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2006年07月09日
年間第14主日 (2006/7/9 マルコ6・1-6)
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教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) イエスの育った故郷は、ガリラヤのナザレという村でした。右の写真は、マリアが天使からお告げを受けたことを記念して建てられた「告知教会」から見た今のナザレの町並みです。今は何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町ではなく、有名な町でもありませんでした。ナザレには会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。他の町や村で病人をいやしたイエスの評判はナザレの人々にも届いていたのでしょう。ナザレの人々は会堂で語るイエスに注目しています。
(2) マルコはイエスが教えたことの内容をいちいち伝えません。それはいつも「神の国の到来の福音」(マルコ1・14-15参照)であったと考えればよいでしょう。ルカ4・16-30には、イエスの活動の初期の出来事として、ナザレの会堂での出来事が伝えられています。そこでイエスはまず、イザヤ書の61章(1-2節)を朗読しました。
「『18 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。』20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」
苦しむすべての人を解放する神の救いの時が、今まさに始まっている。これがイエスの神の国のメッセージでした。人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであることにつまずくのです。
(3)「この人は、大工ではないか」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。アラム語では「いとこ」にあたる言葉がないので、この箇所の「兄弟」「姉妹」という言葉の中にはいとこも含まれているそうです。教会の伝統では、母マリアはヨセフと結婚してからも生涯処女のままで、イエス以外に子どもがいなかったと言われてきましたが、それと矛盾するわけではありません。
ナザレの人々は「つまずいた」(3節)と言われ、また「不信仰」(6節)とも言われています。ナザレの人々はなぜイエスにつまずいたのでしょうか? なぜ信じなかったのでしょうか? いろいろな理由が考えられますが、以下の(4)と(5)で2つのことを考えてみましょう。
(4) 大工の子は大工になる。それが村の常識でした。「この村の一員であり、この家族に属し、この職業についている」ナザレの人々は、イエスの村での立場をよく知っていたので、かえってその見方を超えることができず、イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」だと言われるのです。
わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家柄で、どんな職業で、どんな資格があって・・・。しかし、本当に見るべきなのは、その人の中にある神とのつながりの部分なのではないでしょうか。
(5) ナザレの村は生活と信仰のコミュニティー(共同体)でした。自分たちの中心に神がいてくださることを人々は安息日の礼拝をとおして確認していました。そこには律法による秩序があり、その秩序からはずれた人は排除されました。一方、イエスは「アッバ(お父さん)」である神のもとで、すべての人が兄弟姉妹として生きる道を示しました。そして、実際に村のコミュニティーから排除されているような人々と関わっていきました。病気のために汚れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々・・・。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったでしょう。
イエスはアッバのもとでの新しいコミュニティーを作り出していきます。イエスから始まるこの新しいコミュニティーは、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きるコミュニティーなのです。わたしたちのコミュニティーはそうなっているでしょうか?
(6) ナザレの人の「不信仰」とは、イエスを「預言者」として受け入れないこと、つまり、イエスによってもたらされた神の国のメッセージを受け入れないということでした。
5-6節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」というのは不思議な言葉に聞こえるかもしれません。イエスが人をいやす力を持っているならば、相手の信仰とは無関係にイエスはその人々をいやすことができたはずではないでしょうか。しかし、ここでは、イエスの行なう奇跡は相手の信仰に左右されるというのです。先週の箇所の「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」でも、「いやし」における信仰(信頼)の役割が重視されていました。福音書の中で「信じること」とは、「何かの信仰箇条に同意する」ということではなく、「神に信頼して、自分を委ねていくこと」です。そしてそれは神の救いを受け取るために、必要不可欠な人間の態度なのです。
投稿者 ct : 2006年07月09日 15:44
コメント
+主の平和+
福音のヒントありがとうございます。それから、ナザレの写真もありがとうございました。主が歩かれた土地にも私も絶対に行きたいです。
(少々余談ですが、実は、2003年ごろに主にある神秘を通じて主に呼ばれていますので、きっといつかイスラエルの土地に私は行くことでしょう! 危険もあるところかと思いますが、主にお答えするのは私の喜びです!)
