2005年11月20日
王であるキリスト(2005/11/20 マタイ25・31-46)
|
教会暦と聖書の流れ |
この箇所はマタイ24章4節から始まった終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語です)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。
福音のヒント
(1) 31節では「人の子」が主語ですが、34節でそれが突然「王」に変わっているので、31-33節と34節以降は、本来別の話だったものをマタイが結びつけたと考えられます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(31節)は申命記33・2(のギリシア語訳)やゼカリヤ14・5から採られた表現であり、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)の背景にはエゼキエル34・17があります。神の現れと裁きに関する伝統的な表現であり、この31-33節は世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身(何が神によって決定的に問われることか、ということ)を語るための舞台装置の役割を果たしていると考えたらよいでしょう。
(2) 神の判断(裁き)で何が決定的に問われるか、ということについて、この箇所は疑問の余地のないほど明快な基準を示しています。ただし、この箇所をめぐって以下のような考えもありますので紹介しておきましょう。
一つは「誰がここで裁かれているか」ということについてです。実はわたしたちは「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」と言うことはできません。この箇所を読んでいるわたしたちは、このように裁かれることを知っているので、わたしたちにとってイエスの言葉は意外であるはずはないのです。だとするとこの箇所は、「聖書やキリストを知らない人々がどのような基準で裁かれるか」を語る話だと考えるべきではないか、という解釈があります。
また、これと関連して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことか、という問題もあります。マタイ10・40、42にこういう言葉があります。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」確かによく似ているので、ここでも「この最も小さい者」は一般的に助けを必要としている人ではなく、イエスの弟子(特に迫害されている弟子)のことだ、という考えがあります。
このように考えると、「キリスト信者でない人は、迫害されているキリスト信者に対してどのようにふるまったか、によって裁かれる」という話だということになります。
(3) このような考えは確かに言葉の解釈上は成り立つかもしれませんが、根本的に何か違うと感じられないでしょうか。この箇所全体は、世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話であるはずで、自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われることなのです。
(4) 実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛の道具として隣人を愛したのではないのです。
(5) それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいかもしれません。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11・12参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19・28)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言ってもいいのではないでしょうか。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。
わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためだと言ったらよいでしょう。わたしたちの中にどこかでそんな経験があるのではないでしょうか。
2005年11月13日
マタイ25・14-30 (2005/11/13年間第33主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
イエスは地上の活動の終わりに、エルサレムの東にあるオリーブ山の上で、エルサレムを見ながら弟子たちに向けて終末についての説教をしました(マタイ24-25章)。24章42節から「目を覚ましていなさい」というテーマがずっと展開されていますが、きょうの箇所は先週の「10人のおとめ」のたとえに続く箇所です。ここでも、いつか突然訪れる終わり(キリストの再臨)に向かって「目を覚ましている」とはどういうことか、最終的に神の目から見て何が良しとされるのか、ということがテーマになっています。
福音のヒント
