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2006年05月28日
主の昇天 (2006/5/28 マルコ16・15-20)
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教会暦と聖書の流れ |
使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(1・3-11、第一朗読)。本来、主の昇天の祭日は復活祭から40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われます。
きょうの箇所はマルコ福音書の結びですが、写本によってはこの部分がないものもあり、後の時代の人の付加した部分だと考えられます(マルコ福音書は本来16・8で終わっていたようです。B年復活の主日の「福音のヒント」参照)。ここにはイエスの死後起こったことがコンパクトにまとめられています。すなわち、弟子たちへの出現、派遣命令、イエスの昇天、イエスが弟子たちとともにいつづけること、です。
福音のヒント
(1) この箇所の前、9-11節でマグダラのマリアへの出現(ヨハネ20・11-18参照)が、12-13節で他の二人の弟子への出現(ルカ24・13-35)が語られていますが、弟子たちは彼らの言葉を聞いてもイエスの復活を信じなかったと言われています。そしてここでは、「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」とあります。これらの言葉は昔の弟子たちを批判するために伝えられているのではなく、復活を信じることの難しさを語りながら、それでも信じるように読者を励ます意味があるのではないでしょうか。この箇所では、イエスの言葉が弟子たちを信じるものに変えていきます。わたしたちもきょう、このイエスの言葉に耳を傾けようとします。
(2) 15節からが復活したイエスの言葉、いわゆる派遣命令です。この派遣命令の特徴は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」というように範囲が非常に広いことです。生前のイエスによる弟子たちの派遣が限定的だったのと対照的です(マルコ6・7-13)。弟子たちの使命は「福音を告げること」ですが、これはマルコ福音書で言えば、これまでイエスがなさってきたことそのものです。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(1・14-15)。告げるべき福音の内容はキリスト教のさまざまな教えというよりも、「神の国の到来」でした(その意味で「宣教」ではなく、「告知」という言葉をここでは使います)。「神の国」のメッセージは、別な言葉で言えば、「父(アッバ)である神は、すべての人を例外なく子どもとして愛してくださっている」というメッセージだったと言えるのではないでしょうか。「福音告知」とは「神は愛であることを伝えること」だと言ってもいいはずです。そう考えれば、決して言葉だけで伝わるものでないことは明らかでしょう。
(3) 16節の「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」は信仰か不信仰かの決断を迫る言葉です。洗礼を受けていない人が多い日本のような国では、多くの人がこのような言葉に戸惑いを感じるかもしれません。
ここで、信じるか信じないかの前提に「福音が告げられている」ことがあるということは大切です。弟子たちが告げる福音(神が愛であること)は言葉だけではなく、弟子たちの生き方のすべてをとおして伝えられるはずのことです。そういう福音告知が前提にあって、福音が告げられた人に決断が問われているのです。だとすれば、わたしたちが教会外の人をどう見るかではなく、まず第一にわたしたち自身が生き方と言葉のすべてをもってこの福音を告げているか、が問われるのではないでしょうか。
(4) 信じるものに伴うしるしは、17節では「悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」ことです。ここで「言葉」と訳されているのはギリシア語の「グロッサglossa」です。本来「舌」を意味する言葉ですが、英語のtongueのように「言語」の意味もあります。
Ⅰコリント12、14章で「異言(いげん)」と訳されるのもこの言葉ですが、きょうの箇所では、何かしら特別な、不思議な言葉というよりも「神から与えられる言葉のたまもの(カリスマ)全体」と考えればよいでしょう。
聖霊降臨の日に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2・3-4)とありますが、この「舌」も「言葉」も「グロッサ」です。その日、使徒たちが語った言葉は、民族や言語の壁を越えて人間同士のコミュニケーションを可能にする言葉でした。悪霊が人を神から引き離し、人と人との関係を破壊する力だとすれば、逆に聖霊は神と人、人と人とを結ぶ力です。ほんとうにわたしたちの働きが神と人・人と人を結ぶものであれば、どれほど力強い「しるし」になるでしょうか。
18節の「蛇(へび)」は人間を害するもののシンボルです。その「蛇」や「毒」に打ち勝ち、病人をいやすというのがもう一つの「しるし」です。こんなことは今のわたしたちには不可能だと思われるかもしれません。しかし、福音書が伝えるイエスの「いやし」をどのように受け取るかによって、わたしたちの課題にもなるのではないでしょうか。イエスのいやしとは「病気によって神からも、他の人からも切り離されていた人を、神との交わり、人との交わりに連れ戻し、そこからその人自身が立ち上がることができるように助けること」と見ることもできるでしょう。だとすれば、今のわたしたちの中にもそのような「しるし」があるのではないでしょうか。
(5) 19節でイエスは天に上げられますが、20節では「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」と語られ、イエスが遠くへ去っていったのではないことをはっきりと示しています。「天」とは時間空間を超えた神の領域です。ですからイエスは目に見える姿、手で触れることのできる形ではいなくなりますが、同時に目に見えない形で、弟子たちとともにいてくださるのです。これこそが復活の完成だと言えるでしょう。
