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2006年04月23日
復活節第2主日 (2006/4/23 ヨハネ20・19-31)
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教会暦と聖書の流れ |
復活節主日の福音のテーマは次のようにとらえることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年ほど前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。
なお、今回の「福音のヒント」は昨年のものとほとんど同じです。
福音のヒント
(1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。
(2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。
(3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」。あるいは「愛」と言ってもよいでしょう(ヨハネ13・34-35、15・12参照)。「ゆるし」は「愛」の典型ですからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
(4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子も他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスもまた、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分にも他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
トマスはコミュニティーの中で、コミュニティーの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。
(5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のキリスト信者は皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能ですが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)のギリシア語原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも読むことができます。ヨハネ福音書はいつもすでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2006年04月23日 14:47
コメント
イラン、北朝鮮他未だに”核”を頼りにしている人間がいる事を考えると、父である神はどんなに悲しんでおられるかと思う
旧約のエサウとヤコブ、母親リベカの時代から今日まで、変る事のない人類の歴史、イエス・キリストが勝ち得てくださった十字架の勝利をいつまでも無駄にしてはならないと思う。真の平和はキリスト・イエスを頼みにすること、イエスと共にあることと思う。現実の日常生活、なかなか難しいけれども主は可能にしてくださる。アーメン
投稿者 ぶどうの枝 : 2006年04月21日 19:43
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