(1) この「タラントン」のたとえは明らかに、世の終わりまでわたしたちがどう生きるべきかを問いかけています。ルカ19・12-27にある「ムナ」のたとえによく似ていますが、違う面もあります。「タラントン」のたとえでは、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」預けられ、「五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた」となっています。「ムナ」のたとえでは、「十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し」、一人の僕は「一ムナで十ムナもうけ」、もう一人は「一ムナで五ムナ稼ぎ」ます。「ムナ」のたとえは、神が一人一人に同じものを与えてくださっていることを大切にしているのでしょう。それは一人一人に与えられた「いのち」でしょうか、「神からの愛」でしょうか。同じものを与えられてもどう応えるかは人によって異なり、そこが問われる、という「ムナ」のたとえのほうが分かりやすいかもしれません。
(2) 一方の「タラントン」のたとえで、人それぞれに与えられるものが違っていることは、どう考えたらよいのでしょうか。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」というところを読んで「神様は不公平だ」と感じる人もいるかもしれません。しかし、1タラントンでも実は巨額と言えます。1タラントンは6000デナリにあたり、1デナリが1日の日当だと言われますから、1タラントンは、約20年分の賃金ということになります。また「1タラントン」は「1ムナ」の60倍であるということも考えれば、「タラントン」のたとえは、非現実的と言えるほど、神から与えられたものの大きさを強調していると言えるでしょう。
現実に人が神様から委ねられたものを不公平だと感じることは確かにあります。人間的な目で見れば、一方にはあらゆる面で恵まれている人がいて、一方にはあらゆる面で恵まれない人がいる、と感じることは少なくありません。タラントンのたとえはこの人間的な見方と神の見方の違いを際立たせようとしているのではないでしょうか。
(3) 3番目の僕の態度「穴を掘り、主人の金を隠しておいた」というのは、当時の考えでは最も安全な財産の保管方法だったそうです。一方「銀行に入れておく」のはそれよりもリスクがありました。しかし、主人の望みは、安全にタラントンを保管することではなく、それを生かして用いることだったのです。
1タラントン預けられた僕は委ねられたものの大きさに気づかなかったようです。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」(24節)というのは、彼が「自分にはたった1タラントンしか預けられなかった」と感じていたことを表しているのでしょう。彼がそう感じたのは、主人との関係の中でどれほど大きなものを預けられているか、というのではなく、前の二人と比較して自分には少しだけだ、と考えてしまったからでしょう。しかし、人との比較は神の前ではどうでもよいのです。自分に預けられたタラントンをどう用いるか、それだけが神の目から見て大切なことなのです。
(4) この「タラントン」とは何を指しているのでしょうか?「10人のおとめ」のたとえと同じようにこの箇所の中にタラントンの説明はありません。一般的には「神から与えられ、預けられ、生かして用いることを求められているもの」と考えることができるでしょう。ここでも「10人のおとめ」の「油」同様、続く31-46節をたとえ話の説明だと考えれば、やはり「タラントン」とは「愛」のことだと言うことができるでしょう。人と比較して自分のほうが愛されていない、と考えても何にもなりません。神から注がれた愛の大きさに気づいて、その神の愛にどう応えたか、それが問われるのです。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」の「忠実」(ギリシア語の「ピストス」)という言葉は本当は「お金に忠実」ではなく「主人に忠実」であることだと考えるべきでしょう。「少しのもの」というのは最終的に神から与えられる計り知れない恵みと比較しての表現です。そしてこの計り知れない多くの恵みは大きな金額というよりも、「主人と一緒に喜ぶ」(直訳では「主人の喜びに入る」)ことだと言ってもいいのではないでしょうか。神の喜びがわたしたちの喜びとなる、その世界にわたしたちは招かれているのです。
(5) 主人の望みは、結果的にお金を増やすことなのでしょうか、それとも結果はどうあれ、お金を用いること自体が求められているのでしょうか。たとえ話そのものでは、結果的にお金を増やしたことが評価されていますが、商売には必ずリスクが伴いますから、もしお金を損してしまったらどうなのか、という疑問も起こるでしょう。この箇所の中にその答えを求めるのは無理です。ただし、たとえ損をしても主人は褒めてくれる、と考える可能性はあるでしょう。なぜなら、イエスご自身の生き方、その受難と死は、ある意味で神から与えられたものを使い果たしてしまったような生き方だとも言えるからです。
2005年11月06日
マタイ25・1-13(2005/11/6年間第32主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
