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2006年06月26日

年間第12主日 (2006/6/25 マルコ4・35-41)

教会暦と聖書の流れ

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 四旬節~復活節という長い期間を終え、三位一体の主日とキリストの聖体の祭日を祝った後、教会の暦は再び年間主日の流れに戻ります。年間主日のミサの福音のテーマは、イエスの活動の様子を順を追って思い起こすことです。今年はマルコ福音書を通してイエスの活動の跡をたどっていきます。マルコ4・1に「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」とあり、そこからイエスはさまざまなたとえを用いて神の国について語りました。きょうの箇所の冒頭にある「その日の夕方になって」は、この場面からつながっているようです。

福音のヒント

  (1) 「向こう岸」はマルコ5・1を見ると「ゲラサ人の地方」でした。ゲラサはガリラヤ湖東南のデカポリス地方の地名ですが、ガリラヤ湖からは遠いので少し不自然な感じがします。マルコは、デカポリス地方の中心であった「ゲラサ」という町の名を挙げて、その地方全体を指しているのでしょうか。「デカポリス」とはギリシア語で「10の町」の意味です。そこはユダヤ人から見れば異邦人の世界でした。イエスが異邦人の土地に向かおうとしたのは、異邦人にも神の国の福音を告げるためだったと考えてよいでしょう。「向こう岸に渡ろう」と呼びかけるイエスご自身は、神のみ心に従い、自分のすべきことを自覚していますが、弟子たちはそうではなかったようです。38節の「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という弟子たちの叫びは、「本当は行きたくないのに先生が言うから船出した、その結果がこんなありさまだ」という不平のようにも聞こえます。

  (2) ガリラヤ湖は、大きさとしては茨城県の霞ヶ浦よりやや小さい湖です。すり鉢状の地形になっていて、突然嵐が起こることがあったようです。「艫(とも)」は船の一番後ろの部分です。イエスが眠っている姿は、恐怖にうろたえている弟子たちの姿と対照的です。イエスが「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた」というのは悪霊に対する態度とよく似ています。マルコ1・25では、イエスが悪霊に向かって「『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになる」という表現がありました。海や湖は人にとって危険に満ちた場所で、しばしば悪霊の住みかとも考えられていたようです。表現から見ると、きょうの話は「悪霊を追い出す」話と似たものがありますが、全体として見れば、いやしの奇跡というよりも、やはり自然現象に働きかけた奇跡だと言えるでしょう。

  (3) このような奇跡の話を素直に信じられるでしょうか? 信じられるという人もいれば、とても信じられないという人もいるでしょう。もちろん今となってはそこで実際に何が起こったかということは確かめようもありません。ただし、このような話を初代教会の人が考え出した単なる作り話だと片付けることはできないでしょう。弟子たちはイエスと一緒にいたときに、何かしらこのような不思議な体験をした、それが語り伝えられ、今の福音書のような形で書き記されたのだ、と考えるほうが自然です。もちろん実際には、ガリラヤ湖であるとき急に嵐にあい、なぜかその嵐が急に止んだというだけだったのかもしれません。しかし、そこにいた弟子たちはその出来事をとおしてイエスをまったく特別な、神からの力を持った方と見るようになっていったのです。このような弟子たちの体験と共通するものは、わたしたちの中にもあるかもしれません。

  (4) イエスは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)と言われますが、ここでは「怖がること」と「信じること」が対比されています。「怖がること」は必ずしも悪いことではないはずです。実際にわたしたちの回りにはいろいろな危険があるのですから、恐怖心や警戒心を持たなければ人は生きていけないはずです。ただ、問題は「恐怖」にとらわれて、わたしたちが何もできなくなってしまうことです。危険は確かにある、しかし、それでも本当にすべきことをしていくことができる、それが「神に信頼する」ことだと言ったらよいかもしれません。信頼とは、恐怖心や不安を乗り越える力なのです。
 40節の「怖がる」と41節の「恐れ」は違います。「恐れ」には「畏(おそ)れかしこむ」の意味もあります。ギリシア語では「恐れ」も「畏れ」も「フォボスphobos」で区別がありません。「恐れ(畏れ)」は不信仰を意味しません。それは神の存在と圧倒的な力に触れた人間の当然の態度だと言ってもよいでしょう。
 「いったい、この方はどなたなのだろう」という疑問でこの話は終わっています。マルコはここで、答えを出しません。この問いへの一つの答えは8章にあります。その時まで、イエスと共にいて、イエスのなさることを見てきたペトロが、「あなたはメシア(キリスト)です」(8・29)という信仰告白をすることになります。ただ、きょうの箇所では、マルコはイエスとは誰かということの答えを出すよりも、イエスの姿をしっかり見つめ、イエスの素晴らしさを感じ取るよう、読者に促しているのではないでしょうか。