「苦しむすべての人を解放する神の救いの時が、今まさに始まっている。」
これは、実に今すべての人に伝わり成し遂げられるまで常にあらゆるところで始まっているのでしょうか。これを思い起こすことで私たちの心は神の王国を告げることに対する喜びで満たされます。
3)
人間は観念的な思考をするようです。しかし、今までいったいどれだけの身分の低い人、目立たない人、嫌われる人、疑われる人、憎まれる人が聖人になったことでしょうか!ですから、私たちも本当に神の神秘、そして神の姿を追い求めるならば、さまざまな観念を超えて主がお隠れになる人々に接して、その神秘を経験ることと思います。実際に私も主が本当に「隠れて」人々に現れることを経験したことがあります。主のお姿や言葉をそこに発見できるのならば、これは最高の喜びで、宝物です。
4)
「イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していること」
「その人の中にある神とのつながりの部分」
私たちは、一人一人、皆神とのかかわりがあります。そして、キリストにつながるものは、お互いつながっています。それはどうしてこう断言できるのかといえば、その人が結ぶ実、つまり言葉とも言われていますが、それによって確かにわかるのです。その言葉は、私たちに与えられている御聖霊がつげ知らせてくださることと同じことを言うからです。私たちには信仰において同じ霊が宿り、たとえどんなに地理的に離れていようとも、世代が違おうとも、この同じ霊によってその連帯性を経験することができます。これが教会が一つである理由ともいえないでしょうか? 同じ霊によって語られているのですから、私たちはたとえば、遠くの熱心な信者、司教や教皇が語ることが自分の心にて理解している同じことであることを発見できます。
そして、発見した人々だけ出なく、世界にはまだまだたくさんの兄弟が同じ証をしているのです!
5)
「イエスは「アッバ(お父さん)」である神のもとで、すべての人が兄弟姉妹として生きる道を示しました。」
「イエスから始まるこの新しいコミュニティーは、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きるコミュニティーなのです。」
アッバ!これは、私たちの信頼する、優しく暖かい神、私たちの天のお父さんです。そうです、神が私たちのお父さんになってくださったことは、なんという喜びでしょうか!私たちは、この父において一つの大家族で、キリストは、一番従うべし兄弟であり、模範であり、主であります。主は私たちをもう僕とは呼ばないといいました。それは、父について私たちに明かされたからです。私たちは同じ父を持つキリストの兄弟としてくださったのです。ですから、私たちは、キリストのそのような愛を模範として、父の栄光につながるようにお互いを愛し合いましょう。
「わたしたちのコミュニティーはそうなっているでしょうか?」
コミュニティーは、だれかが始めなければ始まりません。私は、主が恐れるな、私が共にいるとおっしゃってくださったので、私が始める事にしました。天国のものは常に神を賛美し感謝していると聞きます。私は、その場所にどんな人でも向かえ入れたいと思うのです。そして、弱きもの、不安を抱えているものは、スターです。なぜなら、その人たちのうえに神の深い愛がよく照らされるからです。
そして主の使いに呼ばれるのならば、私も兄弟を呼び集めます。もし私が兄弟が集まり主をあがめるのならば、主の御業をたたえるのならば、私もそこに集まりたいです。
私たちは、愛を注ぐとき、それを喜ばない人や迎え入れない人に出会います。これは、実に悲しみ以上に心の苦しみを生み出します。でも、そのとき、私たちは、同時にその痛みに感謝することができるのです。そのとき、少しだけ、主が苦しまれた愛についてわかりえるのですから。でも、主はいったいどれだけの涙と血を流されたことか。そして、私たちが愛に反することを行うことを聖母の心が痛まないはずもありません。聖母の心も本当に砕けてしまうのです、私たちの愛のたらなさのために。ですから、私たちは、絶え間なく主の慈しみを思い、そして謙虚になり哀れみと感謝の気持ちを持ち続けましょう。
Regnum Dei Intra Vos Est
「神の国はあなた方のうちにある」と主はおっしゃられました。信頼における信仰なしには、神秘も奇跡も救いもありません。
読んでくださりありがとうございます。神に感謝!
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投稿者 神の家 : 2006年06月30日 22:58
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