年間主日のミサの福音朗読は、イエスの宣教活動の歩みをたどってきました。その結びの3つの主日(年間第32、33、王であるキリスト)に、今年はマタイ福音書でイエスの最後の説教となる3つの箇所 (25・1-13、14-30、31-46)が順番に読まれていきます。この3つの主日は「終末主日」とも呼ばれますが、福音の内容はちょうど終末についての教えになっています。指導者たちと対決した神殿を後にし、イエスはオリーブ山からエルサレムの町と神殿を見ながら、弟子たちに向けて終末についての説教をします(マタイ24-25章)。マルコ13章では、「目を覚ましていなさい」という警告でこの説教は結ばれますが、マタイはこの部分を拡大し、24・45-51のたとえと25章全体を伝えています。
福音のヒント
(1) このたとえ話の背景には、当時のユダヤの村の結婚式の習慣があります。結婚式は夜中に行われました。花嫁は、介添えをする友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちます。「10人のおとめ」はこの友人たちです。花婿は花嫁を迎えるために花嫁の家に向かいますが、花婿の到着はしばしば遅れたそうです(図A)。花嫁の家で、花婿と花嫁一行は合流して花婿の家に向かいます。ともし火は松明(たいまつ)のようなものの先に油を染み込ませた布が巻いてあるもので火を灯しても15分ぐらいしか持たなかったようです。5人の油を持っていないおとめたちは、油を買うために店に寄っていったので遅れてしまうのです。ちなみに婚礼は村にとってのお祭のようなものですから、それが行われる晩はお店が夜中まで開いていたと考えてよいでしょう(図B)。婚宴は花婿の家で行われます。遅れた5人はそこに入れてもらえなかった、というのです(図C)。
(2) 「結婚」は神と人とが一つに結ばれる救いのイメージとして聖書にしばしば現れます。ここでも花婿の到着と婚宴は、世の終わりの救いの完成を表しています。
世の終わりについての聖書の教えは、人に恐怖心を植えつけて人をコントロールするようなものではありません。聖書の終末についてのメッセージには2つの面があります。
A) 迫害というような厳しい状況の中で、この悪の時代は過ぎ去り、最終的に神による救いと解放が実現する、という希望のメッセージ。
B) 日常的な生活のさまざまな関心事に埋もれてしまう中で、最終的な神の判断(裁き)を語ることによって、今をどう生きるべきかを示す、回心の呼びかけのメッセージ。
マタイ24-25章の説教にもこの両方の面がありますが、25章にはB)の面が強く表れています。「花婿の到着が遅れた」というところに、初代教会の人々の特別な関心が表れているようです。最初のキリスト者たちは、遠くない将来のイエスの再臨(イエスが再び来て、救いを完成する)を切望していましたが、その再臨は人々が予想したほどすぐには来なかったのです。そこで、再臨までの長い期間、「いつか分からないが突然訪れる」その時に向かってどのように生きるか、というテーマが浮上してきたのではないか、と考えられます。
(3) 13節で「だから目を覚ましていなさい」と言いますが、このたとえ話では10人とも眠ってしまいましたから、言葉の上では少し合わないように感じられるかもしれません。もちろん、「目を覚ましている」というのは「肉体的に目覚めている」という意味ではなく、マタイ24・42から始まる「目を覚ましていなさい」というテーマは、24・45から25・46まで続く長い説教の中で、次第にその意味が明らかにされていくのです。ここで「目を覚ましている」ことは、内容的には「油を用意している」ということであるのは確かです。
この「油」は何を意味しているのでしょうか。きょうの箇所には「油」についての説明がありません。そこでいろいろな想像をすることができます。Ⅰテサロニケ5・19「“霊”の火を消してはなりません」などをもとに「油とは聖霊のことである」というような解釈もあります。ただし、このたとえ話だけからそう言い切ることには無理があります。
むしろ、本当はこのたとえ話には説明部分があると考えてはどうでしょうか。続く「タラントンのたとえ」(14-30節)にも説明部分がありませんが、31-46節には、終末の裁きが語られています。そこでははっきりと「助けを必要としている人に対して手を差し伸べること」が問われています。この31-46節が2つのたとえ話の説明部分なのではないでしょうか? 「油」も「タラントン」も「愛」もそれぞれ必要だ、というのではなく、「油を用意している」とは、「タラントンを生かす」とは、結局、「愛する」ということなのだ。そう受け取ることが一番自然かもしれません。
(4) このたとえを読んで、「5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめ」ではなく、「油を人に分けてあげない5人の意地悪なおとめと、分けてもらえなかった5人の可哀想なおとめ」の話だと感じる人もいるようです。もちろん、イエスが油を用意していたほうのおとめたちを評価していることは確かです。「なぜ油を分けてあげないのか?」そこにこのたとえ話を理解するヒントがあるのかもしれません。この油は「人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのではないでしょうか。たとえば「その人自身の生き方」。親は子どもに良いものをたくさん与えることはできますが、子どもの生き方は最終的にその子自身が選ぶしかありません。誰もその人の代わりにその人の人生を生きることはできない、そういう意味で人に分けてあげられないものが問われているのだとも言えるでしょう。
