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2006年04月09日

受難の主日 (2006/4/9 マルコ15・1-39)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、「キリストの受難・死から復活のいのちへ」という「過越(パスカ)」を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書の受難朗読が行われます。一方、主日のミサでも、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念します。こちらは3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれます。今年はマルコで、長い形としてマルコ14・1~15・47を読むこともできます。
 なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。

福音のヒント

  (1) マルコ14・53-64に、最高法院での裁判が伝えられています。そこでイエスは、「神の子、メシア」であると自称した罪で死刑判決を受けました。きょうの箇所は、ローマ総督ピラトのもとでの裁判の場面から始まります。ユダヤは当時、ローマ帝国の直轄領になっていました。紀元26~36年までユダヤ、サマリアなどの地方をローマ総督として治めたのがピラトです。つまり、ユダヤ人の王はいないはずで、誰かが「ユダヤ人の王」を自称すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになります。「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの答えに対するイエスの答え「それは、あなたが言っていることです」(2節)は直訳では「あなたは言う」であって、「あなたが言っているとおりです」という賛同の意味にもとれますが、「あなたはそう言っています」つまり「それは自分には関係ない」というような意味にも取れます。いずれにせよ、イエスは最終的にローマ帝国に対する反逆者=政治犯として十字架刑に処せられました。

  (2) 「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだ ・・・ 祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した」(15・10-11)。マルコ福音書で群集はいつもイエスに好意的でした。マルコは、イエスの死の責任がユダヤ人の宗教的・社会的指導者たちにあると見ています。イエスは裁判で自分を「神の子」「ユダヤ人の王」であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのそれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったと考えたほうがいいでしょう。

  (3) きょうの長い箇所の中で、イエスはたった2回しか話していません。イエスの沈黙はイザヤ53・7を思い起こさせます。イザヤ52・13~53・12の「苦しむ主のしもべ」の姿が背景にあるのでしょう。上のピラトへの言葉以外にイエスが語るのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(34節)だけです。まったく絶望の叫びのように聞こえる言葉です。しかし、これは詩編22の冒頭の言葉で、この受難物語の背景には詩編22があることも確かです。十字架のイエスをののしった人々の言葉は、詩編22・9「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」を連想させます。「その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」(マルコ15・24)は、詩編22・18-19の引用と言えるような文章です。
 詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスはそれらの、苦しみのどん底にある人々の一員として死んだと言ったらよいでしょうか。

  (4) 38節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」は神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。39節では、ローマ軍の将校である百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言います。この言葉は重要です。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1)という言葉で始まり、イエスを最初から神の子として紹介してきました。しかし、人間がそのことを初めて認めるのは、この、イエスが息を引き取ったときだったのです。マルコにとって「神の子」は力強く華々しい方ではなく、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(10・45)方なのです。
 マルコの教会がおそらく迫害の中にあったことも大切でしょう。自分たちが迫害の最中(さなか)にあり、無力でただ苦しみ、神からも見捨てられたように思ったとき、十字架のイエスもまたそうだったのだ、と感じることはどれほど大きな励ましになったことでしょう。十字架のイエスの姿は今のわたしたち一人一人に何を語りかけているのでしょうか。

  (5) マルコの受難物語では、3人の人が象徴的な役割を果たしているようです。1人は「バラバ」。イエスはある意味で彼の身代わりになって死にました。それはイエスの死によって救われたすべての人の象徴ではないでしょうか。もう1人は「シモンというキレネ人」。彼は「自分の十字架を背負って」(マルコ8・34)イエスに従う弟子の象徴ではないでしょうか。さらに「百人隊長」。彼はイエスの死を見て、信仰告白するキリスト信者の象徴だと言えるでしょう。彼らの姿は、わたしたちを十字架のイエスに近づけるヒントになるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 2006年04月09日 14:06

コメント

洗礼を受けて1年目になるものです。
いつもこの福音のヒントを読ませて頂いております。
全く正しい教えであると思います。
私たちがイエスのように行動が出来るようになりますように・・・
私は理屈がわかったと思っていましたが、行動が伴なっていませんでした。
感想ではないかもしれませんが、素晴らしい教えのために、いつも何もかけません。
これからもよろしくお願い致します。

投稿者 ripple : 2006年04月05日 14:59

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