« 年間第14主日 (2006/7/9 マルコ6・1-6) | メイン | 年間第16主日 (2006/7/23 マルコ6・30-34) »
2006年07月16日
年間第15主日 (2006/7/16 マルコ6・7-13)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) なぜ「二人ずつ組にして」なのでしょうか? これについてはいろいろな意味が考えられるでしょう。申命記19・15には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」という規定があります。これは裁判のときに複数の証人がいればその証言は確かであるということですが、神の国をあかしする場合も同様に考えられているのかもしれません。また、二人が一緒に旅をするならば互いに助け合うことができ、心強いことも確かです。さらに言えば、互いに助け合い、愛し合う姿をとおして神の国・神の愛を伝えることができる、と言えるかもしれません。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4・13)。わたしたちの中でも同じことが言えるでしょうか?
(2) マタイ10・5-15、ルカ9・3-5、さらにルカ10・2-12(72人の派遣)にも弟子の派遣にあたっての同じような指示がありますが、細部には違いがあります。複数の伝承に基づいて各福音書ができていますが、弟子たちの使命と心構えは、基本的には共通しています。
「杖」は野獣や盗賊から身を守るために用いられることもあり、旅には必要なものと考えられていました。マタイやルカには杖と履物についても禁じることばがありますが、マルコのほうが現実的かもしれません。旅をするのに必要最小限のものは許されるのです。「袋」は食べ物やお金を入れておく袋のようです。「下着は二枚着てはならない」は重ね着を禁じているわけですが、これは野宿のときに着る外套のようなものを持っていくな、という指示かもしれません。だとすれば、弟子たちはどこかの家に泊めてもらうべきだと考えられていることになります(10節参照)。弟子たちには、誰の世話にもならなくてもよいようにすべてを自分で準備しておくことではなく、人と出会い、宿のことでも食べ物のことでも人の世話になることが求められている、と言えるでしょう。必ず迎え入れてくれる人がいる、という約束の背景には、もちろん、神がすべてを配慮してくださるから、ということがあるはずです。
わたしたちは、小さいときから「自分のことは自分でしなさい」と教えられてきました。それはそれで大切なことであるはずです。しかし、神からの派遣(ミッション)を生きるときには、神への大きな信頼と、人との出会いに対する信頼が大切だということでしょうか。
(3) もちろん、すべての人がイエスの弟子たちを受け入れてくれるとは限りません。受け入れられない場合に「足の裏の埃(ほこり)を払い落とす」というのは絶縁を意味する表現だそうです。使徒言行録13・51や18・6では、使徒パウロが同じような仕草をしています。これは「あなたたちのことは神の裁きに任せる」ということであり、自分が恨んだり、自分で復讐しようとはしない、ということだと言ってもよさそうです。それにしても「絶縁しなさい」というのは、冷たく聞こえるかもしれません。むしろ「救いのメッセージを受け入れない人がいることは仕方ない。その人々をどうにかしようとするよりも、救いのメッセージを必要としている人のところ向かえ」という意味で受け取ることもできるのではないでしょうか。弟子の派遣にあたってのイエスのこれらの指示は、文字通り実行すべきことというよりも、「愛する」という唯一の掟のもとで受け取るべきでしょう。
(4) 7節の「汚れた霊に対する権能」は悪霊を追い出す力のことです。12-13節には「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」とありますが、これはイエスがなさってきたことと同じことです。「宣教する」と訳された言葉はギリシア語では「ケリュッソーkerysso」で、直訳では「宣(の)べ伝える」です。「何かの教えを宣べる」というよりも、「神の国を宣べ伝える」のです。これこそがイエスの活動の中心でした。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」(マルコ1・14-15)。
イエスは悪霊を追い出し、多くの病人をいやしましたが、「油を塗って」いやしたという記録はありません。ここにはむしろ初代教会の実践が反映しているようです。ヤコブの手紙5・14-15にこうあります。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦(ゆる)してくださいます。」病者の塗油の秘跡のときに読まれる箇所ですが、初代教会の中でこのような実践のあったことが確かめられます。
復活したイエスの派遣は全世界に向けて世の終わりまで続く派遣ですが、きょうの箇所の派遣は地理的にも時間的にも限定されたものでした。しかし、ここで弟子たちが派遣され、自分たちも働くことができたという体験は、彼らにとって貴重なものだったでしょう。イエスはこのようにして、少しずつ弟子たちを成長させてくださったと言えるのではないでしょうか。そしてわたしたちをも・・・・。