2005年10月30日
マタイ23・1-12(2005/10/30年間第31主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書は、エルサレムの神殿の境内での宗教的指導者たちとの論争に続き、群集と弟子たちに向けた説教の形で、イエスのファリサイ派・律法学者に対する徹底的な批判の言葉を伝えています。マルコ福音書では短いことば(12・38-40)ですが、マタイではこの批判は36節まで続く長いものになっています。ルカ11・37-53にも同じような言葉がありますが、ルカではエルサレムへの旅の途中で出会ったファリサイ派の人と律法学者に向かって直接語られています。マタイは神殿の境内での論争をとおして、イエスとファリサイ派・律法学者との対立が決定的なものとなったことを印象づけるために、これらの言葉をここに置いているのでしょう。イエスの受難は間近に迫ってきています。
福音のヒント
(1) イエスの律法学者・ファリサイ派に対する批判はきょうの箇所では次の2点に要約できるでしょう。「言うだけで実行しない」こと(1-4節)と「行いは人に見せるため」ということ(5-7節)です。
安息日の律法についての考え方など、イエスの教えとファリサイ派の教えの間には大きな隔たりがありました(マタイ12・1-14参照)。しかし、ここでは律法学者・ファリサイ派の教えの内容は問題になっていません。むしろ、彼らが「言うだけで実行しない」ことが問題であり、「背負いきれない重荷を人に負わせるだけ」であることが批判されています。それは人々の重荷を共に荷うイエスの姿と正反対だと言えるでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-29。A年年間第14主日の「福音のヒント」参照)
5-7節で問題にされているのは、人からの尊敬を得ようとする彼らの心です。「聖句の入った小箱」は本来自分の心に律法の言葉を深く刻みつけるために、ユダヤ人が祈りのときに身につけたものです(申命記6・8参照)。「衣服の房」についても、旧約聖書では「それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(民数記15・38)と言われていました。これらを目立たせるのは、人に対して自分がいかに律法を大切にしているかをアピールするためでしかない、というのです。
(2) 8節からは、直接群集と弟子たちへの戒めとなります。7-8節の「先生rabbi」はヘブライ語・アラム語で教師に対する尊称です。「師didaskalos」はギリシア語で「教える人」を意味する言葉です。10節の「教師kathegetes」(先に立って行く人、案内者)もよく似た言葉だと言えるでしょう。その間に9節の「父」についての言葉があります。
「師」と「教師」は重複しているように感じられます。本来のイエスの言葉は8節までで、9節以降は後の教会の中で拡大された部分だとも考えられます。8節までだけを考えてみると、もともと「先生=師」とは神ご自身のことだったのかもしれません。もちろんわたしたちにとっては、先生が神かイエスかということは大きな問題ではありません。わたしたちは皆「弟子仲間・兄弟姉妹」であり、「先生」とか「父」「教師」と呼ばれてはならない、という戒めに変わりはないのです。
(3) イエスの批判は、律法学者・ファリサイ派に向けられています。マタイはこれらの言葉を、当時イエス・キリストを受け入れないことがはっきりしてきたユダヤ教の人々への批判として伝えているのでしょうか。もちろん、そういう面もあるでしょう。しかし、むしろ、自分たちキリスト信者の中にも同じ危険があると感じているのではないでしょうか。だからこそ、これらの言葉は、「律法学者とファリサイ派の人々」にではなく、「群集と弟子たち」に向けて語られた言葉になっているのです。
わたしたちの中に、ここで批判されている「ファリサイ的なもの」がないとは言えません。「自分にできないことを人に要求している」「人に愛を求めながら、自分には愛がない」「結局、気にしているのは自分が人からどう見られるかばかり」「人生を勝つか負けるかの競争のように感じて、本当に大切な人と人との兄弟としてのつながりを見失ってしまう」などなど。このような態度は、神と人に対して良くない、というよりも、わたしたち自身が良く生きることを妨げているのではないでしょうか。