2006年05月21日
復活節第6主日 (2006/5/21 ヨハネ15・9-17)
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教会暦と聖書の流れ |
きょうの箇所は先週の「ぶどうの木と枝」のたとえに続く箇所です。
ヨハネ福音書13-16章は、最後の晩さんの席で、イエスが世を去るに当たって、世に残していく弟子たちに向けて語られた遺言のような長い説教を伝えています。しかし、14章の終わり(31節)には「さあ、立て。ここから出かけよう」というイエスの言葉があって、そこで一旦この場面が終わっているようです。おそらく15章以下は、後から拡大された部分でしょう。15-16章では13-14章と同じようなテーマが繰り返され、より深められていると考えたらよいと思われます。きょうの箇所の愛の掟も、13章ですでに一度語られていました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(13・34-35)。この箇所を重ね合わせながら、きょうの箇所を味わうと良いでしょう。
福音のヒント
(1) 先週の箇所の「枝がぶどうの木につながっている」ときょうの箇所の「愛にとどまる」には同じ動詞(ギリシア語の「メノーmeno」)が使われています。9-10節は1-8節のぶどうの木と枝のたとえの結論だと言えるでしょう。10節の「掟」の内容については、12節で明らかにされます。11節の「これらのこと」は1-10節全体を指しています。「喜び」はイエスとわたしたちが、ぶどうの木と枝のように愛によってつながっていることなのです。
(2) 12節の「互いに愛し合いなさい」はあまりにも有名なイエスの言葉です。ここでイエスは確かに命令法で「愛し合え」と言い、さらに「これがわたしの掟である」(17節では「これがわたしの命令である」)と言っています。しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるかもしれません。そんなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても大切になります。イエスは愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではなく、イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じているのです。弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができるし、愛さずにはいられなくなる。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることなのです。
(3) 12節の言葉についてはもう一つの疑問もあるかもしれません。それは、「互いに愛し合う」というのは仲間うちの愛であって、内向きの姿勢に聞こえるが、イエスはそんなことを教えたのか、という疑問です。これについては、13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉から考えてみましょう。
「友のために・・・」という言葉は、わたしたちが互いに愛し合うときの愛について語っている言葉でしょうか? むしろイエスが弟子たちを愛したその愛が「友のために命を捨てる」愛だったと言うのではないでしょうか。ここでイエスは「敵のために命を捨てる」とか「自分に対する裏切り者のために命を捨てる」とは言いません。イエスははっきりと「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と宣言されます。さらにその理由として「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言われます。ここで「友」という言葉が使われているのは、イエスと弟子たちとの心のつながりを表すためではないでしょうか。イエスがここで語っている愛は、外面的な行為としての愛の業よりも「友としての愛」、ほんとうに深く心のつながりがあるものとしての愛なのだということは大切でしょう。ほんとうの愛は一方通行ではありえないはずです。この箇所でのテーマは、弟子たち相互の間に深い心の結びつき(友としての愛)が生まれることであって、もちろん、ほかの人を愛さなくてもよい、ということが言われているのではないのです。
なお、「命を捨てる」は10・11、17-18と同じく普通の「置く」ということばが使ってありますから、「差し出す」とか「投げ出す」と訳したほうがよいかもしれません(B年復活節第4主日の「福音のヒント」参照)。
(4) 16節には「選び」というテーマが出てきます。聖書の中にある神の選びは、人間の選びとはまったく異なります。人間は一番良いものを選ぼうとしますが、神はむしろ一番弱く、貧しいものを選ばれます。それはすべての人を救うためなのです。イスラエルの民の選びもキリスト者の選びもそういうものでした(申命記7・7、Ⅰコリント1・26-29など参照)。人間が優れているから神に選ばれ、救われるのではなく、神がすべての人を救おうとしておられるから、ある人を選び、その人をとおしてほかの人々に救いをもたらそうとされるのです。だから「選ばれてラッキー!」ということで終わるのではなく、救いを受けた人間には、ほかの人々の救いのために働く使命が与えられるのです。
ここでのイエスの選びも同じです。最後までイエスについていくことのできない弱い弟子たちをイエスは選び、友と呼びます。「わたしが選んだ」ということも「友と呼ぶ」ことも、特定の弟子たちのことではありません、イエスの弟子となったすべてのキリスト信者のことです。そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えるのでしょう。そのように感じる体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
2006年05月14日