投稿者 ct : 2006年07月16日 14:53
コメント
+ 主の平和 +
福音のヒントいつもありがとうございます。
証人するには、2人以上必要ということですが、2人は、お互いのために神の存在の証人となりえます。私は、今回は、語りつくせませんが、ここに三位一体の神秘が隠れているとさえ思うのです。
兄弟とともに歩くことは、楽しいことです。二人でいると、主の話をします。その話は、バスの中で隣の人が聞いているかもしれません。また、レストランで働いている人、隣で食事をしている人も聞いているかもしれません。これは、神に結ばれた私たちの喜びだけではなく、御言葉を必要としている人へのひそかなプレゼントです。
兄弟とともに歩むときは、罪から免れます。お互い注意しあえるからです。また、お互い、主のもっとも喜ばれる事を行おうと努力できるからです。一人の時は、難しいことでも、ともに喜び合える友、ともに主の慈しみをわかちあえる友がいることは、とてもいいことです。何よりも、兄弟は、主の偉大さを知っていて、主の限りない慈しみと深い愛、つまり苦しみを乗り越えての輝かしい愛を知っているから、これをともにたたえるとができます。
面白い合言葉が兄弟の間で広まっています。
例1:
兄弟1:「主は、正しく慈しみ深い。」
兄弟2:「主は、常に、今もそうだ。」
例2:
兄弟1:「主は、心おおらかで」
兄弟2:「決して裏切らない」
などです。同じ信仰を持つ兄弟姉妹とともにこのような合言葉をつくり、よいことがあるたびにこのように主の偉大さを再度認識し、主をたたえましょう!
短いですが、読んでくださり、ありがとうございます!
主に感謝と栄光+
投稿者 神の子どもたち : 2006年07月07日 22:56
+ 主の平和 +
今日も御言葉によって養われることを感謝しつつコメントさせていただきます。
2)「神がすべてを配慮してくださるから」
このように、主を信頼できることは、そしてその信頼が実現される、つまりすべてとは言わずとも、たくさんのものを失って、なおかつ主を信頼することは、このえなく安らぎをもたらし、また主の救いの手に確信を持てることであります。
ぎりぎりの状態になってしまっても、あきらめず主を信じて、素直に、小さな子供が父親にお願いするようにお願いすることでたくさんの危機を乗り越えてきた兄弟たちがいったいどれくらいいることでしょうか!
そこには、「私たちを愛してくださる主は、私たちを決して忘れはしない、なぜなら、神は愛そのものであるから。私は愛を壊す悪を信じない。私は、信じ続け、主を待ち望もう。」という思いがあります。
私もこのような信頼を主に捧げ、奇跡的に何度も主は私を危機から脱却させてくださいました。これは、まるで出エジプトが私の内ににて起こっているかのようでした。そうです、主の言葉を信じ、それによって生きるのならば、聖書の物語は、私たちの中で、また生活の中で、そして私たちを取り巻く世界にて「起こる」のです。だから、主は、生きた言葉と言われるのでしょう。
ですから、今では、そのような危機を私は大変感謝しています。それがなかったのならば、私は主にすべてをゆだね信頼し待つチャンスがなかったからです。心の貧しいものは、幸いである。という主の言葉を思い出します。また、「私の名において命を失うものは、それを得、それを求めるものは、それを失う」という言葉が響き渡ります。
主が、パンを増やした奇跡が聖書には書かれています。司祭も含めたくさんのカトリック信者は、これは抽象的な意味で、実は、集まった人が主の愛に心が動き、自分たちが持ってきた食べ物を分け合ったと考えています。私は、これを決して否定しません。しかし、だからといって、これを理由に主がパンを増やさなかった、という考えは、正しく成り立ちません。そう考えるのは、あくまでも人間の感覚における解釈であると思います。私は、神秘において主は実際にパンを増やしたのであろうと思うのです。
なぜならば、主は、大勢の中でなく、たった一人にも主を信頼するものに、ないはずのものを主の神秘において与えてくださるからです。主は、天使をつかわし、人を遣わし、動物や自然を動かし、また、見えない世界からも私たちに必要なものを確かに準備し与えてくださるのです。これを経験できるのは、その、目に見える世界を超越した神の神秘を信じて待ち望む人々です。
実際には無理としても、心の祈りにおいては少なくとも「すべて」を主にお捧げすることは大切です。すべてを失って、空っぽになってこそ、そこに神が入ってくる場所ができるのですから。また、私たちは、死を前にこの世の何も、それは、財産、地位、家族、名誉等すべて持っていけません。それを思えば、心においてすべてを主に返す祈りは、少しやりやすくなるかも知れません。
すべてのものの創造主である主は、一番豊かな方で、何もなくなってしまった私たちにもそれを良しとされるのならば、信じられないほどの富、これは物理的な意味と精神的な意味と両方ですが、これらをお与えくださいます。
すべて良いものの源である主に感謝!
