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2006年03月12日
四旬節第2主日 (2006/3/12 マルコ9・2-10)
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教会暦と聖書の流れ |
四旬節に、いわゆる「主の変容」の箇所を読むのは、教会の古い伝統です。このイエスの栄光の姿は、イエスが受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって現されたのだと考えられます。この日の福音の中に、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節の大きなテーマが示されています。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
福音のヒント
(1) この「高い山」とはどこのことでしょうか。伝統的にはガリラヤ地方エズレル平原にあるタボル山だとされています。平野の中にお椀を伏せたような形で、標高は558メートルです。それほど高い山とは言えないでしょう。もう一つの可能性は、「ヘルモン山」です。こちらは2800メートル級の山々で、現在ではスキー場もあるそうです(写真は1月のヘルモン山)。マルコ福音書のこの箇所の直前に出てくる地名は「フィリポ・カイサリア地方」です(8・27)。フィリポ・カイサリアとヘルモン山はそう遠くありません。きょうの箇所は「六日の後」という言葉で始まり、前の話とのつながりを感じさせますので、ヘルモン山だと考えてもよいかもしれません。
(2) 直前の箇所は、8章のいわゆるペトロの信仰告白と最初の受難予告です。
「31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32a しかも、そのことをはっきりとお話しになった。b すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
マルコ福音書は3回の受難予告を伝えますが、いつも同じパターンがあります。
①イエスがご自分の受難・死・復活を予告する(8・31-32a)。
②弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えている(8・32b)。
③イエスは弟子たちに受難の道の意味を語り、同じ道に弟子たちを招く(8・33-35)。
きょうの出来事はこれと密接に結びついています。8・31-35が言葉による受難予告であったとすれば、きょうの箇所9・2-13は「出来事による受難予告」と言ってもよいでしょう。
(3) モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきを明確にしています。
ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょう。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか(上記②の要素)。
(4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1・11)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。これは上記③の要素にあたります。
イエスの変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14・50)と、マルコははっきり書いています。受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった昔の弟子たちをマルコは非難しようとしているのでしょうか。そうではなく、自分たちも同じ過ちを犯す危険があると警告しているのでしょう。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています。そのわたしたちをイエスはご自分の道に招いてくださっています。今のわたしたちにとってイエスに「聞く=聞き従う」とはどういうことでしょうか。
投稿者 ct : 2006年03月12日 11:11
コメント
私は信者になったばかりなので、的外れな事を書いてしまうかもしれませんがお許しください。
私はこの御言葉に「これからまた始まる新しい循環の前のプレゼント」って感じがしていました。
「小さな体」が成熟し満たされた時、次の成長の為に以前の「小さな体」が壊れる前に下さった神様からのプレゼントだと思ったのです。
(いわば卒業式みたいなものでしょうか?)
そして、私達は積み上げた「小さな体」に固執するキライがありますが、神様が求めておられるのはもっともっと素晴らしい幸せを見せてくださる事なのかな?って気がします・・
だけどその「小さな体」も慈しみ愛してくださり「絶対忘れないよ!」・・とおっしゃってくださる気がするのです・・
御言葉はいつも心の拠り所です。
投稿者 あひる : 2006年03月11日 01:25
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