« 三位一体の主日 (2006/6/11 マタイ28・16-20) | メイン | 年間第12主日 (2006/6/25 マルコ4・35-41) »
2006年06月18日
キリストの聖体 (2006/6/18 マルコ14・12-16, 22-26)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 過越祭は春の祭で、元来は農耕生活に関連した祭だったようですが、エジプト脱出という救いの出来事の記念祭として祝われるようになりました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された救いの歴史の原点を記念する過越祭は、1年でもっとも大きな祭でした。過越祭に始まる1週間の祭の期間が「除酵祭」です。「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。
マルコ福音書はイエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。ヨハネ福音書では日付が1日ずれています(ヨハネ18・28参照)が、いずれにせよ、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらすもの(新しい過越)であると考えているのです。
(2) 水がめを運ぶのは当時、女性の仕事でした。ですから、男性が水がめを運んでいれば、特別な目じるしになります。イエスはこの過越の食事をする場所の手配を誰かに頼み、しかも、それを普通には分からない方法で弟子たちに教えようとしたことになります。弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。
それにしても、イエスはなぜこのように暗号のような指示をしたのでしょうか。一つの考えはこうです。ご自分に迫っている危険を予感し、受難が避けられないことを知っていました。その中で、イエスは外部の人に分からない場所でこの食事をしようとしたのです。それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの思いの表れではないでしょうか(ルカ22・15参照)。わたしたちはこの食事に込めたイエスの思いをどれほど深く受け取ることができるでしょうか。
(3) 「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」は、5つのパンを大群衆に分け与えたとき(マルコ6・41)の動作とまったく同じです。ユダヤ人の食事の際には、家長に当たる人がそのようにするのが普通だったと言われています。しかし、イエスはここで特別なことを言いました。「体」は人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は「これはわたしだ」という意味だと言えます。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることです。イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたと言ったらよいでしょう。
杯についての言葉は、新共同訳では「わたしの血、契約の血」となっていますが、原文では「血」という言葉は1度しか使われていません。直訳では「契約の、わたしの血」です。「契約の血」は出エジプト記24・8にある言葉です(第一朗読)。牧畜民族にとって「契約」と「血」は切り離せないものでした。それは、その契約がお互いの血を賭けたもの、命がけのものであることを表したのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」という表現に似ていますが、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」です。イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚していたことになります。
(4) 「契約」という言葉は聖書の中で「神と人との特別な関係」を表す言葉です。出エジプト記24章で結ばれた契約は、シナイ契約と呼ばれています。紀元前13世紀、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、その救いを体験した民は神との特別な関係を生きることになります。これを表すのが「契約」という言葉です。そこではイスラエルの民が神に対し、人に対してどう生きるべきかを示す道として「律法」が与えられました。しかし、イスラエルの民は神との関係、人と人との正しい関係を見失っていきます。そこで紀元前6世紀のバビロン捕囚時代の預言者たちは、「新しい、永遠の契約」を予告することになります。典型的なのはエレミヤ書31章です。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・33-34)
(5) イエスの死によって実現したのはまさにこの「新しい契約」だ、というのが新約聖書の中心テーマです。それはどういう意味でしょうか。イエスの生涯全体の歩みを見れば、イエスという一人の人の中で上のエレミヤのことばが完全に実現していたと言えるでしょう。もう一つには、わたしたちがイエスの十字架の姿を見たときに、神の深い愛の心を悟り、エレミヤのこの言葉を生きるものに変えられていくという面もあるはずです。それこそが聖体の意味でもありますが、本当にわたしたちの中で実現しているでしょうか。
25節の「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」は受難予告のような言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」ということによって、最終的な完成に向かう意識が強調されています。「新しい契約」は確かにイエスによって実現しました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。
投稿者 ct : 2006年06月18日 12:08
コメント
+主の平和+
福音のヒントありがとうございます。いつも御言葉とそれからその解説を通じて新しい考えや、御聖霊の賜物を頂けます。主に感謝!
