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2006年06月11日

三位一体の主日 (2006/6/11 マタイ28・16-20)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、その次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返りながら、父と子と聖霊である神の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。B年の福音の箇所は、マタイ福音書の結びの部分です。

福音のヒント

  (1) 弟子たちは、イエスの墓で告げられていたとおり(28・7,10)、ガリラヤでイエスに会います。「山」はマタイ福音書の中で、特別に神との出会いの場、神の啓示の場です(マタイ5・1、17・1など)。17節に「しかし、疑う者もいた」という訳がありますが、直訳では「しかし、彼らは疑った」であり、11人全体が「ひれ伏しながらも疑った」と受け取ることができます。ここで疑いを克服するのはなんらかの目に見えるしるしではなく、18-20節のイエスの言葉です。17節の「権能」は「権威」とも訳されますが、日本語の言葉としてはあまりいい響きではないかもしれません。内容としては、「父である神がイエスに、すべてのことをゆだねた」と受け取ればよいでしょう。

  (2) 19節のイエスの命令には4つの動詞が使われています。「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」です(「弟子にする」も「洗礼を授ける」も原文ではそれぞれが1つの動詞です)。このうちギリシア語で命令法が使われているのは「弟子にする」だけです。その他は分詞の形なので、形の上から見て、この命令の中心は「弟子にする」ことだと言えます。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は「弟子にする」ことの具体的な内容なのです。マタイ福音書でのイエスの活動は、ガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にしたことから始まりました(4・18-22)。そしてすぐに、山上の説教で弟子たちの生き方を教えました(5-7章)。この福音書全体をとおしてのイエスの活動を「弟子作り」だと言ってもよいでしょう。そして、この「弟子作り」というイエスの使命が、ここからイエスの弟子たちに受け継がれていくのです。もちろん、弟子たちの使命は自分たちの弟子を作ることではなく、「わたし(イエス)の弟子」を作ることです。

  (3) 「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」で、本来の意味は「(水に)浸す、沈める」です。「名によって」の「名」は単なる呼び名というよりも、そのものの本質を表すものです。「~によって」は「~の中に」という前置詞が使われています。
 「父と子と聖霊」という言い方は聖書の中でこの箇所だけにあります。ここにはマタイのいた教会での洗礼式の式文が反映しているようですが、ただ単に「父と子と聖霊という名を言いながら洗礼式を行なう」ということよりも、この洗礼が、「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」ことなのだということが大切でしょう。

  (4) マタイ福音書の結びに当たる「共にいる」(20節)という約束は、この福音書全体の結論とも言える言葉です。すでに誕生前からこのように約束されていました。
 「『見よ、乙女(おとめ)が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(マタイ1・23)
 イエスの生涯と活動全体が「神がわたしたちと共におられること」を表すものでした。そして、いまやそれは「復活して神と共に永遠に生きる方・キリストが共にいてくださる」という約束になっているのです。
「いつもあなたがたと共にいる」は力強い約束です。わたしたちはそれをどんなふうに感じることができるでしょうか。自分のうちにイエスがいて、内面で自分を支え導いてくださると感じる人もいるかもしれません。また、イエスが自分の人生の歩みに寄り添い、目に見えないがいつも共に歩んでくださると感じる人もいるでしょう。わたしたち一人ひとりにとっての「共にいてくださるキリスト」のイメージを分かち合えたらよいでしょう。

