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2006年03月19日
四旬節第3主日 (2006/3/19 ヨハネ2・13-25)
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教会暦と聖書の流れ |
四旬節第3~5主日の福音は年によって雰囲気が違います。A年は伝統的な洗礼志願者のための福音(ヨハネ4、9、11章)、C年は回心をテーマとした箇所が読まれます。今年(B年)はイエスの「死と復活」を直接テーマとする箇所が選ばれています。四旬節のさまざまな性格が年毎に表れていると言えるでしょう。そういう意味で、今日の箇所の中心テーマは「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」です。
福音のヒント
(1) マルコ福音書などでは、イエスはずっとガリラヤ地方で活動していて、生涯の最後に1度だけエルサレムの都に上り、そこで殺されたという印象がありますが、ヨハネ福音書ではイエスは何度もガリラヤとエルサレムを行き来しています。「過越祭(すぎこしさい)」の季節にエルサレムに行くのは自然なことでしょう。ただし、この箇所でわざわざ「過越祭」について言及されているのは、イエスの「死と復活」を暗示するためかもしれません。イエスが殺されたのは過越祭の時でしたし、イエスは死からいのちへと過ぎ越す新しい「過越」そのものだからです。この「過越」はきょうの福音の重要なテーマです。
(2) 牛や羊や鳩は神殿でいけにえとしてささげられる動物でした。また、当時流通していたギリシャやローマの貨幣では神殿への献金ができないので、イスラエルの伝統的な貨幣に交換してもらう必要もありました。これらの商売は神殿にとって必要なものでした。イエスはなぜ彼らの商売を妨害しようとしたのでしょうか。
ヨハネ福音書ではイエスの活動の初期の話ですが、マタイ、マルコ、ルカ福音書では同じ出来事が生涯の最後に起こっています。そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ56・7の言葉を引用しています(マルコ11・17など)。イエスにとって神殿は純粋に「祈りの家」であるべきだったので商売を否定したということでしょうか。だとしたら神殿そのものは否定されていないということになります。ヨハネ福音書でも詩編69・10を引用した「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉が伝えられていますが、これは「あなたの家(神殿)に対する熱心さでわたしの心はいっぱいになっている」という意味です。少なくとも周囲の人々には、イエスが神殿を大切にしようとしていると見えたのでしょう。
(3) しかし、ヨハネ福音書では、神殿そのものが過去のものになっていて、イエスと共に新しい時代が始まっている、という面が大切です。その意味で、2・1-11のガリラヤのカナでの婚宴の話と対になっています。そこでは古い時代の象徴である「清めの水」が新しい時代の象徴である「ぶどう酒」に変えられました。エルサレムの神殿は実際には紀元70年にローマ軍によって破壊されます。イエスの死から40年ほど後のことですが、ヨハネ福音書が書かれた時代から見れば、過去の出来事になっていました。しかしヨハネ福音書は、イエスが登場したとき、すでに石造りの神殿の時代は終わったと見ているのです。
ヨハネ福音書は奇跡のことを「しるし」と言います(2・11参照)。奇跡は単なる不思議な出来事ではなく、イエスとはどういう方かを表す「しるし」なのです。しかし、ただ単に奇跡に驚いてイエスを信じる態度は否定されています。三日で建て直される神殿とは、もちろん「死んで三日目に復活するイエスの体」のことです。究極のしるしは「イエスの死と復活」だと言ってもいいでしょう。そこでこそ、イエスとはどういう方かが明らかにされるからです。神殿の本来の意味は「神がそこに住まい、人が神と出会う場」です。イエスという方において、特に死んで復活したイエスという方において、神は人と共におられ、人は神に出会うことができる。わたしたちもこの新しい時代に生きています。
(4) ヨハネが伝えるイエスの言葉「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)の背景には、ゼカリヤ書の結びにある「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(14・21)という言葉があるのかもしれません。「その日」は救いの完成の日です。なぜ、その日には神殿から商人の姿がなくなるのでしょうか。ゼカリヤ書は直前でこう言います。「(その日には、)エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る」(14・21)。「鍋」は日常生活の象徴です。その日には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれるいけにえの儀式は不必要になる、だからいけにえの動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になるという預言だと考えられます。これもイエスによって始まった新しい時代の特徴です。わたしたちの日々の生活の中でそれを感じることができるでしょうか。
(5) 23-25節は何でしょうか。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)の「信用する」は原文では23節の「信じる」と同じ動詞です。ここで「しるし(奇跡)を見てイエスを信じる」という態度が否定的に見られているのは明らかです。奇跡によってイエスを信じても、いつか(特に十字架を前にした時に)人は離れていくであろうということが予告されているようです。この箇所には、もしかしたら3章のニコデモとの対話への導入の意味もあるかもしれません。ファリサイ派の議員であったニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(3・2)と言いますが、彼が本当にイエスを信じるようになったのは、イエスの死の後のことだったようです(19・39参照)。わたしたちもイエスの死と復活を見つめるように招かれています。
投稿者 ct : 2006年03月19日 16:54
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