復活節第5主日 (2006/5/14 ヨハネ15・1-8)
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教会暦と聖書の流れ |
復活節第5、第6主日の福音では、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。世を去るにあたってイエスが弟子たちに語られた遺言のような言葉ですが、なぜ、これが復活節に読まれるのでしょうか。
これらのイエスの言葉はほとんどが「わたしは去っていくが、何かを残していく、その何かのかたちでわたしはずっとあなたたちと共にいる」という約束です。この約束は、福音書を書いているヨハネにとっては将来のことではなく、すでに自分たちの中で実現した現在のことでした。今のわたしたちもこのイエスの言葉が、わたしたちの中で現実になっているに気づくときに、イエスが今も生きていることを確信できるのです。復活節は、ただ単に2000年前にイエスが死者の中からよみがえった、ということを祝う季節ではありません。復活して今も生きておられるキリストとの深いつながりを味わう季節なのです。
福音のヒント
(1) ぶどうの木はパレスチナで古くから栽培され、イスラエルの人々にとって馴染み深い植物でした。ぶどうの木は大きな木ではなく、幹(みき)もそれほど太くありません。ここで「ぶどうの木」というのは「ぶどうの幹」のことではなく、幹も枝も含めた木全体のことです。ぶどうの枝と幹がつながっている、というイメージではなく、枝はぶどうの木全体の一部だというイメージを思い浮かべながらこのたとえを読むとよいでしょう。
ここで「~につながっている」と訳される語は、ギリシア語では「メノー・エンmeno en」で、9節以降で「~にとどまる」と訳される言葉と同じです(「エン=~のうちに」だけで動詞が省略されている箇所もあります)。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(9-10節)。これはきょうの箇所全体を理解するために大切な言葉です。「ぶどうの木」のたとえが示そうとしていることは、まさにこのことだからです。
(2) 4節の「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」も「わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなたがたのうちにとどまる」と訳すことができます。枝が木全体の中にとどまっている、というイメージは分かりやすいと思いますが、ぶどうの木全体が一つ一つの枝のなかにとどまっている、というイメージはどうでしょうか? ぶどうの一房一房の中にぶどうの木全体が含まれている、というと、現代人にはDNAの話のように聞こえるかもしれません。とにかく、ヨハネ福音書は「互いが互いのうちにとどまる」という表現で両者の深い交わりを表そうとしています。
「キリストがわたしのうちにおられる」と感じるのはどんなときでしょうか。「わたしがキリストのうちにいる」ということは、どんなときに感じられるでしょうか。それを自分たちの経験の中に見つけることができれば素晴らしいことでしょう。
(3) 2節「手入れをなさる」は原文では、3節「清くなっている(カタロスkatharos)」という形容詞から派生した動詞です。「清くする」が普通の意味ですが、「枝を清くする」というのは「刈り込む」「剪定(せんてい)する」とことを表しています。農夫によって適切に刈り込まれるからこそ、ぶどうは豊かな実りをもたらすのです。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」も「イエスの言葉によって刈り込まれる」というイメージなのかもしれません。イエスの言葉は、わたしたちにとって時として厳しいこと・痛いことがありますが、それがわたしたちにとって大きな成長のチャンスでもあった、そんな経験はわたしたちにもあるのではないでしょうか。
(4) イエスの言葉がわたしたちのうちにとどまる(7節)と言いますが、イエスの「言葉」「掟」は究極的には「愛」しかありません。この直後に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と明確に宣言されます。
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)という約束がありますが、このような約束は、ヨハネ14・13-14、15・16、16・23-24でも繰り返されます。もちろん誰の中にも「祈りがかなえられなかった」という苦い経験があるでしょう。わたしたちはこのイエスの約束をどう受け止めるべきでしょうか。ここでは、キリストの愛に結ばれてわたしたちが願うことは、わたしたち自身が愛する者になる、わたしたちの中に愛が実現することだ、と言えるかもしれません。そしてわたしたちのこの願いと祈りを支えるものは、イエスご自身が苦しみと死を味わい、愛によって死を越えて、愛そのものである神と一つに結ばれた、という信仰なのです。何度も繰り返される「実を結ぶ」ということも「わたしたちの中に愛が実現する」ことそのものだと言えるでしょう。そして、それは「イエスの弟子になる」こと、「父が栄光を受ける」ことにつながっています。
(5) このように見てくると、「イエスというぶどうの木につながっている」ということは洗礼やミサへの参加などよりももっと根本的な生き方の問題だということがわかります。もちろん、ミサや秘跡をとおしてイエスにつながることは大切です。でもそれはもっと大切な、目に見えないイエスとのつながりを生きること、そして、わたしたち自身が愛する者に変えられていくことを表しているものなのです。
2節「つながっていながら、実を結ばない枝」や6節「つながっていない人」に対する厳しい言葉は、キリスト信者でない人を断罪するための言葉ではなく、キリストを知ったわたしたちがキリストから離れないようにと警告するための言葉です。わたしたちはキリスト信者でなくとも、愛によってキリストにつながっている人を知っています。その人々についてここでは直接的には何も述べられていません。ここで問いかけられているのは、キリストの愛を知ったわたしたち自身の生き方の問題なのです!
