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2006年04月30日
復活節第3主日 (2006/4/30 ルカ24・35-48)
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教会暦と聖書の流れ |
先週に続いて、復活したイエスと弟子たちとが出会う場面が読まれますが、きょうの箇所はルカ福音書です。有名なエマオの弟子の話(ルカ24・13-35)の結びに、2人は「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(24・33-34)とありました。きょうの箇所では、そこに再びイエスが姿を現します。
福音のヒント
(1) 35節の2人の弟子は、エルサレムの弟子たちの集いを離れ、失意のうちにエマオに向かっていましたが、復活の主に出会って「十一人とその仲間」(33節)のもとに帰っていきます。イエスとの出会いの体験を告げ知らせたくて、他の弟子たちのもとに走るのです。弟子たちは復活したイエスとの出会いの体験を分かち合い、その集いの中で再びイエスに出会うことになります。ここに教会の原点の姿があるのではないでしょうか。
「あなたがたに平和があるように」は先週のヨハネ20・19,21,26にも伝えられている復活したイエスのあいさつです。「罪のゆるし」というテーマも共通しています。この箇所の背景にはヨハネ20・19-29と同じ口伝えの伝承があったようです。
復活したイエスの姿は、エマオの弟子の場合は「見知らぬ旅人」の姿でしたが、ここでは弟子たちからは「亡霊」(ギリシア語では「プネウマpneuma」)と見られています。イエスはご自分が生きていることを示すために、手と足を見せ、魚を食べてみせることまでしました。このことを通してイエスが弟子たちに分からせようとしていることは「まさしくわたしだ」(39節)ということです。
(2) ルカ10章で、イエスがエルサレムに向かう旅に出たときに、先に72人を派遣するという話がありました。そこでは、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)と言われ、また、「そこで出される物を食べ、また飲みなさい」(10・7)とも命じられていました。きょうの箇所では、復活されたイエスご自身がまさにそのようにしています。イエスはみずから、派遣される弟子たちのあるべき姿を示そうとされている、と言えるかも知れません。
使徒言行録10章で、ペトロがコルネリウスの家で行なった説教との関連も指摘されます。「平和」(36節)、「食事」(41節)、「宣べ伝え、証しする」(42節)、「罪のゆるし」(43節)など、ほとんどの要素がきょうの箇所と共通しています。ルカは、これこそが弟子たちの証言の内容でもあるのだ、と言おうとしているのではないでしょうか。
(3) 弟子たちはイエスの手足や、魚を食べるところを見て信じたというわけではありません。彼らが本当に信じる者に変えられるのは、45節で「イエスは、・・・彼らの心の目を開いて」というところです。わたしたちが信じるようになるためにも、わたしたちの内面に働きかけるイエスと聖霊の働きに心を開くことが必要でしょう。
「モーセの律法と預言者の書と詩編」(44節)は、旧約聖書全体を指す言葉です。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」(46-47節)は旧約聖書のある箇所の引用というよりも、それが旧約聖書全体をとおして告げられていた神の計画だということでしょう。「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」(44節)とは何でしょうか? この日の朝、イエスの墓に行った女性の弟子に告げられた言葉はこうでした。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(ルカ24・6-7)。そう言われて「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(24・8)とも言われています。
イエスのおっしゃるとおりだったのだ、とイエスの言葉を思い出す、という体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。イエスが語られた多くの言葉をわたしたちは知っています。でも、イエスの言葉がわたしたちの中で実現している、と感じたときに、イエスはほんとうに今も生きている、と感じることができるのではないでしょうか。
(4) 47節の「赦し(ゆるし)」はギリシア語で「アフェシスaphesis」ですが、この言葉は、イエスの活動の最初期にナザレの会堂でイエスご自身が読んだイザヤ書(61・1-2)の中にもありました。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(イザヤ61・1-2参照)。「解放」「自由」と訳されている言葉は両方とも「アフェシス」です。この「アフェシス」というイエスのミッション(使命)は復活を境に、エルサレムから始まって全世界へと広がっていきます。
「罪」とは「神との断絶」であり、そこに「いのち」はないのですから、「罪の赦しを得させる悔い改め」とは、「人が神に立ち帰り、神と人とが一つに結ばれ、神のいのちを生きること」だと言ったらよいでしょう。
