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2006年06月04日

聖霊降臨の主日(2006/6/4 ヨハネ15・26-27, 16・12-15)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 聖霊降臨の主日のミサの福音は、毎年同じヨハネ20・19-23を読むことができますが、ここではB年のための任意の箇所を取り上げます。復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うのは、使徒言行録2章(第一朗読)にあるペンテコステ(五旬祭)の日の出来事に基づいています。イエスは復活して神のいのちに上げられますが、弟子たちには聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。

福音のヒント

  (1) ヨハネ福音書13~16章には、最後の晩さんの席で語られたイエスの多くの言葉が伝えられていますが、その中に、聖霊をおくる約束が4箇所あります。14・16-17、14・26、15・26、16・7-15。この約束は、ヨハネ福音書ではイエスの復活の日に実現しています。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(20・22)。きょうの福音の箇所は15章と16章の聖霊の約束が組み合わされていますが、わたしたちにとっても単なる未来の約束ではなく、すでにわたしたちの中に実現していることとして聖霊降臨の出来事を味わいましょう。

  (2) 「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラ」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくれる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
 ヨハネの第一の手紙2・1には「御父のもとに弁護者(パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パラクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14・16では聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのです。

  (3) 「真理の霊」の「真理」とはなんでしょうか。真理はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。「アレーテイア」の本来の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とはふつうは目に見えないそのものの本質が明らかにされることだと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で、「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠されている神のほんとうの姿を明らかにする」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
 「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」といった人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方であることは間違いありません。聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言ったらよいかもしれません。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだということはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(愛)に結びつけるかどうかなのです。

  (4) 15章では「証(あか)しをする」ということが聖霊の役割です。15・18~16・4でイエスは弟子たちが受けることになる迫害を予告します。厳しい迫害の中でイエスをあかしするのは弟子たちのはずですが、まず第一に「聖霊が証しをする」と言われるのはなぜでしょうか。迫害の中でも人がキリストへの信仰に踏みとどまり、キリストを証しするとすれば、そこには人間の力を超えたものが働いている、それが聖霊(神の霊、イエスの霊)なのだ、ということでしょう。わたしたちが特別な困難に直面したとき、自分の力ではどうにもならないような現実に直面したとき、それでもわたしたちがキリストに従って生きようとすることができたとしたら、それを聖霊の働きと呼んでもいいのではないでしょうか。

  (5) 16・13で「その方」と訳されている言葉は男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマ)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これは「パラクレートス」が男性形だからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエス)の目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいて、支えてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだと考えられます。
 ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるのではないでしょうか。
  「聖霊」を人間の頭で抽象的に理解しようとすることは無理なことです。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。聖霊という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということでしょう。わたしたちはどのような時にそう感じることができるでしょうか。

投稿者 ct : 2006年06月04日 16:38

コメント

+主の平和+

福音のヒントありがとうございました。

まだ、読み返していないのであまり深い点については今はコメントできませんが、最後の問いかけに私個人の答えをお伝えしたいです。

「聖霊という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、何かをしてくださっているということでしょう。わたしたちはどのような時にそう感じることができるでしょうか。」

ということでしたが、たくさんあります!
1)主の意思にかなったことのアイディアの提供者である御聖霊:
「御旨の天にありしごとく地にも行われますように。」と主の祈りの中にもありますように、私は主を忘れていない時でしっかりと主に集中しているときは(この機会が日中少なすぎるのは、確かに私の欠点ですが)には、「主よ、今あなたは、私にどうしてほしいですか?」と聴いてみます。その時、「主だったら、きっと私が今こうすることを喜ばれるだろう。」ということをするようにしています。その他、「主よ、私はこれからこうしたいのですが、どう思いますか?」と聴いて、「きっと主だったら、これを良しとされるだろう。」と思う場合には、その通りに行います。すべての良い事柄は主に由来していますから、主の意思と一致するということを私は信じています。

2)「お父さん!」と答えられる愛の呼びかけである御聖霊:
小さな子供が、大好きなお父さんに、「おーい、そこの本をとってきてくれ。」と頼まれたら、深く考えず、また理由も聞かず、「はーい、お父さん!」と答え飛んで取りに行って来ることでしょう。この時は、喜んで頼まれた本を大好きなお父さんのところまで持ってきます。この本をどうするかは、これからお父さんが見せてくれることは初めから知っています。そしてそれがとても興味深く面白いことも。御聖霊の呼びかけに従うことは、こんな喜びを伴うことであると思います。

3)人生を共に歩む御聖霊:
御聖霊は主であります。私たちはよく「私の人生、あなたの人生、私たちの人生」と言いますが、私たちは一人一人キリストと出会った後からは、これは、個人の人生ではなくて、「私とキリストの人生」であるという認識が大切だと思います。人生の重大な決断なども一人で決めず、必ず、「主よ、このようにするのは、どうでしょうか?」と相談してから決めると良いと思います。そういった意味で、主は、常に私たちのすぐ隣にいらっしゃって、正しい判断のアドバイスをくださいます。また、主の意思を間違って受け取ってしまった場合でも、主は正しい牧者ですから一緒に失敗した後の大変な道をも歩んでくださいます。なんて素晴らしい主なのでしょうか!