  (5) マタイ福音書にあるイエスの言葉では、次の3つの箇所がヒントになるでしょう。
18・20 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 イエスは信じる者の集いの中にいてくださるという約束ですが、大きな組織としての教会というよりも、共に祈る小さな集いを思い浮かべたらよいのではないでしょうか。信仰の道を一緒に歩んでくれる仲間とのつながりの中にイエスが共にいることが感じられるという体験は、わたしたちの中にもきっとあるはずです。
26・26-27「取って食べなさい。これはわたしの体である。・・・皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 教会が集まって賛美と感謝をささげ、パンとぶどう酒を用いてイエスの愛を記念するとき、キリストは共にいてくださいます。この「共にいてくださるキリスト」は奉仕者の手をとおして、病気や高齢で教会に来られない人にも届けられます。聖体はいつも、わたしたちがキリストに結ばれた者、「キリストの体」である教会共同体のメンバーであることを思い起こさせてくれます。多くの人が、特に苦しみや困難の中で、聖体のイエスによって支えられたという経験を持っているでしょう。
25・40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 わたしたちが日々出会う人、特に苦しみの中にあり、助けを必要としている人をとおして、今も生きておられるキリストに出会う、このような体験もわたしたちの中にきっとあるのではないでしょうか。それぞれの体験を分かち合ってみましょう。

投稿者 ct : 2006年06月11日 11:10

コメント

弟子たちは何を疑ったのであろうか。疑った弟子に福音宣教の使命を与えたイエスの寛大な心、信頼されることにより人は生きる。

投稿者 Anonymous : 2006年06月09日 16:48

+主の平和+

福音のヒントありがとうございます。大変勉強になりました。

1)「疑ったもの」についてですが、まったく、人の間違いと罪は限りなく続くものであると再度実感いたします。人は、間違いをおかすものであることは真実で避けられない事柄です。もちろん、だからと言ってキリストの完全へと励むことを怠ってはいけませんが。。。神は常に私たちに望みを持ってくださっています。主は、慈しみ深く、その主に従うものもだんだんとそのようになっていくのでしょう。

私は、「疑った」と言うのは、「復活したイエスが、本当に一度は死んだイエスであること」を疑ったのではないかと思います。つまり、まったくイエスに似た誰か別の人がイエスになりすましたのではあるまいかと弟子は疑ったのではないかと思います。しかし、疑いを持ちながらも、もしかして本当かもしれないという思いと、他の仲間は疑っていないのかもしれないという思いもあり、主の前で、そして今までともに歩んできた仲間の前では、それは言い出せなかったのではないでしょうか。

主は一人、そのころは聖霊としてではなくて人として実際にいたのですが、人々のうちに本当に御父の子なのかどうかという疑いがありました。また、復活しては本当に復活した主なのか疑いがありました。私たちが今生きている世界でも主の霊は活動しています。しかしその声をほとんどの人が実際には聞き取ることができません。聞こえない代わりに直感を通じて主であると判断できることがあります。ですが、昔と同様、この声にも疑いを持つ人はいます。御父は一人、御子は一人、そして御聖霊も一人です。一人で一体の神が話すことは、心に確かに響き、(しっかりと心の耳を傾けていれば!)その正しい答えもわかるはずです。どうか、いつも私たちの心が主の声を疑わず、また悪の正しくないことを言う声との区別をし従えますように!

2)「主の弟子」をつくることができることは大変な喜びです。これは、代父、代母である人にはきっとよくわかることであると思います。私も何名か主へ導いいたことがありますが、これは、99匹の羊をのこして1匹を見つけた時の主と主の天使たちと喜べるからです。その他、主との関係が深くなり、少しづつ世界の不思議と神の神秘について教わると、弟子と主の関係や自分と仲間の関係などについても新しいことを教えてもらえます。これによって、人の人生はどれだけ興味深いものになるでしょう!そこに、神の力が働いていてこそ、霊魂は喜べるのです。

3)「父と子と聖霊という神のいのちの中にその人を沈める」という表現はまことに素晴らしい表現だと思います。また、神が愛であることを考え、「父と子と聖霊という神の愛の中にその人を沈める」とも言えます。