(4) 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(23・11-12)。しかし、福音書に伝えられているイエスの弟子たちの姿はこれとはかけ離れたものでした。彼らは「だれが一番偉いか」と論じ合い、少しでも人の上に立ちたいと願っていたのです(マルコ9・33-34、10・35-41)。わたしたちはどのようにしてそこから解放されていくことができるでしょうか。この11-12節とよく似た言葉は福音書のあちらこちらに見られます(マタイ20・26-27、マルコ9・35、10・43-44、ルカ9・48、14・11、18・14、22・26)が、そのほとんどはイエスの受難と関係しています。イエスの弟子たちが競争心や嫉妬心から解放されたのは、イエスの受難と死が現実になった後でした。「仕える者」「へりくだる者」となられたイエスの受難の姿がわたしたちの心に迫ってくるとき、わたしたちも、父である神の前での兄弟姉妹として共に生きること、教師であるイエスの前での弟子としての平等であること、を心から喜ぶことができるようになる。そんな体験がわたしたちの中にあるでしょうか。
2005年10月23日
マタイ22・34-40(2005/10/23年間第30主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
先週の「皇帝への税金」についての問答の後、「復活についての問答」があり、きょうの「最も重要な掟」の話になります。さらにこの後の「ダビデの子についての問答」も含め、マタイ福音書ではイエスと当時の有力者(ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派)との論争・対決が続いていきます。
福音のヒント
(1) イエスがファリサイ派の人の質問に答えて引用する律法の言葉は、申命記とレビ記から採られたものです。
申命記6・4-5にこうあります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」紀元前13世紀、イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒れ野を旅して約束の地に向かいました。申命記の中心部分は、この荒れ野の旅の終わりにモーセが民に向かって、遺言のように語った律法についての説教です。この箇所は「シェマー(聞け)」という言葉で知られ、毎日の祈りの中で唱えられる信仰告白の言葉でした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です(右のイラストにある文字がヘブライ語の「シェマー・イスラエル」=「聞け、イスラエルよ」です)。
レビ記19・18にはこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」レビ記の17~26章は「神聖法集」と呼ばれています。レビ記19・2の「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」は神聖法集の考えを最もよく表す言葉だと言えるでしょう。「聖」とは「隔絶したもの」を表し、人間とまったく違う神の特性を表す言葉です。イスラエルの民はこの聖なる神に救われた民として、神が聖であるように聖なる者にならなければならないのです。「聖」は祭儀的な意味でだけ語られるのではなく、19章18節が典型的に示すように「神の愛を生きる」ことでもあるのです。
これら2つの掟を最も重要な掟であるとする言葉は、イエス以前には知られていません。ただし、ルカ10・27では律法学者がこの2つの掟について述べていますので、当時のユダヤ人にとってそれほど意外な言明だと言うこともできないのかもしれません。
(2) マルコ福音書の同じ文脈にある話と比べると、いくつかの違いがあります。マルコでは相手が「律法学者」となっていて、イエスが最も重要な掟としてこの2つの掟を挙げたことに律法学者は賛同し、イエスも彼に向かって「あなたは神の国から遠くない」と言われます。マタイはイエスの言葉に対する相手の反応を省いています。
また、マルコでは最も重要な掟として、この2つの掟を挙げ、「この二つにまさる掟はほかにない」と言うだけですが、マタイでは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われています。
さらに、マルコ福音書になくてマタイにあるのはこの2つの掟は「同じように重要である」という言葉です。原文では「ホモイア(似ている)」という言葉が使われています。新共同訳のように訳すと「重要さの程度が似ている」ということになりますが、「2つの掟の内容が似ている」とも受け取れます。神を愛すること、と、隣人を愛することは別のことではなく、1つのことだと言ってもよいのです。
マルコでは、この2つの掟を重視する点でイエスと律法学者の間に対立はありません。マルコ福音書で律法学者が批判されるのは、彼らの生き方のためです(マルコ12・38-40参照)。一方マタイは、当時のファリサイ派的な律法解釈とイエス(あるいは初代教会)の律法解釈との違いを示そうとしている、と言えるでしょう。神の人間に対する望みは、律法の個々の掟の要求を1つずつ忠実に果たすことである、という考えと、すべての律法の根本にこの2つの掟を見て、さらに、隣人を愛することこそが神の望みであるとする考えです(マタイ5・43-48、7・12、12・10-12、25・31-46など参照)。
(3) 聖書の語る「愛」は、「好きだ」という人間的な愛着ではなく、そのものをそのものとして「大切にすること」です(根本にあるのは神の人間に対する「愛」です)。