  (5) 初代教会の中で、このような出来事はどんなときに思い出されたのでしょうか。教会の活動がうまく進まないとき、嵐の中の舟のように、逆風のためにこぎ悩み、舟が沈みそうに感じるとき、しかも、イエスがまるで「眠っておられ」るかのように、なんの助けも感じられないときだったのではないでしょうか。その中でこの出来事を思い出し、イエスへの信頼を取り戻し、困難を乗り越えることができた、そういう体験が初代教会の中に何度も何度もあったでしょう。わたしたちの中にもそういう体験があるでしょうか?  イエスが復活して今もわたしたちと共にいる、ということは、もしかしたら平穏な無風状態のときよりも、嵐のような困難の中でこそ、深く受け止めることができるのかもしれません。そのとき、わたしたちは「向こう岸に渡ろう」「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」というイエスの言葉を、わたしたち自身に向かって語られる、復活のイエスの力強い励ましの言葉として聞くことができるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 15:22 | コメント (3)

2006年06月18日

キリストの聖体 (2006/6/18 マルコ14・12-16, 22-26)

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 聖体の制定を記念するミサは、聖週間中の聖木曜日に行なわれる「主の晩さんの夕べのミサ」です。しかし、復活節が終わった後、改めてキリストの聖体の祭日を祝います(本来は聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。この日も先週の三位一体の主日と並んで、四旬節・復活節のまとめと言えるでしょう。聖体の秘跡とはイエスの受難・死・復活にわたしたちが日々結ばれて生きるための秘跡だからです。B年の福音朗読は、マルコ福音書の最後の晩さんの箇所です。

福音のヒント

  (1)  過越祭は春の祭で、元来は農耕生活に関連した祭だったようですが、エジプト脱出という救いの出来事の記念祭として祝われるようになりました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された救いの歴史の原点を記念する過越祭は、1年でもっとも大きな祭でした。過越祭に始まる1週間の祭の期間が「除酵祭」です。「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。
 マルコ福音書はイエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。ヨハネ福音書では日付が1日ずれています(ヨハネ18・28参照)が、いずれにせよ、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらすもの(新しい過越)であると考えているのです。

  (2) 水がめを運ぶのは当時、女性の仕事でした。ですから、男性が水がめを運んでいれば、特別な目じるしになります。イエスはこの過越の食事をする場所の手配を誰かに頼み、しかも、それを普通には分からない方法で弟子たちに教えようとしたことになります。弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。
 それにしても、イエスはなぜこのように暗号のような指示をしたのでしょうか。一つの考えはこうです。ご自分に迫っている危険を予感し、受難が避けられないことを知っていました。その中で、イエスは外部の人に分からない場所でこの食事をしようとしたのです。それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの思いの表れではないでしょうか(ルカ22・15参照)。わたしたちはこの食事に込めたイエスの思いをどれほど深く受け取ることができるでしょうか。

  (3) 「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」は、5つのパンを大群衆に分け与えたとき(マルコ6・41)の動作とまったく同じです。ユダヤ人の食事の際には、家長に当たる人がそのようにするのが普通だったと言われています。しかし、イエスはここで特別なことを言いました。「体」は人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は「これはわたしだ」という意味だと言えます。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることです。イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたと言ったらよいでしょう。
 杯についての言葉は、新共同訳では「わたしの血、契約の血」となっていますが、原文では「血」という言葉は1度しか使われていません。直訳では「契約の、わたしの血」です。「契約の血」は出エジプト記24・8にある言葉です(第一朗読)。牧畜民族にとって「契約」と「血」は切り離せないものでした。それは、その契約がお互いの血を賭けたもの、命がけのものであることを表したのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」という表現に似ていますが、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」です。イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚していたことになります。

