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2006年05月21日

復活節第6主日 (2006/5/21 ヨハネ15・9-17)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 きょうの箇所は先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。
 ヨハネ福音書13-16章は、最後の晩さんの席で、イエスが世を去るに当たって、世に残していく弟子たちに向けて語られた遺言のような長い説教を伝えています。しかし、14章の終わり(31節)には「さあ、立て。ここから出かけよう」というイエスの言葉があって、そこで一旦この場面が終わっているようです。おそらく15章以下は、後から拡大された部分でしょう。15-16章では13-14章と同じようなテーマが繰り返され、より深められていると考えたらよいと思われます。きょうの箇所の愛の掟も、13章ですでに一度語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13・34-35)。この箇所を重ね合わせながら、きょうの箇所を味わうと良いでしょう。

福音のヒント

  (1) 先週の箇所の「枝がぶどうの木につながっている」ときょうの箇所の「愛にとどまる」には同じ動詞(ギリシア語の「メノーmeno」)が使われています。9-10節は1-8節のぶどうの木と枝のたとえの結論だと言えるでしょう。10節の「掟」の内容については、12節で明らかにされます。11節の「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエスとわたしたちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることなのです。

  (2) 12節の「互いに愛し合いなさい」はあまりにも有名なイエスの言葉です。ここでイエスは確かに命令法で「愛し合え」と言い、さらに「これがわたしの掟である」(17節では「これがわたしの命令である」)と言っています。しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるかもしれません。そんなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても大切になります。イエスは愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではなく、イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じているのです。弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなる。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることなのです。

  (3) 12節の言葉についてはもう一つの疑問もあるかもしれません。それは、「互いに愛し合う」というのは仲間うちの愛であって、内向きの姿勢に聞こえるが、イエスはそんなことを教えたのか、という疑問です。これについては、13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉から考えてみましょう。
 「友のために・・・」という言葉は、わたしたちが互いに愛し合うときの愛について語っている言葉でしょうか? むしろイエスが弟子たちを愛したその愛が「友のために命を捨てる」愛だったと言うのではないでしょうか。ここでイエスは「敵のために命を捨てる」とか「自分に対する裏切り者のために命を捨てる」とは言いません。イエスははっきりと「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と宣言されます。さらにその理由として「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言われます。ここで「友」という言葉が使われているのは、イエスと弟子たちとの心のつながりを表すためではないでしょうか。イエスがここで語っている愛は、外面的な行為としての愛の業よりも「友としての愛」、ほんとうに深く心のつながりがあるものとしての愛なのだということは大切でしょう。ほんとうの愛は一方通行ではありえないはずです。この箇所でのテーマは、弟子たち相互の間に深い心の結びつき(友としての愛)が生まれることであって、もちろん、ほかの人を愛さなくてもよい、ということが言われているのではないのです。
 なお、「命を捨てる」は10・11、17-18と同じく普通の「置く」ということばが使ってありますから、「差し出す」とか「投げ出す」と訳したほうがよいかもしれません(B年復活節第4主日の「福音のヒント」参照)。

  (4) 16節には「選び」というテーマが出てきます。聖書の中にある神の選びは、人間の選びとはまったく異なります。人間は一番良いものを選ぼうとしますが、神はむしろ一番弱く、貧しいものを選ばれます。それはすべての人を救うためなのです。イスラエルの民の選びもキリスト者の選びもそういうものでした(申命記7・7、Ⅰコリント1・26-29など参照)。人間が優れているから神に選ばれ、救われるのではなく、神がすべての人を救おうとしておられるから、ある人を選び、その人をとおしてほかの人々に救いをもたらそうとされるのです。だから「選ばれてラッキー!」ということで終わるのではなく、救いを受けた人間には、ほかの人々の救いのために働く使命が与えられるのです。
 ここでのイエスの選びも同じです。最後までイエスについていくことのできない弱い弟子たちをイエスは選び、友と呼びます。「わたしが選んだ」ということも「友と呼ぶ」ことも、特定の弟子たちのことではありません、イエスの弟子となったすべてのキリスト信者のことです。そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えるのでしょう。そのように感じる体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2006年05月21日 16:55

コメント

+主の平和+
福音のヒント、ありがとうございました。

私の中では、「十戒」もその一番上にある「愛すること」もキリスト者として義務であり命令であると信じていて、そう教会が言うのは当たり前であり、これはそう受け入れ従うべきことであるとずっと思っていました。それで、ヒントの中のこの部分を読んだときははっきり言って驚きました。

「愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるかもしれません。」

しかし、愛というのが強制や脅しによって実現するものではなくて、愛である聖霊に快く従って生きることであることは確かで、「愛というのは心の中から自然に湧き上がるもの」ということには、大変納得しました。

憎んでいる人に対しては、自分の心の中には自然に湧き上がる愛がありません。でも、憎んでいる人を愛するようになるきっかけとなるのは、まさに、ヒントに書かれている、「・・・イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じているのです」のように、自分の中で、「主が私たちを愛した、よってお互い愛することは主に対する義務である。だから、私は愛そう。」という理解と決断から始まっているのではないかと思います。

続いて、このようにヒントで続きましたが、
「・・・このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなる。

「愛さずにはいられなくなる」という表現は、実にそうだと思いました。私たちは、人を許せないとき、そこに精神の死を経験していると思います。「愛」なくして私たちの魂は本当には生きれません。以前、祈りのうちに、このようなメモを書きました。(言葉の言い回しは少し変わっています)

「おお、主よ、私は許す。
私は許す、なぜならあなたが許すから。 
おお、主よ、私は愛す。
私は愛す、なぜならあなたが愛しているから。
主よ、実に、あなたが許し、愛さないのならば、
私は許せず、愛せないのです。」

私たちの憎しみが、主を愛するがゆえに、愛に変わるのならば、その愛ととともに、私たちのうちに、すべての罪(憎しみを含む)を開放され、永遠の命(神である愛)を勝ち取ったキリストが復活します。そのとき、愛しているのは、もう私たちではなく、キリスト後自身です。この発見ができることは大変な喜びです。
ですから、憎んでいる人も、私たちを泣かし、苦しめる人も心から愛そうと決められる。愛は、そういった決断でもあるかなと思いました。私たちは、いやなことや苦しいことがあっても、心の中にキリストが復活することで、それらの苦しみを超えた素晴らしい栄光を受けることができるからです。

読んでくださり、ありがとうございます。

投稿者 栄光の園 : 2006年06月08日 15:10

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