「神への愛」とはどういうことでしょうか。神は人間に何かをしてもらうことを必要としているわけではありません。神は無条件に人間を愛する方です。その神の愛に気づき、感謝すること、これが神を愛することだと言えるでしょう。この神とのつながりを大切にする、と言ってもいいかもしれません。そして、このように「神を愛する」ことは、必然的にわたしたちを「隣人を愛する」ことに向かわせるのです。あるいは、神を愛することの具体的な表れが人を愛することだと言うこともできるでしょう。
39節の「自分のように愛しなさい」という言葉に引っかかる人もいるかもしれません。「自己愛(ナルシシズム)」という言葉はあまりいい意味では使われないからです。しかし、「本当の意味で自分を大切にすることができない人は他人を大切にすることもできない」という真実も忘れてはならないでしょう。
「隣人」という言葉は本来、「近くにいる人」を表す言葉ですが、ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえ話で、イエスはこの隣人愛の掟をどう受け取るべきかをはっきりと示しています。「隣人とは誰か」の範囲を決めてからその隣人を愛する、というのではなく、あのサマリア人のように、愛することによって相手が誰であれ「隣人になっていく」ことができるのです。
解説はこのくらいにして、わたしたちが日々の生活の中で、この2つの掟をどう生きているかを見つめてみましょう。
2005年10月16日
マタイ22・15-21(2005/10/16年間第29主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書では、イエスが当時の指導者たちやファリサイ派を批判した「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえに続いて、この場面になります。マタイ21・45-46には「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という言葉がありました。イエスと彼らの対立はもはや決定的となっていて、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもってイエスに近づいて来ます。
福音のヒント
(1) 当時のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題はただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。実際、イエスが生まれた頃、この問題のために反ローマ闘争も起きています。
(2) 「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちでしたから、皇帝への納税を原則的に認めるわけにはいきませんでした。しかしもちろん、現実には納税せざるをえなかったのです。一方の「ヘロデ派」は宗教的なグループではなく、政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、納税を当然のことと考えていました。本来ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、ここではその両者が一緒にイエスのもとに来ます。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が「神に背く者」という理由でイエスを追及することができ、イエスが納税を認めなければ、ヘロデ派が「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるのです(ルカ23・2参照)。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16節)。これは言葉遣いはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅しです。
(3) イエスは納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。「デナリオン銀貨」にはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」というもので、ローマ皇帝は神格化されていました。
イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことがゆるされないものでした。しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得なかったのです。実際にはデナリオン銀貨を持っていながら、納税の是非を議論している彼らの矛盾を指摘し、イエスは罠を巧みにすり抜けた、ということもできるでしょう。そもそも相手の議論はイエスを陥れるための議論なので、まともに答える必要はないとも言えます。