  (4) 「契約」という言葉は聖書の中で「神と人との特別な関係」を表す言葉です。出エジプト記24章で結ばれた契約は、シナイ契約と呼ばれています。紀元前13世紀、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、その救いを体験した民は神との特別な関係を生きることになります。これを表すのが「契約」という言葉です。そこではイスラエルの民が神に対し、人に対してどう生きるべきかを示す道として「律法」が与えられました。しかし、イスラエルの民は神との関係、人と人との正しい関係を見失っていきます。そこで紀元前6世紀のバビロン捕囚時代の預言者たちは、「新しい、永遠の契約」を予告することになります。典型的なのはエレミヤ書31章です。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・33-34)

  (5) イエスの死によって実現したのはまさにこの「新しい契約」だ、というのが新約聖書の中心テーマです。それはどういう意味でしょうか。イエスの生涯全体の歩みを見れば、イエスという一人の人の中で上のエレミヤのことばが完全に実現していたと言えるでしょう。もう一つには、わたしたちがイエスの十字架の姿を見たときに、神の深い愛の心を悟り、エレミヤのこの言葉を生きるものに変えられていくという面もあるはずです。それこそが聖体の意味でもありますが、本当にわたしたちの中で実現しているでしょうか。
 25節の「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」は受難予告のような言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」ということによって、最終的な完成に向かう意識が強調されています。「新しい契約」は確かにイエスによって実現しました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。

投稿者 ct : 12:08 | コメント (1)

2006年06月11日

三位一体の主日 (2006/6/11 マタイ28・16-20)

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 教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音の箇所は、マタイ福音書の結びの部分です。

福音のヒント

  (1) 弟子たちは、イエスの墓で告げられていたとおり(28・7,10)、ガリラヤでイエスに会います。「山」はマタイ福音書の中で、特別に神との出会いの場、神の啓示の場です(マタイ5・1、17・1など)。17節に「しかし、疑う者もいた」という訳がありますが、直訳では「しかし、彼らは疑った」であり、11人全体が「ひれ伏しながらも疑った」と受け取ることができます。ここで疑いを克服するのはなんらかの目に見えるしるしではなく、18-20節のイエスの言葉です。17節の「権能」は「権威」とも訳されますが、日本語の言葉としてはあまりいい響きではないかもしれません。内容としては、「父である神がイエスに、すべてのことをゆだねた」と受け取ればよいでしょう。

  (2) 19節のイエスの命令には4つの動詞が使われています。「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」です(「弟子にする」も「洗礼を授ける」も原文ではそれぞれが1つの動詞です)。このうちギリシア語で命令法が使われているのは「弟子にする」だけです。その他は分詞の形なので、形の上から見て、この命令の中心は「弟子にする」ことだと言えます。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は「弟子にする」ことの具体的な内容なのです。マタイ福音書でのイエスの活動は、ガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしたことから始まりました(4・18-22)。そしてすぐに、山上の説教で弟子たちの生き方を教えました(5-7章)。この福音書全体をとおしてのイエスの活動を「弟子作り」だと言ってもよいでしょう。そして、この「弟子作り」というイエスの使命が、ここからイエスの弟子たちに受け継がれていくのです。もちろん、弟子たちの使命は自分たちの弟子を作ることではなく、「わたし(イエス)の弟子」を作ることです。

  (3) 「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来の意味は「(水に)浸す、沈める」です。「名によって」の「名」は単なる呼び名というよりも、そのものの本質を表すものです。「~によって」は「~の中に」という前置詞が使われています。
 「父と子と聖霊」という言い方は聖書の中でこの箇所だけにあります。ここにはマタイのいた教会での洗礼式の式文が反映しているようですが、ただ単に「父と子と聖霊という名を言いながら洗礼式を行なう」ということよりも、この洗礼が、「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」ことなのだということが大切でしょう。

  (4) マタイ福音書の結びに当たる「共にいる」(20節)という約束は、この福音書全体の結論とも言える言葉です。すでに誕生前からこのように約束されていました。
 「『見よ、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1・23)
 イエスの生涯と活動全体が「神がわたしたちと共におられること」を表すものでした。そして、いまやそれは「復活して神と共に永遠に生きる方・キリストが共にいてくださる」という約束になっているのです。
「いつもあなたがたと共にいる」は力強い約束です。わたしたちはそれをどんなふうに感じることができるでしょうか。自分のうちにイエスがいて、内面で自分を支え導いてくださると感じる人もいるかもしれません。また、イエスが自分の人生の歩みに寄り添い、目に見えないがいつも共に歩んでくださると感じる人もいるでしょう。わたしたち一人ひとりにとっての「共にいてくださるキリスト」のイメージを分かち合えたらよいでしょう。