なお、「悔い改めが、・・・宣べ伝えられる」のであって、使徒たちが宣べ伝えるとは言われていません。もちろん使徒たちも宣べ伝えるはずですが、ここではむしろ「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われています。それは「悔い改めを宣べ伝える」のが神の働き、復活されたイエスの働きだからではないでしょうか。使徒たちは、過去のイエスの出来事の証人であるだけでなく、今、自分たちの中で神が、復活のイエスがなさっていることの証人なのです。復活したイエスが今の自分たちの中に働いていて、神と一つに結ばれるいのちを自分たちが生きているということをあかしする、それは、言葉よりも生き方によるあかしだと言うべきではないでしょうか。わたしたちもこの証人としての使命をいただいているのです。
2006年04月23日
復活節第2主日 (2006/4/23 ヨハネ20・19-31)
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復活節主日の福音のテーマは次のようにとらえることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年ほど前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。
なお、今回の「福音のヒント」は昨年のものとほとんど同じです。
福音のヒント
(1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。
(2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。
(3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」。あるいは「愛」と言ってもよいでしょう(ヨハネ13・34-35、15・12参照)。「ゆるし」は「愛」の典型ですからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
(4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子も他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスもまた、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分にも他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
トマスはコミュニティーの中で、コミュニティーの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。
(5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のキリスト信者は皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能ですが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)のギリシア語原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも読むことができます。ヨハネ福音書はいつもすでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれるのではないでしょうか。
2006年04月16日
復活の主日 (2006/4/16 マルコ16・1-7)
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教会暦と聖書の流れ |
イエスが十字架で死んだのは今で言えば、金曜日の午後3時ごろでした。古代ユダヤでは日没から新しい一日が始まったので、この日を1日目とすると、金曜日の日没から土曜日の日没までの「安息日」が2日目、土曜日の日没から日曜日の日没までの「週の初めの日」が3日目ということになります。きょうの福音にあるように、週の初めの日の朝早くイエスの墓に行くと墓は空だったので、イエスは土曜日の日没に始まる3日目の夜のうちに復活したと考えられてきました。復活徹夜祭のミサは光の祭儀や入信の秘跡をもって復活を祝うもので、単なる前夜祭ではなく、復活祭のメインのミサだと言うべきでしょう。このようなわけで、ここでは「復活の主日・日中のミサ」の福音、ヨハネ20・1-9(毎年同じ)ではなく、「復活徹夜祭」の福音、マルコ16・1-7(マタイ、ルカと3年周期)を取り上げます。
福音のヒント
(1) 当時の墓は洞穴のようになっていて、入口が円盤型の大きな転がる石でふさいでありました。「白い長い衣を着た若者」(5節)はもちろん天使です。
5節に「婦人たち」という言葉がでてきますが、原文では主語が省略されています。15・40で「婦人」と訳されているのはギリシア語の「ギュネーgyne」ですが、この言葉は大人の女性一般を指す言葉です。「婦人」という日本語は、既婚女性、特に専業主婦を指すニュアンスがあるので、現代ではあまり使われなくなっています(「婦人会」なんて言っているのは教会だけ?)。マルコ15・41で十字架のイエスを見守っていた女性たちは「イエスに従って来て世話をしていた人々である」と言われていますが、直訳では「彼に従い、彼に仕えてきた」です。この「従う」「仕える(ディアコノーdiakono)」は弟子の生き方の中心を表す言葉です(マルコ10・43-45参照)。マルコ福音書では男の弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまいました(マルコ14・50)が、女性の弟子たちは、最後までイエスに従い、イエスが十字架で息を引き取り、墓に納められるのを見届けています(15・40-41,47参照)。マルコ福音書は、この女性たちこそイエスの本当の弟子だという見方をしているのではないでしょうか。