2006年05月07日
復活節第4主日 (2006/5/7 ヨハネ10・11-18)
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教会暦と聖書の流れ |
復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとのかかわりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日には毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえが読まれますが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにA年には1-10節、C年には27-30節が読まれます)。
福音のヒント
(1) パレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われます。羊飼いは50~100頭の羊の群れを追って、草のあるところを求めて旅していきます。羊は弱い動物なので、一頭だけでいたら野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を一つの群れに集め、狼や盗人から羊を守り、草のあるところに羊を導くことでした。夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたといわれます。こういう当時の実際の羊飼いの生活が背景にあって、きょうのたとえが語られています。
(2) ヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わり(41節)から続いています。9章は「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。安息日について律法の中では、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31・14)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。このことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10・11)と宣言されるのです。
ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)などなど。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白のことばでもあるのです。
(3) 「良い羊飼い」の「良い」はギリシア語では「カロスkalos」という言葉が使ってありますが、この言葉は普通「美しい」と訳されます。「外見的に美しい」ことや「目的にかなって美しい」ことを表す言葉です。ここでは「役に立つ」という意味で用いられているようです。狼が来て逃げ出す羊飼いは役に立たない羊飼いであるのに対し、羊のために命を差し出す羊飼いが「役に立つ良い羊飼い」なのです。
11節の「命を捨てる」は17-18節でもくわしく語られています。「命」はギリシア語で、「プシュケーpsyche」です。ここでは肉体的な命の意味でも、神からの永遠の命の意味でも使われています。「捨てる」(11,15節)は「ティセーミtithemi」で、本来「捨てる」という意味はなく、普通は「置く」と訳される言葉です。「命を投げ出す」「命を差し出す」という意味に取ったらよいでしょう。ヨハネ福音書ではイエスは能動的に、愛のゆえに命を差し出すのです。18節の「掟」は「神が定めたこと」の意味で受け取ればよいでしょう。
(4) 16節の「この囲い」とは何でしょうか。教会の中のある一つのグループを想定していて、他のキリスト信者が「この囲いに入っていない他の羊」なのでしょうか。しかし、もっと広く、キリスト信者ではない人も「他の羊」だと考える可能性があります。
ヨハネ17章のイエスの祈りの中にこのような言葉があります。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(17・20-21)。ここで言う「すべての人」はキリストを信じるすべての人のことです。ヨハネ福音書が書かれた時代、キリストを信じる人と信じない人(特にユダヤ人)との対立は決定的になっていたので、この福音書では「イエスを信じる人々」と「信じない世」を対立させる雰囲気があります。しかし「世」の人々はすべてイエスを信じない(イエスの羊でない)、と断定しているのではないことにも注意すべきでしょう。16節の「声を聞き分ける」は「声に聞き従う」とも訳すこともできます。イエスの声は「互いに愛し合いなさい」とわたしたちに呼びかける声です。その声に聞き従う人とは誰のことでしょうか。
(5) 14-15節の「知っている」はただ単に知識として知るという意味ではなく、お互いの関わりを表すことばです。日本語でも「○○さんを知っていますか」という言い方は単に「その人について知識がありますか」という意味ではなく、「その人と会ったことがありますか。どんな交際がありますか」という意味でしょう。ここでは「イエスがわたしたちを」「わたしたちがイエスを」「父がイエスを」「イエスが父を」知っていると言うことによって、父である神とイエス、そしてわたしたちの深い結びつきが示されています。9章でいやされた人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言った言葉も思い出されます。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、イエスによって自分が変えられたという体験そのものでした。
イエスは良い羊飼いとしてわたしたち一人ひとりを知っていてくださいます。わたしたちはどのようにイエスを知っていると言えるでしょうか。