  (5) マタイ福音書にあるイエスの言葉では、次の3つの箇所がヒントになるでしょう。
18・20 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 イエスは信じる者の集いの中にいてくださるという約束ですが、大きな組織としての教会というよりも、共に祈る小さな集いを思い浮かべたらよいのではないでしょうか。信仰の道を一緒に歩んでくれる仲間とのつながりの中にイエスが共にいることが感じられるという体験は、わたしたちの中にもきっとあるはずです。
26・26-27「取って食べなさい。これはわたしの体である。・・・皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 教会が集まって賛美と感謝をささげ、パンとぶどう酒を用いてイエスの愛を記念するとき、キリストは共にいてくださいます。この「共にいてくださるキリスト」は奉仕者の手をとおして、病気や高齢で教会に来られない人にも届けられます。聖体はいつも、わたしたちがキリストに結ばれた者、「キリストの体」である教会共同体のメンバーであることを思い起こさせてくれます。多くの人が、特に苦しみや困難の中で、聖体のイエスによって支えられたという経験を持っているでしょう。
25・40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 わたしたちが日々出会う人、特に苦しみの中にあり、助けを必要としている人をとおして、今も生きておられるキリストに出会う、このような体験もわたしたちの中にきっとあるのではないでしょうか。それぞれの体験を分かち合ってみましょう。

投稿者 ct : 11:10 | コメント (2)

2006年06月04日

聖霊降臨の主日(2006/6/4 ヨハネ15・26-27, 16・12-15)

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 聖霊降臨の主日のミサの福音は、毎年同じヨハネ20・19-23を読むことができますが、ここではB年のための任意の箇所を取り上げます。復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うのは、使徒言行録2章(第一朗読)にあるペンテコステ(五旬祭)の日の出来事に基づいています。イエスは復活して神のいのちに上げられますが、弟子たちには聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。

福音のヒント

  (1) ヨハネ福音書13~16章には、最後の晩さんの席で語られたイエスの多くの言葉が伝えられていますが、その中に、聖霊をおくる約束が4箇所あります。14・16-17、14・26、15・26、16・7-15。この約束は、ヨハネ福音書ではイエスの復活の日に実現しています。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(20・22)。きょうの福音の箇所は15章と16章の聖霊の約束が組み合わされていますが、わたしたちにとっても単なる未来の約束ではなく、すでにわたしたちの中に実現していることとして聖霊降臨の出来事を味わいましょう。

  (2) 「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラ」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくれる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
 ヨハネの第一の手紙2・1には「御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パラクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14・16では聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのです。

  (3) 「真理の霊」の「真理」とはなんでしょうか。真理はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。「アレーテイア」の本来の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とはふつうは目に見えないそのものの本質が明らかにされることだと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で、「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠されている神のほんとうの姿を明らかにする」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
 「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」といった人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方であることは間違いありません。聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言ったらよいかもしれません。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだということはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(愛)に結びつけるかどうかなのです。

  (4) 15章では「証(あか)しをする」ということが聖霊の役割です。15・18~16・4でイエスは弟子たちが受けることになる迫害を予告します。厳しい迫害の中でイエスをあかしするのは弟子たちのはずですが、まず第一に「聖霊が証しをする」と言われるのはなぜでしょうか。迫害の中でも人がキリストへの信仰に踏みとどまり、キリストを証しするとすれば、そこには人間の力を超えたものが働いている、それが聖霊(神の霊、イエスの霊)なのだ、ということでしょう。わたしたちが特別な困難に直面したとき、自分の力ではどうにもならないような現実に直面したとき、それでもわたしたちがキリストに従って生きようとすることができたとしたら、それを聖霊の働きと呼んでもいいのではないでしょうか。

  (5) 16・13で「その方」と訳されている言葉は男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマ)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これは「パラクレートス」が男性形だからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエス)の目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいて、支えてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだと考えられます。
 ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるのではないでしょうか。
  「聖霊」を人間の頭で抽象的に理解しようとすることは無理なことです。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。聖霊という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということでしょう。わたしたちはどのような時にそう感じることができるでしょうか。

投稿者 ct : 16:38 | コメント (2)