初代教会には、復活の第一の証人をペトロや男の弟子たちだという伝承(Ⅰコリント15・5など)と、女性の弟子たちだという伝承(ヨハネ20・11-18など)があったようです。マルコは、ペトロの名を挙げて、男の弟子たちが最初の証人であったという伝承に従いながら、ここでは女性の弟子たちの役割を大きく取り上げています。
(2) きょうの箇所は7節で終わっていますが、続く8節には次のような言葉があります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。この女弟子たちの反応をどう考えるべきでしょうか。単純に考えて、もし彼女たちが実際に誰にも何も言わなければ、復活したイエスと弟子たちとのガリラヤでの出会いは起こらないことになるので、実際には後で話したはずだと考えてもよいかもしれません。ただしマルコは、復活とはこの女性の弟子たちにも信じられないほどの、人間の理解を超えた出来事だと言いたいのでしょうか。
(3) 新共同訳聖書を見るとマルコ16・8に続いて、「結び 一」(9-20節)と「結び 二」がありますが、これは後の時代の人が書き加えたもののようです。確かに8節の「恐ろしかったからである」で終わるのはあまりにも唐突で、その後の出来事を付け加える必要を感じた人々の気持ちも理解できます。その後の出来事とはもちろん、他の福音書にあるように、実際に弟子たちが復活のイエスに出会うという出来事です。
もしも16・8がこの福音書の本来の結びの言葉だったとすれば、マルコはあえて、復活したイエスとの出会いの物語を書かなかったということになります。それはなぜでしょうか。マルコは空の墓までは「過去の出来事」であり、復活したイエスとの出会いは、今の自分たちの中で起こっている「現在進行中の出来事」だから書く必要がないと考えたのではないでしょうか?
(4) 復活したイエスとの出会いの場についても、エルサレムとガリラヤという2通りの伝承があったようです。ヨハネ20章はエルサレム、21章はガリラヤ、ルカ24章はエルサレム、マタイ28章はガリラヤでの出会いを伝えています。マルコはこの箇所で「ガリラヤ」でイエスに会えるという天使の約束を伝えます。わたしたちにとって「ガリラヤでイエスに会う」とはどういうことでしょうか? 2つのことを考えてみましょう。
(a) マルコ福音書でイエスの活動はガリラヤから始まりました(マルコ1・14)し、ほとんどの活動はガリラヤで行なわれています。そう考えると「ガリラヤでお目にかかれる」は、福音書の第1ページに帰っていくことだと言えるかもしれません。もう一度、マルコ福音書を最初から丹念に読めば、福音書が伝えるイエスの言葉や行ないは過去のことではなく、今もわたしたちの間に生きておられるイエスが同じ福音を語り、同じ救いのわざをなさっている、と感じ取れるのではないでしょうか。
(b) ガリラヤはイエスと弟子たちにとって、故郷であり、生活の場でした。わたしたちにとっても、復活したイエスとの出会いの場は、自分たちの生活の場の中でのことだと言えるのではないでしょうか? わたしたちは聖書を読み、聖書の中で復活したイエスに出会うのではありません。福音書は昔イエスという方がいたというだけでなく、今もわたしたちの現実の中でともにいてくださる、ということを伝えています。本当にそのイエスを感じること、そこにわたしたちの救いといのちと喜びの源があるのではないでしょうか。
2006年04月09日
受難の主日 (2006/4/9 マルコ15・1-39)
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教会暦と聖書の流れ |
教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、「キリストの受難・死から復活のいのちへ」という「過越(パスカ)」を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書の受難朗読が行われます。一方、主日のミサでも、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念します。こちらは3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれます。今年はマルコで、長い形としてマルコ14・1~15・47を読むこともできます。
なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。
福音のヒント
(1) マルコ14・53-64に、最高法院での裁判が伝えられています。そこでイエスは、「神の子、メシア」であると自称した罪で死刑判決を受けました。きょうの箇所は、ローマ総督ピラトのもとでの裁判の場面から始まります。ユダヤは当時、ローマ帝国の直轄領になっていました。紀元26~36年までユダヤ、サマリアなどの地方をローマ総督として治めたのがピラトです。つまり、ユダヤ人の王はいないはずで、誰かが「ユダヤ人の王」を自称すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになります。「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの答えに対するイエスの答え「それは、あなたが言っていることです」(2節)は直訳では「あなたは言う」であって、「あなたが言っているとおりです」という賛同の意味にもとれますが、「あなたはそう言っています」つまり「それは自分には関係ない」というような意味にも取れます。いずれにせよ、イエスは最終的にローマ帝国に対する反逆者=政治犯として十字架刑に処せられました。