投稿者 創造主と土 : 2006年07月11日 14:46
+主の平和+
3)「「足の裏の埃(ほこり)を払い落とす」というのは絶縁を意味する表現だそうです。」
これは、ある意味では、とても大切なことでもあるようです。というのは、私たちが宣教する際、私たちを陥れようとする悪魔が働く場合が多くあります。悪魔はとても賢いですから、私たちの弱みをよく知っていて私たちを惑わせます。私たちは、まったく主の言葉を受け入れない人々にも必要以上に頑張って宣教し信じさせようとしようとしてしまうことがあります。
しかし、これによって、反対に私たちが相手から受けるあらゆる影響によって落ち込んでしまったり、それならまだしも、その相手と平和をたもてず神に対して罪を犯してしまったりします。また、その裏に、自分がこの人に信仰を与えたという誇りを得たいという野望があることもありえるのです。このような罪に落ちたときに、悪魔はどんなにはしゃぎ喜んだことでしょうか! + このようなことから私たちが免れますように +
信仰は、人によって与えられるものではなく、神によって与えられるものです。ですから、私たちにとって、御言葉を伝えることは、義務であっても、信じさせるのは、義務ではありません。それは、私たちの能力を超えた事柄です。また、今信じなくても、あるいは、聞き入れなくても、いずれ主が選ばれた時期にこの人は、神を知るだろう(最後の時、主を信じたものも信じないものも皆神を知るといわれています)と神を信頼することが大切です。また、神はすべてにおいての決断者、管理者として見ることが大切です。私たちは、あくまでも単なる神の使いなのですから。
「Ego Sum Anchillae Domine.」
私は、神の使い人である。
「「救いのメッセージを必要としている人のところ向かえ」」
とありましたが、まさに、私たちの宣教も、神の栄光につながるものであるべきです。御言葉を聞き入れない人々と不仲になり、心に憎しみと怒りがあることは神の栄光にまったく反することです。そのように過ごすくらいならば、その時を御言葉を受け入れる人、あるいは聴きたがっている人々に伝え、神をあがめる人々が増えることを神は喜ばれるのです。
今日もまた、神のすばらしき神秘について聞かされた人々が心において神の祝福を受け、神をたたえるものとなりえますように!
+++
投稿者 主の栄光 : 2006年07月12日 21:59
「主の栄光」さまのラテン語の引用は
"Ego sum ancilla Domini"だと思いますが、いかがでしょう?
投稿者 ぐれごり屋 : 2006年07月16日 21:07
+主の平和+
まさにそうです。 私が書いたのには、間違いがありました。
ご訂正ありがたく思います。
ちなみに、これは聖母マリアの言葉からとっているものでもありまして、ルカでは、聖母は大天使ガブリエールにすべて御言葉通りにこの身に起こりますようにと言っています。
Ecce ancilla Domini fiat mihi secundum verbum tuum. 訳:(これは/はしため/主の/起こる/私において/~の通り、~において(直訳ではない可能性があります)/言葉/あなたの)
また、ここにでてくる、Fiat はフィアットと読み、主の祈りに出てくる、
Fiat voluntas tua (御心通りになりますように)と同じ言葉です。
それから、間違いについてですが、「Domine」, というのは、例えば、「Domine Iesu!」(主イエス!)、などのように、主を呼ぶ場合使われるようです。「Domini」は「主の~」というときに使われていて、例えば、「Verbum Domini」 のように、これは主の言葉というときに使われます。
また、間違いなどございましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます。
すべて主の意のままに +++
投稿者 Gloria tibi, Domine! : 2006年07月18日 21:44
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。