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2006年07月02日

年間第13主日 (2006/7/2 マルコ5・21-43)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 先週の福音でガリラヤ湖の嵐を静めた(マルコ4・35-41)後、イエスは向こう岸の異邦人(ゲラサ人)の地に渡り、そこで悪霊に取りつかれた人をいやしました(5・1-20)。そこから再びユダヤ人の地に戻って来てきょうの箇所になります。きょうの福音では、2つのいやしの物語が伝えられています。おそらくここでは「信じる」というテーマが重要だと言えるでしょう。この「信じる」というテーマは、先週の箇所(5・40)にも来週の箇所(6・6)にもはっきりと表れています。

福音のヒント

  (1) きょうの箇所は、21-24節と35-43節のヤイロの娘の話の間に、25-34節の出血の止まらない女の話が挟まれる、サンドウィッチのような形になっています。
まず、25-34節について見てみましょう。「出血の止まらない女」と言われていますが、これは一種の婦人病のようです。彼女は肉体的にも経済的にも苦しんでいましたが、それだけではない苦しみもありました。レビ記15・25-27にこういう規定があります。
 「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚(けが)れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている
 彼女は、重い皮膚病の人と同じように「汚れた者」というレッテルを貼られ、神から断ち切られていましたが、同時に汚れを移さないよう、人に近づくことも禁じられていて、人との交わりからも断ち切られていました。

  (2) 人に近づくことが許されなかったので、彼女は「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。このような行為は、いやしの力を盗むことで許されないと考えられていたようです。彼女は「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づ」きます。イエスと彼女は、二人の間で起こったことを体で感じたようです。そしてイエスは彼女を見つけ出そうとします。なぜでしょうか?「ただ病いがいやされたということで終わるのではなく、イエスに出会い、イエスと人格的な交わりを持つことが本当の信仰だからだ」という説明もあります。もちろんそうとも言えます。しかし、もっと単純に、「いやしを盗んだ」彼女の後ろめたさと恐れを取り除くためだったと言ってもよいかもしれません。イエスは彼女の態度を「信仰」として評価し、彼女の心に「安心」を与えていくのです。

  (3) 「あなたの信仰があなたを救った」(34節)は福音書の中で何度か繰り返される言葉です(マルコ10・52、ルカ7・50、17・19など参照)。これは不思議な言葉です。「神が救った」あるいは「イエスが救った」というのが本当ではないでしょうか。
 「信仰」と訳された言葉はギリシア語では「ピスティスpistis」で、36節の「信じる(ピステウオーpisteuo)」の名詞形です。「信じること、信頼」と訳すこともできます。福音書の中で語られる「ピスティス」とは、頭の中で「神がいる」とか「イエスはキリストである」と信じている、ということではありません。あきらめや不安を乗り越え、神に信頼を置いて生きるという態度なのです。きょうの出血症の女性のように、この人なら自分を救ってくれると信じて、必死の思いでイエスに向かって行く姿勢そのものが「ピスティス」だと言ったらよいでしょう。すべての人の父であり、すべての人に救いの手を差し伸べておられる神に対して、イエスご自身が深い信頼を寄せていました。イエスは同じ信頼を人々の中に呼び覚まします。神の救いを受け取るためにはこの「ピスティス」が不可欠なので(マルコ6・6、来週の福音参照)、イエスは「ピスティス」を最大限に評価したのでしょう。

  (4) イエスがこの女性に関わっている間に、ヤイロの娘が死んだという知らせが届きます。出血病の女性の話は、ヤイロの話の展開に重要な意味を持っています。ヤイロや他の人々は、娘が生きているうちにイエスを呼べば助かる、しかし、死んでしまってはいくらイエスが来てももう遅いと考えていたはずです。イエスはこのヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と言います。出血症の女性の話は、ヤイロの娘の話に「信じる」というテーマを導き出す役割を持っているのです。このサンドウィッチのような物語の展開はただ単に時間的にそのように起こったというだけでなく、テーマの関連があるからこそ、このような形で伝えられてきた、と言えるでしょう。

  (5) 「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」は最初の弟子で、特にイエスに近い弟子だったようです。彼らだけを連れて行ったこと、また「死んだのではない。眠っているのだ」というイエスの言葉は、どちらも奇跡を隠そうとしているのだと言えるでしょう。イエスはこの奇跡を人々に見せびらかすためにしたのではありません(なお、死は眠りに過ぎないという考えは、イエスの復活を知った初代教会の人々の確信でもあります)。
 「タリタ・クム」はアラム語です。新約聖書は1世紀の地中海周辺地域の共通語であったギリシア語で書かれましたが、イエスが話したアラム語がそのまま残されている箇所がいくつかあります(マルコ7・34、15・34参照)。これらの言葉がアラム語のまま伝えられたのは、イエスの声の響きが聞いている人の耳によほど印象的に残ったということではないでしょうか。言葉には「ものごとを説明する」という働きがありますが、もっと根源的には「相手に働きかけ、相手を変える」働きがあります。創世記1・3の「光あれ」のような力強い言葉として、イエスの言葉は人々の耳に(また、死んでしまったこの少女の耳にも)響いたのでしょう。ここには、必ずこの人にわたしの声が届くはずだ、というイエスの深い信頼(ピスティス)を感じとることができるでしょう。イエスは同じように、きょうもわたしたちにやさしく力強い声で語りかけてくださっているはずです。

