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2006年04月16日
復活の主日 (2006/4/16 マルコ16・1-7)
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教会暦と聖書の流れ |
イエスが十字架で死んだのは今で言えば、金曜日の午後3時ごろでした。古代ユダヤでは日没から新しい一日が始まったので、この日を1日目とすると、金曜日の日没から土曜日の日没までの「安息日」が2日目、土曜日の日没から日曜日の日没までの「週の初めの日」が3日目ということになります。きょうの福音にあるように、週の初めの日の朝早くイエスの墓に行くと墓は空だったので、イエスは土曜日の日没に始まる3日目の夜のうちに復活したと考えられてきました。復活徹夜祭のミサは光の祭儀や入信の秘跡をもって復活を祝うもので、単なる前夜祭ではなく、復活祭のメインのミサだと言うべきでしょう。このようなわけで、ここでは「復活の主日・日中のミサ」の福音、ヨハネ20・1-9(毎年同じ)ではなく、「復活徹夜祭」の福音、マルコ16・1-7(マタイ、ルカと3年周期)を取り上げます。
福音のヒント
(1) 当時の墓は洞穴のようになっていて、入口が円盤型の大きな転がる石でふさいでありました。「白い長い衣を着た若者」(5節)はもちろん天使です。
5節に「婦人たち」という言葉がでてきますが、原文では主語が省略されています。15・40で「婦人」と訳されているのはギリシア語の「ギュネーgyne」ですが、この言葉は大人の女性一般を指す言葉です。「婦人」という日本語は、既婚女性、特に専業主婦を指すニュアンスがあるので、現代ではあまり使われなくなっています(「婦人会」なんて言っているのは教会だけ?)。マルコ15・41で十字架のイエスを見守っていた女性たちは「イエスに従って来て世話をしていた人々である」と言われていますが、直訳では「彼に従い、彼に仕えてきた」です。この「従う」「仕える(ディアコノーdiakono)」は弟子の生き方の中心を表す言葉です(マルコ10・43-45参照)。マルコ福音書では男の弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまいました(マルコ14・50)が、女性の弟子たちは、最後までイエスに従い、イエスが十字架で息を引き取り、墓に納められるのを見届けています(15・40-41,47参照)。マルコ福音書は、この女性たちこそイエスの本当の弟子だという見方をしているのではないでしょうか。
初代教会には、復活の第一の証人をペトロや男の弟子たちだという伝承(Ⅰコリント15・5など)と、女性の弟子たちだという伝承(ヨハネ20・11-18など)があったようです。マルコは、ペトロの名を挙げて、男の弟子たちが最初の証人であったという伝承に従いながら、ここでは女性の弟子たちの役割を大きく取り上げています。
(2) きょうの箇所は7節で終わっていますが、続く8節には次のような言葉があります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。この女弟子たちの反応をどう考えるべきでしょうか。単純に考えて、もし彼女たちが実際に誰にも何も言わなければ、復活したイエスと弟子たちとのガリラヤでの出会いは起こらないことになるので、実際には後で話したはずだと考えてもよいかもしれません。ただしマルコは、復活とはこの女性の弟子たちにも信じられないほどの、人間の理解を超えた出来事だと言いたいのでしょうか。
(3) 新共同訳聖書を見るとマルコ16・8に続いて、「結び 一」(9-20節)と「結び 二」がありますが、これは後の時代の人が書き加えたもののようです。確かに8節の「恐ろしかったからである」で終わるのはあまりにも唐突で、その後の出来事を付け加える必要を感じた人々の気持ちも理解できます。その後の出来事とはもちろん、他の福音書にあるように、実際に弟子たちが復活のイエスに出会うという出来事です。
もしも16・8がこの福音書の本来の結びの言葉だったとすれば、マルコはあえて、復活したイエスとの出会いの物語を書かなかったということになります。それはなぜでしょうか。マルコは空の墓までは「過去の出来事」であり、復活したイエスとの出会いは、今の自分たちの中で起こっている「現在進行中の出来事」だから書く必要がないと考えたのではないでしょうか?
(4) 復活したイエスとの出会いの場についても、エルサレムとガリラヤという2通りの伝承があったようです。ヨハネ20章はエルサレム、21章はガリラヤ、ルカ24章はエルサレム、マタイ28章はガリラヤでの出会いを伝えています。マルコはこの箇所で「ガリラヤ」でイエスに会えるという天使の約束を伝えます。わたしたちにとって「ガリラヤでイエスに会う」とはどういうことでしょうか? 2つのことを考えてみましょう。
(a) マルコ福音書でイエスの活動はガリラヤから始まりました(マルコ1・14)し、ほとんどの活動はガリラヤで行なわれています。そう考えると「ガリラヤでお目にかかれる」は、福音書の第1ページに帰っていくことだと言えるかもしれません。もう一度、マルコ福音書を最初から丹念に読めば、福音書が伝えるイエスの言葉や行ないは過去のことではなく、今もわたしたちの間に生きておられるイエスが同じ福音を語り、同じ救いのわざをなさっている、と感じ取れるのではないでしょうか。
(b) ガリラヤはイエスと弟子たちにとって、故郷であり、生活の場でした。わたしたちにとっても、復活したイエスとの出会いの場は、自分たちの生活の場の中でのことだと言えるのではないでしょうか? わたしたちは聖書を読み、聖書の中で復活したイエスに出会うのではありません。福音書は昔イエスという方がいたというだけでなく、今もわたしたちの現実の中でともにいてくださる、ということを伝えています。本当にそのイエスを感じること、そこにわたしたちの救いといのちと喜びの源があるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2006年04月16日 10:10
コメント
私のガリラヤはどこ?と遠い昔に考えたことがあります。今はみ言葉・聖書を分ち合う時、約束のみことばどおり、共にいて下さるイエスを感じます。7節の「・・・かねて言われたとおり、そこであえる」とこれは事実です。この様な機会を与えてくださる神に感謝です。そして、その働きの手となっておられる方々に、神の祝福がいつまでもありますように。聖書の集い参加者です。
投稿者 ぶどうの枝 : 2006年04月14日 11:48
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