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2006年01月01日
神の母聖マリア (2006/1/1 ルカ2・16-21)
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教会暦と聖書の流れ |
1月1日は「神の母聖マリア」の祭日ですが、福音の箇所は主の降誕・夜半のミサの続きです。日本の社会ではクリスマスの飾りが取り払われ、お正月飾りになっていますが、教会ではクリスマスの祝いが続いているのです。大きな祝日は8日間かけて祝う伝統があり、きょうは降誕祭を締めくくる「降誕八日目」に当たります。教会はお生まれになったイエスの光の中で新年を迎えると言うこともできるでしょう。
なお、パウロ6世教皇はこの日を「世界平和の日」と定めました。年の初めにあたって人にはそれぞれの願いがあります。しかし、人類共通の願いとしてすべての人の平和を祈るよう教会は呼びかけています。
福音のヒント
(1) 羊飼いたちが天使から聞いた救い主のしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2・12)というものでした。ベツレヘムの村には他にも赤ちゃんがいたでしょう。しかし、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」はイエス以外にいないのです。イエスの時代の羊飼いは、町の人々から罪びと同様に見られ、蔑まれていました(主の降誕・夜半のミサの「福音のヒント」参照)。もし、お生まれになった救い主が、金のベッドに寝かされ、立派な宮殿のような場所にいたら羊飼いたちは近づくこともできなかったでしょう。この幼子が飼い葉桶の置かれた家畜小屋のようなところにいたからこそ近づくことができたのです。羊飼いたちの喜びは、天使のお告げどおり救い主が誕生した、というだけでなく、その救い主がこれほど自分たちの近くに来てくださった、ということだったのではないでしょうか。
(2) 17-18節には羊飼いたちが人々にこのことを話し、人々が「不思議に思った」とあります。この人々の反応は19節のマリアの姿と対比されているようです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と訳されていますが、マリアはただ不思議に思っていたのではありません。
「心に納める」は少年イエスがエルサレムで迷子になり、神殿で見つかる、という話の結び(ルカ2・51)でも使われています。「記憶の中にしっかり留めておく」ことを意味します。「思い巡らす」は「しっかりとよく考える」の意味です。
マリアは幼子イエスの誕生にまつわる出来事のすべてをしっかり記憶の中に留めました。聖霊によって宿り、ダビデの王座を受け継ぐはずの子が、家畜小屋のようなところで貧しく生まれたこと。そして最初に訪ねてきたのが当時の人々から蔑まれていた羊飼いたちだったこと。それはマリアにとっても確かに不思議なことだったでしょう。しかし、マリアはそれについて熟考し、そこに神の働きを見つけていくのです。
エリサベトを訪問したとき、マリアは神の働きをこう賛美しました。
「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1・51-53)。
すべての人を救う神の働きが、人間の目からは不思議に見える仕方で実現し始めていることをマリアは深く味わっていたのでしょう。
わたしたちも過ぎた1年のことを「心に納めて、思い巡らし」ます。良かったこと、悪かったこと。思い通りに行ったこと、行かなかったこと。予想していたこと、予想外のこと。さまざまな出来事の中に、神がおられることを感じることができるでしょうか。
(3) 羊飼いたちが探し当てた幼子は、病気をいやしてくれるわけでも、パンを増やしてくれるわけでも、立派な説教をしてくれるわけでもありませんでした。羊飼いたちの辛く厳しい現実は何も変わらないのです。それでも「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)。この羊飼いたちの喜びは、この現実の中に救い主が来てくださった、ということだと言えるのではないでしょうか。問題や困難な状況はなくならないかもしれません。しかし、わたしたちは神から見捨てられているのではなく、神はわたしたちとともにいてくださるのだ、という喜び。わたしの人生はただの無意味な出来事の連続ではなく、キリストがともにいてくださる人生だと感じられる喜び。マリアとヨセフと羊飼いたちを包んでいたこの小さな喜びの光が、全世界に広がり、今のわたしたちにまで伝えられています。
(4) 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(21節)。割礼はアブラハムとの契約のしるし(創世記17・10-11)であり、神の民イスラエルの一員となるしるしです。「イエス」という名は旧約聖書では「ヨシュア」にあたり、「主は救い」「主は救う」という意味があります。
イエスは成人してからさまざまなことをしたと伝えられています。しかし、キリスト教はイエスが力強く語り、行動した姿よりも、何もできない無力なイエスの姿を最も大切にしてきました。それが「飼い葉桶の幼子」の姿であり、「十字架のイエス」の姿なのです。その姿は、2000年にわたって、貧しく無力で苦しみに満ちた人生を送るすべての人を励まし続けてきたのです。
「君は一人ぼっちじゃない。ぼくがいるよ。ぼくはみんなの喜び、苦しみ、悲しみを一緒に担うために生まれてきたんだよ。だれでも安心してぼくのところに来ていいんだよ」
わたしたちも、幼子イエスのそんな無言の呼びかけを聞き取ることができるでしょうか。
投稿者 ct : 2006年01月01日 14:59
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