけでなく、内側からの真理というものがあるかも知れないと少しでも動くのならば、すでにそこにキリストにつながる門が少し開いたことになるのではないでしょうか。これは、かりに一人であったとしても大変な業であると私は思います。
悪霊についてです。神の霊が聖霊であるのに対して、サタン、悪魔の霊を悪霊というのだと思いますが、これは、自分を神と同様の位にあげ、また神の力を信じず、その神秘を軽視し、神に嫉妬し、とにかく常に偽りを言って、神が愛によって作られたすべてを憎み、その人々を救済する計画に邪魔をしようとたくらんでいるものです。悪霊にもいろいろ種類があり、強く恐ろしく頑固なものから、弱くいたずらっ子のようなのまでいるようです。どちらにせよ、私たちを神の愛から遠ざけさせようと頑張っているわけです。
そして、この霊は、人々を神の神秘から惑わせたり、偽りをいって陥れたり、人々を落ち込ませたり、被害を与えたりなどいろいろすることがあります。当然ですが、もちろん、人々が落ち込んだら、あるいは被害を受けたらすべて悪霊の仕業とは言えません。しかし、憎しみを持って神である父を、そしてキリストを、またご聖霊を冒涜したりその信仰を罵倒するのは、まさに悪霊がその人を通じて話している状態です。
私も以前、信仰が確立したときに、悪霊はさまざまな方法を使ってどうにかしてでも私の洗礼を思いとどませようとがんばりました。しかし、一度目覚めた信仰が、どうしてそのような脅しなどで消えるでしょうか?真理は消えないのです。このとき、試されているのは、真理を知りえた霊魂がそれを証続ける力です。最終的に、私もこの試練を乗り越え、悪霊はその人から離れ、今では、イエスを愛する人となったのです。
さて、神は、すべての上に立つ方でいらっしゃいますから、すべては、神に聞き従うのです。そして、神は常に正しく、善を望まれ、そしてすべての創造物を愛しています。まず、キリストを通して自分に解き明かされたこの真理に対するゆるぎない信仰がなければ、悪霊を追い出すことは無理だったでしょう。キリストの近くにいてさまざまな形で神の神秘を知らされた弟子たちは、強い信仰によって神に逆らう悪霊に言いつけ、命じて、悪霊によって支配された、あるいは支配されかけた人々の霊魂から悪霊を追い払ったのです。
現代社会において、このようなすさまじい神および神の使いと悪魔と悪魔の使いの戦いは、現実的に経験する人はほとんどいないことかもしれません。現実的にというのは、身をもって体験するということです。しかし、見えない思考の世界などでは、頻繁に起こっているのではないでしょうか?
たとえば、ひとつの選択をするのでも、そこに善あり、悪があることもあります。正しいこととそうでないことですね。たとえば、友達が間違った悪い選択をしようとしたときに、どれだけ自分はその友達に正しく良い選択を進めるのか。どのように友達を罪から救うアドバイスを出すのか。などです。
以前私の友達で不法の売買を行っていた人がいました。その人はお金がなく思いつめていました。その人には、また別の夢があり、それにもお金が必要でした。仕事を続けたそうでしたが、私はその友達にはっきりとこういいました。「まず、第一に正しいこと、第二に家族や人に迷惑がかからず、自分勝手でない良いこと、第三に自分が好きなこと。仕事は、これを考えて選ぶべきです。大変な仕事で少ししかお金が入らなくてもこつこつやっていくのならば、きっと神が同意し、神の祝福によってすべて順調に行きます。」真実に伴うことは、相手もその導きを信頼できるようにはっきりと自信をもって話しました。
その友達は、悪い仕事からはなれ、さっきの3つにおける仕事をうまく見つけ、また、夢も実現されました。そして、長い間教会から離れてしまっていましたが、戻ってくることができたのです。
このように、この人の意識の中では、悪い選択をよしとする悪霊の思考と良く正しい選択をしようとする神の霊における思考が戦っていました。真理というのは、だれにでも真理であり、それをうまく示すのならば、そしてそこに神の御意思があるのならば、必ず人はそれに気づきます。
+ 偉大な神に栄光 +
+ また、神の指示に従い全力で福音宣教できていない私たちを神が哀れみ、その霊魂を神の神聖によって清め強めてくださいますように。アーメン +
投稿者 Endless Wisdom、Endless Goodness : 2006年07月25日 11:35
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