1)「「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。」
とありましたが、ある司祭が、とても良いことをいっていました。言葉の言い回しは少し違ってしまうと思いますが、種なしパンの種は、腐りやすいもの、汚れたもの、罪などもあらわしていて、これらのないパンを食べることによって、悪い物を含まない清らかな霊魂を願い求めるというような内容でした。実に、主は、これらの悪い物がない、清らかなお方です。
2)「弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。」
主がいかに、偉大であるか、それはこういった経験がなければわかりづらいのも当たり前であるかも知れません。私は、祈りの最中に時折、主が示してくださる場所や建物、人や服装などが思い浮かびます。それを実際に見るとそれであるとわかるのです。これも主からの賜物です。すべては、主が私達の人生の指導者で私達を愛してくださるという証明であります。
「それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの思いの表れではないでしょうか」
主は、実に私達をただ愛していたのではなく、深く強く愛していらっしゃいます。それがこのときにもそうであったと、これを読んで再確認できます。ありがとうございます。
3)十字架上の主も苦しめられ死をまじかにしながらも、おっしゃった言葉に反することなく、御自分の体と血をすべての人に捧げる愛を放ち続けていらっしゃいました。主に感謝です。醜い姿となってしまった主の愛はなんと輝かしかったことでしょう!そして、それは今もなお輝き続けています。
4)「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。」
主は、主を愛するといって掟を守らないものはうそつきであるとおっしゃっていました。私達は、神の掟を守ることによって、神に対する愛を表現できます。
「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。」
皆が主の愛のうちに本当の兄弟姉妹、家族のようになれることがそうなのかもしれません。
「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。」
違った人への偏見を持たず、心を広くしてすべて主の愛する子供達であると見るようにしたいです。
「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・33-34)」
この許しが自分の心にない限り、主の国へは入れそうにありません。どうか私達が皆主が許すように、人を許し愛ますように。
5)主は、まず、全心、全霊、すべての意思と力をもって主である神を愛しなさいと私達に告げていらっしゃいます。弱い私達にはまずそれだけが要求されています。そしてこの生活、この人生は主の御手の中にあることを知るのならば、日々私達の前に現れる人々を、起こる事柄一つ一つを主からの大切なお恵みとして見れるようになります。それらの愛のお恵みを快く受け入れ愛し、神に感謝する(これは、私達が感じる良いことも、悪いことも全て!)それによって、神との関係がより深くなると思います。それは、時には、世界の観念や習慣、考え方に流されて良くわからなくなることもありますが、全ては主が下さるものとと見る事が大切だと思います。隣人を愛することは、それが主からのお恵みであるからこそであると思います。主を愛さずに、そのお恵みを愛せません。また、そのお恵みを心から喜べずに主を愛しているとも言えないでしょう。私達も皆お互いを主のお恵みであると信じ深くそのお恵みを愛することができるようになりますように。
「しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。」
神に栄光+主が人としてこの地にいらっしゃったことを本当に信じているものは、いくら主が常に共にいると知っていても、今はまだ完全な意味で一緒でないことを知っています。主は、すでにお亡くなりになり、昇天していて、私達はまだいずれ死を迎える肉体があり、この地にいるのですから。。。私達が最終的にこの入れ物である体をすて、すべてから開放されて復活とともに永遠の命に結ばれる、その日が待ち遠しいです。どうか、私達が日々御聖体を通じて、また御聖霊のお導きにしたがって良く生き、主にふさわしいものとなることができますように。絶望に陥らず、希望を持って生きることができますように。アーメン+
最後に、御聖体は、キリストの体で、私達はキリストの体であり、主を信じる信仰によって私達の教会が成り立っていますから、御聖体は、主を信じる私達の教会であるともいえませんでしょうか? 私達が、主が私達の信仰を受け入れてくださるように私達も私達の教会を愛しますように。そこには、主を中心に主が愛する沢山の子供達の愛・信仰・希望も詰まっています。
読んでくださり、ありがとうございます。
投稿者 主と主の教会 : 2006年06月16日 14:06
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。