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2006年05月07日

復活節第4主日 (2006/5/7 ヨハネ10・11-18)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとのかかわりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日には毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえが読まれますが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにA年には1-10節、C年には27-30節が読まれます)。

福音のヒント

  (1) パレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われます。羊飼いは50~100頭の羊の群れを追って、草のあるところを求めて旅していきます。羊は弱い動物なので、一頭だけでいたら野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を一つの群れに集め、狼や盗人から羊を守り、草のあるところに羊を導くことでした。夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたといわれます。こういう当時の実際の羊飼いの生活が背景にあって、きょうのたとえが語られています。

  (2) ヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わり(41節)から続いています。9章は「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。安息日について律法の中では、「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31・14)と言われていましたが、その安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。このことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10・11)と宣言されるのです。
 ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)などなど。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白のことばでもあるのです。

  (3) 「良い羊飼い」の「良い」はギリシア語では「カロスkalos」という言葉が使ってありますが、この言葉は普通「美しい」と訳されます。「外見的に美しい」ことや「目的にかなって美しい」ことを表す言葉です。ここでは「役に立つ」という意味で用いられているようです。狼が来て逃げ出す羊飼いは役に立たない羊飼いであるのに対し、羊のために命を差し出す羊飼いが「役に立つ良い羊飼い」なのです。
 11節の「命を捨てる」は17-18節でもくわしく語られています。「命」はギリシア語で、「プシュケーpsyche」です。ここでは肉体的な命の意味でも、神からの永遠の命の意味でも使われています。「捨てる」(11,15節)は「ティセーミtithemi」で、本来「捨てる」という意味はなく、普通は「置く」と訳される言葉です。「命を投げ出す」「命を差し出す」という意味に取ったらよいでしょう。ヨハネ福音書ではイエスは能動的に、愛のゆえに命を差し出すのです。18節の「掟」は「神が定めたこと」の意味で受け取ればよいでしょう。

  (4) 16節の「この囲い」とは何でしょうか。教会の中のある一つのグループを想定していて、他のキリスト信者が「この囲いに入っていない他の羊」なのでしょうか。しかし、もっと広く、キリスト信者ではない人も「他の羊」だと考える可能性があります。
 ヨハネ17章のイエスの祈りの中にこのような言葉があります。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(17・20-21)。ここで言う「すべての人」はキリストを信じるすべての人のことです。ヨハネ福音書が書かれた時代、キリストを信じる人と信じない人(特にユダヤ人)との対立は決定的になっていたので、この福音書では「イエスを信じる人々」と「信じない世」を対立させる雰囲気があります。しかし「世」の人々はすべてイエスを信じない(イエスの羊でない)、と断定しているのではないことにも注意すべきでしょう。16節の「声を聞き分ける」は「声に聞き従う」とも訳すこともできます。イエスの声は「互いに愛し合いなさい」とわたしたちに呼びかける声です。その声に聞き従う人とは誰のことでしょうか。

  (5) 14-15節の「知っている」はただ単に知識として知るという意味ではなく、お互いの関わりを表すことばです。日本語でも「○○さんを知っていますか」という言い方は単に「その人について知識がありますか」という意味ではなく、「その人と会ったことがありますか。どんな交際がありますか」という意味でしょう。ここでは「イエスがわたしたちを」「わたしたちがイエスを」「父がイエスを」「イエスが父を」知っていると言うことによって、父である神とイエス、そしてわたしたちの深い結びつきが示されています。9章でいやされた人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言った言葉も思い出されます。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、イエスによって自分が変えられたという体験そのものでした。
 イエスは良い羊飼いとしてわたしたち一人ひとりを知っていてくださいます。わたしたちはどのようにイエスを知っていると言えるでしょうか。

投稿者 ct : 2006年05月07日 12:28

コメント

14節のわたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。なんと慰めになる心強いみ言葉でしょう。自分自身が分からなくなる時、誰からも理解されていないと思う時、嫌な自分の心に気付かされる時、落ち込んでしまいそうになる時、そんな時も分かっているよと、おまえを知っているよと目を見て下さっている神である御父。囲いの外であなたを探している羊を共に居させてください。わたしがそのために役立つ者と成れますよう祈ります。

投稿者 ぶどうの枝 : 2006年05月06日 20:23

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