4)「いつもあなたがたと共にいる」 私もこの言葉に大変励まされました。なぜなら、時には、「主よ、もうあなたを見失ってしまいました。私は、このまま落ちて行くのでしょうか?私の罪は重く、暗黒は広がりすぎで、あなたの近くには、もう行けないのでしょうか?」と思うことは誰でも経験があるのではないかと思います。こんなときにも、「いや、主イエスでさえ、「わが父、わが父、なぜ我を忘れたもうか?」と言ったほどでしたが、父は忘れたわけでも、いなくなったわけでもなかった。主は、常に私たちを見ていてくださる。」と思えるのは、主がこういった約束をしてくださっているからです。主は、アルファでありオメガである、時の初めと終わりの向こうからいらっしゃるお方で、私たちが認識する時間と空間とは違ったところにいらっしゃるからです。

5)「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」これは、私も特に好な御言葉です。その前の19節には、「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる。」と書いてありますがこの言葉も大好きです。これは、大変喜ばしいことです。「どんな願い事であれ」とありますが、神を真に愛するものにとっての願い事は、神の意思にそむかない、神を喜ばす願い事であります。まず、主にもっとも愛される子供となるため、「主よ、あなたの御旨にそむきませんように、あなたの意思どうりに物事が運びますように」という願いをこめましょう。
本当に、主を信じる仲間一人でもいれば、たくさんの神秘を信仰を通じて主があらわしになってくださいます。ここでのポイントは、疑わずに幼児のような素直な心を持って全ての神秘と奇跡、神の業を本当に信じることです。小さな子供はなんて恵まれているのでしょうか。まだ、この世界のしきたりに完全に染まっていないので、子供は、やはり大人より信じやすいです。
主の御旨は、時に周りの人々を通じて知らされます。それは、信徒セミナーへの呼びかけかもしれませんし、共に祈る誘いであるかもしれませんし、また、罪の道を正す意見かもしれません。主に従う友といるのならば、たくさんの祝福をその人を通じて頂けます。何を決めるのでも友と「主の意思は何なのか」ということを基準として決めるといいです。何人でいても、主には主の意見があるのです。そしてそれは私たちが考えるのとは違うかもしれないので、祈りをしてわからせてもらうことが大切です。 ここで、「私は、主はこうしなさいといっていると思う!」「いいえ、きっと主はこういっています」と喧嘩になってしまってはいけませんから、お互いに聞いた意見について本当に謙虚になれば、正しい道がわかるはずです。

ここで、ちょっとした「主はいつも聞いてくださること」についてご紹介したいです。祈りについてです。私は、洗礼を受けてまもなく、私の代母とともに祈りました。そのときは、このマタイの主の言葉をまず話して、それから代母に主に一緒に願うことを頼んだのです。私はそのころライ病に悩まされているたくさんの人々が見放されていることを知っていたので、こんな願いがありました。「教会の良き使いたちによってこれらの人々の生活が主の愛のうちに支えられますように。」私と代母はマタイの言葉を信じ、またその願いがかなえられることも確信しました。それから一年ほどしたあとに、外国の教会からの支援でライ病患者のための施設が新しく設立したとニュースを兄弟たちから聞きました。そしてそのときすぐにこの祈りを思い出し、代母と喜んだのです。主は、御自分の時間を選んで望みを聞いてくださいますが、いつの時も、必ず「私はあなたを愛し、あなたの祈りを聞いている」ということを私たちが忘れないように、それを思い出させてくださいます。

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「多くの人が、特に苦しみや困難の中で、聖体のイエスによって支えられたという経験を持っているでしょう。」

教会でもキリストそのものである御聖体は教会の中心であるとといています。ミサを通じてパンからキリストの体となった主は、反対に言えばパンの形に姿を変えられた主であります。私たちは、私たちの持ち物、家、財産、仕事、友達、そして家族、記憶、考えなどもすべて奉納とともに主にお捧げし、空っぽになって魂を主にお捧げします。主はいつも私たちを迎え、入れ物である私たちの体の中で乾く霊魂に、永遠の泉となって満たしてくださいます。そうです、乾いているのは、体ではなくて私たちの魂が主の愛に渇いているのです!私は、満遍なくこの主の愛に自分の心を巡らせて沢山のこの世の悩みから開放されました。主は、御父の栄光がこの世とは違うことを教えてくださいます。

