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2006年02月19日
年間第7主日 (2006/2/19 マルコ2・1-12)
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教会暦と聖書の流れ |
先週の重い皮膚病の人のいやしに続く場面です。イエスのもとには大勢の病人が押し寄せてきました。ここでは「病気のいやし」と「罪のゆるし」が深く結びついています。
福音のヒント
(1) 2節「御(み)言葉を語っておられると」とありますが、マルコはイエスのメッセージの内容をその都度伝えることをしません。根本的なメッセージはいつも同じで、神の国の福音(1・14-15)と考えればよいでしょう。4節「屋根をはがして」と言いますが、当時の家の壁は丈夫でしたが、屋根は小枝を渡して、軽く土で固めたものだったので、簡単にはがれたようです。「床(とこ)」は担架のようなものと考えればよいでしょう。
5節の「その人たちの信仰を見て」というときの「信仰」は病人を運んできた人々の信仰ですが、この言葉は日本語で「信仰」というよりももっと広い「信じること」を意味しています。頭の中で「イエスは神の子キリストである」と信じるというよりも、この方ならなんとかしてくれると信頼してイエスに向かっていく態度だと言ったらよいでしょう。イエスはそのような態度を評価しているのです。なお、この人々の姿に、最も弱く、苦しんでいる人を囲んで集う教会の原点を感じ取ることもできるのではないでしょうか。
(2) 「子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される」(5節)とはどういうことでしょうか。イエスの時代、病気は悪霊の仕業であるという考えがありましたが、病気や障害は罪の結果である、という考えもありました。何らかの罪を犯したからこのような不幸がこの人の上に臨んだのだ、と考えられたのです。イエスはこのような見方に同調しているのでしょうか。
ヨハネ9・1-3に次のような話があります。「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」イエスは病気や障害という人の不幸を罪の結果であると見ていません。イエスは過去にさかのぼって原因を説明するのではなく、「今、神がこの人に何をなさろうとしているか」ということだけを見つめています。
この箇所でも、イエスはこの人の病気の原因はこの人の罪であると宣言しようとしているのではなく、この人を「子」として受け入れ、罪をゆるすことが神の望みなのだと宣言していると受け取ればよいでしょう。
(3) 「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易(やさ)しいか」(9節)。イエスはどちらを易しいと考えているのでしょうか? 意外に答えにくい問題かもしれません。しかし、本当は難易度の比較が問題ではないのでしょう。当時の人々にとって「罪をゆるす」ことと「病気をいやす」ことは同じだったので、イエスはその両方を彼にもたらそうとしていると考えればよいのでしょう。この人の罪がゆるされる、という目に見えない現実は、この人が床を担いで歩く、という目に見える出来事によって明らかにされるのです。
(4) 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」(10節)の「人の子」という言葉は元来、人間一般を指す言葉でした。しかし、ダニエル7・13で天の雲に乗ってくる方が「人の子のような者」と言われたことから、最終的に神から遣わされる救い主・審判者の意味を持つようになりました。ここでは「イエスがそのような特別な方だから赦すことができる」という意味でしょうか。しかし、「人間一般が罪を赦す権威を持っている」と考える可能性もあります。マルコ2・27-28「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」の場合の「人の子」は「人間一般」の意味だと考えるのが自然でしょう。また、マタイ9・8ではきょうの箇所と同じ話の結びに「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した」とあり、そこでも「人間一般に罪をゆるす権限が与えられている」と考えられるからです。
「神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)という律法学者の考えは確かに正論かもしれません。律法学者は、病気に苦しむ人に「罪びと」のレッテルを貼り、罪は神しかゆるせないから自分たちは何もできない、と考えました。そして、目の前の人の苦しみを見て見ぬふりしている自分たちの態度を正当化してしまうのです。イエスはまったく違います。イエスはその人の苦しみに向き合います。そして「神はこの人を決して見捨てていない」という確信を持って彼と関わっていくのです。
(5) 「罪」とは根本的に言えば「神から離れること」です。普通は人間が自己中心から神に背くことを罪と言いますが、イエスの目の前にあった罪の問題は、むしろ病気であるがゆえに「罪びと」のレッテルを貼られ、神からも人からも見放されてたようになっていた人々の問題でした。神が罪をゆるすということは、傷つき、失われた人間との関係を神のほうが取り戻そうとされることです(ルカ15章の放蕩息子のたとえの父親の姿を思い出しましょう)。イエスはすべての人に対するこの神のゆるしを確信していました。イエスは神のゆるしを目の前の苦しむ人にもたらします。逆に、律法学者のような態度は、神の望みであるゆるしが人に届くのを妨げてしまいます。わたしたちもイエスのように、神のゆるし(=神の思い、神の愛)を人に届けることができるでしょうか。それは「ゆるしの秘跡」だけのテーマではなく、わたしたち一人一人の人との関わり方の問題でしょう。
投稿者 ct : 2006年02月19日 15:31
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