投稿者 ct : 2006年07月02日 10:58

コメント

+主の平和+

福音のヒントいつもありがとうございます。

2)「イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づ」きます。」
私は、聖書の中において主の力の入出については他の箇所にはあまり話されていないと思います。ですから、ここを一番初めに読んだときには、「主のエネルギー見たいのがあって、それは注がれ流れて行き、流れば、それは減り、流れた先にはそれが増えるのか。」と改めて認識させられました。

「ただ病いがいやされたということで終わるのではなく、イエスに出会い、イエスと人格的な交わりを持つことが本当の信仰だからだ」という説明もあります。
「もちろんそうとも言えます。しかし、もっと単純に、「いやしを盗んだ」彼女の後ろめたさと恐れを取り除くためだったと言ってもよいかもしれません。」

とありましたが、私は、大変深い意味があらわされていて、読みながらとても深くうなずきました。実際の理由以外にも何か学んだような気がしました。少々話のポイントがづれて申し訳ありませんが、まずこのコメントの出し方の良い点を指摘したく思います。と、言うのは、聖書の解釈において犯しがちな間違いの一つとして、自分の意見を通したいがために他の人の意見を間違っていると言ってしまうことがあります。ですが、より深い真実というのは、すべての正しいことを肯定し内在した上でなおかつまだ正しい事柄であると思います。その点において、「後ろめたさと恐れを取り除くため」ということは、すでに「イエスと人格的な交わりをもつため」でもあり、それよりも具体的でなおかつ「愛」がその行為に実現しています。ですから、初めの理由よりもなお深く、真実をより深く説明していると思いました。ですから、深くうなずいたのです。


3)「この人なら自分を救ってくれると信じて・・・」

私は、以前神の存在を知る前に、聖書に出てくる主イエスが、まことに存在する神の子であるならばどんなにいいだろうと思いました。しかし、初めは本当かどうか分からないことを信じることはできませんでした。もちろん真実であるからこそ信じようと思えるというのは一般常識的なことであると思います。しかしながら、裏返せば、信じないというのは、うそかもしれないからという疑念がそこにあるわけで、また、信じようと思うのは、本当かもしれないという希望がそこにあるわけです。

そして私は、現代に行きながら、もしイエスが本当に神の子ならば、「この人なら、自分を救ってくれる」と思いました。また、不思議なことに、そこにもし「本当なら」という前置きがある希望における信仰であったにもかかわらず、本当に主に出会うことができたのです。主は、主に希望を持ち叫ぶ人々を見放したりはしないのです。+神に栄光+

「すべての人の父であり、すべての人に救いの手を差し伸べておられる神に対して、イエスご自身が深い信頼を寄せていました。」

この言葉は、なんて喜びをもたらす言葉なのでしょうか!そうです、主イエスの御父に対する信頼こそが、完璧な信頼で、そこには、すべてを愛される神の神秘が隠れていて、それこそがすべての人々を罪から解放する糸であるのではないでしょうか。います。神をより深く知るためにイエスの御父への信仰への理解は不可欠であると思います。


5)「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」は最初の弟子で・・・」

とありますが、主はいくつかの神秘においては指定した弟子にしかお示しになりませんでした。

少々戻ります。
1)関連性についてですが、立場、信仰心、それから神秘におおいて関連していると思いました。

・身分が低い出血症の女性。
身分が高い会堂長ヤイロの娘。
 
・12年も止まらない出血。途絶えない信仰。注がれる癒しの力。女性の回復。

病気。(おそらく12年は続いていない病気です)生きていたら何とかなるかも、でも死んでしまったら無理だと疑う信仰心。癒されず死んでしまう。・・・復活。

まず、イエスは、ヤイロの娘に会うための道のりでした。しかし希望を捨てることのない信仰をもつ出血症の女性が現れ、そこで、本来ヤイロの娘に注がれるべきイエスの力は出血症の女性に注がれ、その女性を癒し、反対に疑いのある信仰を持っていたヤイロの娘は死んでしまいます。・・・これは、とても理解のできる事柄です。その女性は、当時の認識において「癒しを盗む」という行動に入ってしまいますが、主は「あなたの信仰があなたを救った」、っとおっしゃっています。主は、この女性はその信仰によって癒されるべきであるとみなされたのです。
また、死んでしまってはどうにもならないとあきらめていたヤイロに対し主は「恐れることはない。ただ信じなさい。」と励まされました。主の力は、絶え間なく永遠の神である父から注がれ、満たされ、それによって一度死んでしまったヤイロの娘の命を蘇らさせ、それと同時に一度死んでしまう信仰心を永遠のものとならしめた。主は、人間が希望を失う命の終わりに対して、新しい信仰と希望を持たせることを良しとされたのです。

6)
「イエスは同じように、きょうもわたしたちにやさしく力強い声で語りかけてくださっているはずです。」

はい。今日も私は主から勇気を頂きました。主は、私に言います。「平和の勇者になりなさい。」もう、何も恐れることはない。主がいるのだから。

愛と真理に伴った生き方をしようとするとき、人は私達を遠ざけるかも知れない、でも、人を失うこと、それを恐れてはいけない。主は常にともにいるのだから。友に何人遠ざけられても、主が離れてしまうよりはずっといいのです。主は、主の使わす人と主が換えられた人々を私達の方へ送ってくださるのだから。


投稿者 平和の勇者 : 2006年06月24日 23:01

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