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「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

とありますが、一般的に言われている苦しめる人、困っている人の中でも助けが必要なときに、自由に人の助けを願い助けてもらっている人達がいます。こういった人達は助けられてそれに感謝して、心も豊かであります。
私にとってのもっとも小さい人は、自分は困っているのに人に、助けてください、私は弱いのです。助けてください、私は困っています、助けてください、私は道がわからなくなりました、助けてください、本当は私も愛が必要なのです、と言えない人々であると思います。私が「この人は頑固で傲慢だ」とか、「本当には主を信じない、知らない人だ、私と主についていくら話して、どうして通じようか」と決め付けてしまう(こう人を判断するのは、主の意思とは反していてとても恥ずかしいことです。)人たちの中にも苦しみが隠れていて見えない場合があります。主はそういった人たちも心から愛し、悩みをすべて聞いてくださる方です。そして、その人たちが安心して悩みをすべて話せる相手でもあります。私たちの中には自分の苦しみを人には訴えず、心にしまっておく人が多いようです。しっかりと主とお話して解決できる人もいますが、それができない人もいます。ですから、私がこのような人たちが私を信用して悩みを話せる、そんな人になりたいです。それには、まず、主がすべての人を心から深く愛していることと(ただ愛しているのではなくて、心から深く愛していらっしゃいます)主の苦しみを理解しようとする心が大切だと思います。主の愛によって、その人の心は自分に向き、主の苦しみを分かち合うことで、主に従うその人は自分を信頼します。主はすべての人の苦しみと共通しているからです。なぜならば、主はすべての人の苦しみを背負いお亡くなりになられたからです。

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「わたしたち一人ひとりにとっての「共にいてくださるキリスト」のイメージを分かち合えたらよいでしょう。」

ということですが、いろいろな場合があります。そのひとつとしては、「苦しみを知る神であられるイエス」です。私は自分とこの世のたくさんの罪について嘆き悲しんでいるとき、またそれらの罪の許しの祈りが大変なとき、血が頭に上り、涙が流れて私は大変苦しみますが、その時に、オリーブの山で祈られたイエスのことを思い起こさせられます。そのときは、血が頭にのぼるどころではなく、実際に血が流れ出たと書いてあります。私は、はじめはこれは、単なる例えであると思っていましたが、今はそうは思いません。本当に血が流れたのだと思うのです。それほどにこのときの主は苦しみながら祈っていたのだと。主は、ご自分の死を間近に、ご自分の死と、そしてそれよりもそれを起こさせる人々のおそるべく罪と悪に苦しめられていたのだろうなと思います。人々が罪を犯さず、しっかりと御父の愛のうちに生きていたのならば、キリストは罪の償いのために死ななくてもよかったわけです。重い罪を犯している人々を永遠の神の栄光へと導こうと、キリストは死なれました。いったいどれくらいの人々の罪と悪がイエスの上にのしかかったことでしょうか。私たちの悩みは、イエスがこのとき抱えたたくさんの苦みと比べたならば本当に小さなものでしょう。イエスは、そのとき世界の過去と未来のすべての罪の償いの道を歩む準備の祈りをなされたのでした。私たちも苦しいとき共にそのときのイエスを思い出しましょう。近くにいた弟子からも見離されて、本当にイエスを理解し知っていたのは御父のみでした。私たちもどんなに人々に理解されないとしても希望を捨てずに信じましょう、「誰も知らずとも、それでも神は知っている。」神は、常に私たちと共にいらっしゃいます。

読んでくださり、ありがとうございます。
常に主の豊かなお恵みがありますように。

投稿者 主と共に歩く道 : 2006年06月16日 13:24

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