(2) 「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだ ・・・ 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した」(15・10-11)。マルコ福音書で群集はいつもイエスに好意的でした。マルコは、イエスの死の責任がユダヤ人の宗教的・社会的指導者たちにあると見ています。イエスは裁判で自分を「神の子」「ユダヤ人の王」であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのそれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったと考えたほうがいいでしょう。
(3) きょうの長い箇所の中で、イエスはたった2回しか話していません。イエスの沈黙はイザヤ53・7を思い起こさせます。イザヤ52・13~53・12の「苦しむ主のしもべ」の姿が背景にあるのでしょう。上のピラトへの言葉以外にイエスが語るのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(34節)だけです。まったく絶望の叫びのように聞こえる言葉です。しかし、これは詩編22の冒頭の言葉で、この受難物語の背景には詩編22があることも確かです。十字架のイエスをののしった人々の言葉は、詩編22・9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」を連想させます。「その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」(マルコ15・24)は、詩編22・18-19の引用と言えるような文章です。
詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスはそれらの、苦しみのどん底にある人々の一員として死んだと言ったらよいでしょうか。
(4) 38節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」は神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。39節では、ローマ軍の将校である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言います。この言葉は重要です。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1)という言葉で始まり、イエスを最初から神の子として紹介してきました。しかし、人間がそのことを初めて認めるのは、この、イエスが息を引き取ったときだったのです。マルコにとって「神の子」は力強く華々しい方ではなく、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10・45)方なのです。
マルコの教会がおそらく迫害の中にあったことも大切でしょう。自分たちが迫害の最中(さなか)にあり、無力でただ苦しみ、神からも見捨てられたように思ったとき、十字架のイエスもまたそうだったのだ、と感じることはどれほど大きな励ましになったことでしょう。十字架のイエスの姿は今のわたしたち一人一人に何を語りかけているのでしょうか。
(5) マルコの受難物語では、3人の人が象徴的な役割を果たしているようです。1人は「バラバ」。イエスはある意味で彼の身代わりになって死にました。それはイエスの死によって救われたすべての人の象徴ではないでしょうか。もう1人は「シモンというキレネ人」。彼は「自分の十字架を背負って」(マルコ8・34)イエスに従う弟子の象徴ではないでしょうか。さらに「百人隊長」。彼はイエスの死を見て、信仰告白するキリスト信者の象徴だと言えるでしょう。彼らの姿は、わたしたちを十字架のイエスに近づけるヒントになるのではないでしょうか。
2006年04月02日
四旬節第5主日 (2006/4/2 ヨハネ12・20-33)
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教会暦と聖書の流れ |
四旬節と復活節の根本的なテーマは、イエスの死と復活(過越)にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマだと言えるので、この季節によく読まれます。きょうの箇所は、第3、第4主日よりも、さらに直接的にイエスの受難と結びつく箇所です。イエスの受難の時、栄光の時が迫っています。
福音のヒント
(1) 20節の「祭りのとき」は「過越祭(すぎこしさい)の期間」で、「ギリシア人」はギリシア語を話す異邦人のことを指す言葉です。異邦人からイエスに会いたいと頼まれた弟子のフィリポは、なぜかこのことを直接イエスに伝えず、アンデレに話し、二人一緒にイエスのところに行ってそれを伝えました。この回りくどいやり方は何を意味しているのでしょうか?実際にこの異邦人たちはイエスに会ったのでしょうか?この出来事と23節「人の子が栄光を受ける時が来た・・・」以下のイエスの言葉はどうつながるのでしょうか?
