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2006年02月12日
年間第6主日 (2006/2/12 マルコ1・40-45)
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教会暦と聖書の流れ |
マルコ福音書は1章39節で、イエスの活動をまとめて「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と述べています。「悪霊を追い出す」ことは「病人をいやす」ことと密接に結びついていました(先週の「福音のヒント」参照)。きょうの箇所は一人の病人とイエスとの出会いを伝えています。
福音のヒント
(1) 「重い皮膚病」は聖書の中で以前は「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に新約聖書・新共同訳で「重い皮膚病」と訳されることになりました。差別的なニュアンスのある「らい(病)」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです。しかし、「重い皮膚病」と言ってしまうとあまりに漠然としていて、古代から続くハンセン病の患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。
聖書の世界で「重い皮膚病」の人々が負わされていた苦しみはレビ記の規定から想像できるでしょう。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13・45-46) 。「伝染病」という考えはなくても、「汚(けが)れがうつる」という考えはありました。「汚れている」とは「聖である神」と対極にいる、神からもっとも遠い人間だということです。また、この病は「神に撃たれたもの」とも考えられました。「宿営の外」は共同体から追放されることを意味しています。神との関係も人との関係も完全に絶たれてしまうのです。肉体的な苦しみだけでない、大きな苦しみがその人を襲っていたことになります。このような苦しみを理解せずに、きょうの箇所を理解することはできません。
(2) 「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」(40-41節)は、直訳では「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」「わたしは望む。清められよ」です。単純で力強いイエスの言葉です。イエスは彼に触れました。触れることは相手の苦しみを共に荷おうとする動作だとも言えますし、「あなたは神からも、人からも断ち切られた人間ではない」という宣言だったとも言えるでしょう。
病気や苦しみに対するイエスの態度はどのようなものだったのでしょうか。確かにイエスは人々を苦しみから解放しようとされました。しかし、最後にはご自分の身に降りかかってくる苦しみを受け入れました。病気や苦しみについて考えるとき、この両面を考えないわけにはいきません。どちらの場合も、イエスにとって大切なことは神とのつながり、人とのつながりを生き抜くことだったと言えばよいでしょうか。
(3) 「深く憐れんで」は「はらわたを揺さぶられる」という言葉(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)ですが、写本上の問題があります。古代の多くの写本が現存していますが、各写本によって微妙な違いがあります。この箇所では「深く憐れんで」が「怒って」となっている写本があるのです。「深く憐れんで」のほうが分かりやすいことは確かです。しかし、書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいので、本来「怒って」だったと考えるべきかもしれません。「怒って」だとすれば、その怒りは何に対するものでしょうか。もちろん、目の前の病人に対してではないはずです。この人を苦しめている何ものかに対する怒りだと言ったらよいでしょうか。いずれにせよ、イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で心を揺さぶられ、その人を助けます。イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったのではないようです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)という言葉にも、このようないやしの奇跡から自分を理解されたくないというイエスの思いを感じ取ることができるでしょう。
(4) 「祭司に体を見せ」は社会復帰のための条件でした。当時、重い皮膚病と判定するのも、それが清められたことを判定するのも祭司の役割でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。イエスはただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼と人々との絆(きずな)を取り戻そうとしていると言ってもよいでしょう。
(5) イエスによるいやしについて、アルバート・ノーランという南アフリカのドミニコ会司祭は次のように書いています。「イエスのいやしの活動が成功したことは、宿命論に対する信仰と希望の勝利として見られねばならない。病気を自分の定めとして諦めていた病人が、自分たちは治ることができるし、そうなると信じるよう勇気づけられたのだ。イエス自身の信仰、そのゆるぎない確信が病人のうちにこの信仰を呼び覚ました。信仰は、人々がイエスとの接触をとおして彼から獲得したある態度であった」(『キリスト教以前のイエス』篠崎榮訳。新世社)。わたしたちの時代もある種の宿命論(あきらめ)に満ちているかもしれません。「どうせ世界は変わりっこない」「あんな人はダメに決まっている」「どうせ自分はダメな人間だ」などなど。もちろん、イエスが受難の道を受け入れたように、人間には受け入れなければならないこともあります。しかしあきらめてはいけないこともあるはずです。イエスの信仰(確信)は、神はすべての人のアッバ(父)であり、どんな人をも決して見捨てることなく、ご自分の子として愛してくださる、ということでした。イエスのこの確信は現代のさまざまな形の宿命論(あきらめ)に挑戦してくるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2006年02月12日 14:01
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