まだまだありますが、今回は書ききれません。読んでくださり、ありがとうございます。

私は、そろそろ祈りの集いに呼ばれていますので、その呼びかけに答えに行ってきます!

投稿者 天使の相談 : 2006年06月09日 18:44

+主の平和+
たくさんのお恵みを有難う御座います。

「(4) 15章では「証(あか)しをする」ということが聖霊の役割です。・・厳しい迫害の中でイエスをあかしするのは弟子たちのはずですが、まず第一に「聖霊が証しをする」と言われるのはなぜでしょうか。」

御聖霊が真理を明かす方であると言うことですが、それは、まさにそうだと思います。
この方は、創造の前からいらっしゃり、聖書の創世記の人の創造の個所に書いてある「私たちに似せてかたどり人を造ろう」と言うところの「私たち(唯一の神の三位)の一方であります。 もし私達が、主の創造の業を見て知ることができるのならば、主を疑うことは無いでしょう。御聖霊は、それを見て知っていて私達の心の中からそれを訴えています。
また私達は、実際にイエスを見、その死と復活を見たわけでもありません。御聖霊は、イエスの死と復活を見て知っていて私達の心の中からそれを教えてくれています。
信仰は御聖霊なしにはありえません。これは考えてみれば当たり前のことのように思えます。人の寿命は短く、特に今の時代の人においては、主イエスが地上にいらっしゃった時には生きていないのですから主の沢山の奇跡と愛を現象的には見て知らないのです。
でも、信仰をもっている私達の心のうちには、その真実を知っている御聖霊がいてそれが私達にその真実を明かし続けてくださっています。ですから、何十年しか生きていない私達にも永遠の神を知り、信じ、より深く知ることができるのです。なんて素晴らしい事でしょうか!

「迫害の中でも人がキリストへの信仰に踏みとどまり、キリストを証しするとすれば、そこには人間の力を超えたものが働いている、・・それを聖霊の働きと呼んでもいいのではないでしょうか。」

と、ありましたが、これは殉教者の精神であり、御聖霊の力であると私もそう思います。 「明らかなこと」と後にありますが、反対にすれば、真理は永遠ですから、隠しても、暗闇に覆われても、いずれは明らかになりる事とも言えます。永遠の神、永遠の御聖霊がその真理を知っています。殉教者の精神は、私達の中で御聖霊がそう訴えていて、御聖霊の導きによって神の光を見、その真理に目覚め、それが生死を越えた真理であることをよく知っていることによるものなのかも知れません。

私は命を捧げるまでの力のお恵みと機会はもらっていませんが、きっと殉教者は、「真理をことごとく悟らせられ」この世・天国・地獄のつくりともろもろの魂の道のりのことを御聖霊から伝えられて、本当の意味での永遠の命、魂と世界の関係と尊い価値について知っているのだと思います。

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「(3) 「真理の霊」の「真理」とはなんでしょうか。真理はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。「アレーテイア」の本来の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とはふつうは目に見えないそのものの本質が明らかにされることだと言えるでしょう。」

私達の神は目に見えない存在で、表面的には隠されている事柄ですが、目に見えない心の世界では、永遠に光り輝く明らかな事であります。この世の目に見えるものは、事柄はすべて過ぎ去りますが、目に見えないが心のうちで明らかな真理の真理である神は消え去ることがありません。ここで真理の真理というのは、この世において真理でも消え去ることもあると思い、私がいう神の真実性はそのようなのとは違うからこう書きました。

以前、生活の内に困難にあい、ある質問を主に投げかけたことがありました。この質問は何であったか今はもう覚えていませんがこの質問の本当の答えを頂くまでは祈りをやめられないぐらい行き詰まっていたようでした。私は、かなり長い間祈りを続け、主の御言葉を待っていましたが、最終的に頂いた答えは「愛」という答えでした。いろいろな事柄の最終的な答えは、主が私達を愛しているからということにつながっていると今でもそう信じています。

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「イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり」
これをこのまま素直に信じる心はきっと御聖霊によるものなので、初めから、主の子供として造られおそばにいたのでしょう。

アーメン +

投稿者 天への階段 : 2006年06月10日 10:19

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