一つの考えはこうです。「弟子たちは驚き、戸惑っているが、イエスのことが異邦人にも知られ、異邦人にも救いがもたらされることが、決定的な救いの時のしるしである、とヨハネ福音書は考えている」 確かに32節にある「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」という言葉につながるかもしれません。なお、「上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」の意味があります(先週の「福音のヒント」参照)。
別のことも考えられます。「弟子たちは異邦人までイエスのところにやってきたのを見て、イエスの地上の名声に心を奪われていた、その弟子たちに向かってイエスはご自分の道、受難の道を予告した」 共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の受難予告には、いつも「弟子の無理解」というテーマがありました。イエスが受難を予告しても弟子たちはそれを理解しないのです。この共観福音書の受難予告と同様のパターンがここにも見られるのではないか、ということも考えられるかもしれません。
(2) 「栄光」はギリシア語では「ドクサdoxa」です。この言葉には「輝き」という意味があります。ヘブライ語で栄光と訳される言葉は「カボード」です。カボードの元の意味は「重さ」だと言われます。カボードは「そのものの真の価値」というニュアンスがある言葉だと言えるでしょう。ヨハネ福音書は両方のニュアンスを掛け合わせ、「そのものの真の素晴らしさが輝き出ること」の意味で「栄光」という言葉を用いていると言えそうです。ここでは「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形が使われていて、「栄光を現す」(能動態 28節)「栄光を受ける」(受動態 26節)と訳されていますが、「輝かす」「輝かされる」と訳してもいいでしょう。ただし、それは表面的な輝きやこの世的な成功ではなく、十字架の中にある輝きなのです。
(3) 「一粒の麦」のイメージは大切でしょう。現代人の見方からすれば、地に落ちた麦はもちろん死ぬわけではありません。しかし、麦粒は麦粒であることを守ろうとすれば、1つの麦粒のままです。麦粒が自分を壊し、養分や水分を受け入れ、ほかのものとつながってこそ、豊かないのちが育っていきます。イエスのいのちはまさにそのようないのちでした。自分の中に閉じこもって、自分を守ろうとするのではなく、自らを壊して、神とのつながり、人とのつながりに生きようとしたいのちだったのです。この言葉は、イエスご自身のいのちについて語りながら、もちろん、わたしたちにも同じように生きることを呼びかけています。わたしたちはどんないのちを生きようとしているでしょうか。
25節の「命を愛する」「命を憎む」は分かりにくい表現かもしれません。これも一粒の麦のイメージで捉えたらよいでしょうか。「命を愛する」は一粒の麦が自分を守り、一粒のままでいようとすること。「命を憎む」は、一粒の麦が自分を壊して、もっと大きないのちになっていくこと。すなわち、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりの中にあるいのちへとよみがえる、というイメージで受け取ってはどうでしょうか。
(4) この25節の言葉は、マルコで最初の受難予告の後に語られる言葉(マルコ8・35)に似ています。26節の「従う」もマルコ8・34でも使われている言葉です。「仕える」は、マルコ福音書では3度目の受難予告の後にあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・44-45) これはまさにイエスと弟子たちの生き方の中心を表すようなことばです。ヨハネはマルコと共通の伝承を用いているようです。
(5) 27節「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」は、マルコ14・35-36のゲツセマネの祈りを思わせるような言葉です。しかし、ヨハネ福音書では「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と続きます。「この時」は「栄光を受ける時」(23節)であり、「この世が裁かれる時」(31節)、「地上から上げられるとき」(32節)でもあります。イエスの十字架の時は、イエスが神とはどういう方であるかを現し、神がイエスとはどういう方であるかを現す栄光の時なのです。イエスが極限の愛(13・1)を示すことによって、「神が愛である」ことを完全に現す時なので、悪(愛に反するこの世の支配者)に対する決定的な勝利が現れる時でもあるのです。
ヨハネは十字架の表面的なみじめさや悲惨さには目もくれません。そうでなく、そこに現れる「愛である神」を見るのです。これもわたしたちへの大きな招きでしょう。