(4) 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。このイエスの言葉はあまりに短いので、さまざまな解釈の可能性がありえます。「イエスは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つですが、このような考えはあまりにも近代的な考えで、古代ではおよそ考えられないことです。近代になってから「政治的領域」と「宗教的領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は人間の現実すべてが神との関係の中にあったのです。なお、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはない、ということは現代の、第2ヴァティカン公会議以降のカトリック教会の姿勢でもあります(「現代世界憲章」第1項参照)。これは特定の政治権力と特定の宗教団体が結びつかないという意味での「政教分離の原則」とは別の問題です。
(5) 皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているか、それは「人間」だという考えもあります。創世記1・27に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。つまり、イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒されてはならない」と言っているのではないか。興味深い解釈ですが、これが唯一の正しい解釈だという根拠は薄いと言わざるをえません。
(6) もしイエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めたことになります。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスはもっと根本的なことに人々の目を向けさせます。
ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実と無関係な神学的問題でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥れようとしたのです。しかし、イエスは人間の現実の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか? 神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」イエスはそう問いかけているのではないでしょうか。「あなたは何を本当に神のもので、神に返すべきものだと思っているか」それは、わたしたち一人ひとりに向けられた問いだとも言えるでしょう。
2005年10月02日
マタイ21・33-43 (2005/10/2年間第27主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
先週の「二人の息子」のたとえに続き、イエスは神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のユダヤ人の指導者たちに向けて、この「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。
ぶどう園で働いていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の僕にひどいことをし、主人の息子を殺してしまう、というこのたとえ話は、迫り来るイエスの受難を予感させるものだとも言えるでしょう。
福音のヒント
(1) このたとえ話はマルコ12・1-11、ルカ20・9-18にもありますが、細部は少しずつ異なっています。マルコやルカと比べてみると、マタイの特徴がいくつかあります。マルコ、ルカでは主人は3人の僕(しもべ)を3回に分けて送っていますが、マタイでは複数の僕たちが2回に分けて送られています。マタイは旧約の預言者たちをバビロン捕囚(紀元前6世紀)以前と以後に二分しているのではないかと考えられます。また、最後に送られる息子について、マルコやルカでは「愛する息子」という特別に神の子イエスを思わせる言葉が使われていますが、マタイはただ「わたしの息子」と言います。もちろんマタイでもこの「息子」はイエスを表し、それが当然過ぎるのであえて強調しなかっただけかもしれません。なお、どの福音書でもこの息子が「ぶどう園の外」で殺されているのは、イエスが当時エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で処刑されたことを反映しているようです(ヘブライ13・12参照)。
43節の「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」はマタイだけが伝える言葉で、明らかに「あなたたち」はユダヤ民族を、「ふさわしい実を結ぶ民族」は異邦人を指しています。しかし、これは福音書の文脈には合いません。福音書ではイエスが批判しているのはユダヤの指導者たちだからです。マタイは伝承に手を加えて、新しい意味を見いだしているのだと言わざるをえません。
(2) 42節の旧約聖書の引用は、詩編118・22-23からのものです。マルコ福音書では、イエスを拒否したユダヤの指導者たちに代わり、貧しい民衆が神の国を継ぐようになった、ということを表しているように読めます。しかし、この詩編の句は、新約聖書の他の箇所で復活したイエスに当てはめられています(使徒言行録4・11、Ⅰペトロ2・7参照)。初代教会の中で、イエスこそ「人に捨てられ、神に選ばれた石」と考えられたのは当然でしょう。マタイもここでイエスの死と復活を考えているようです。
なお、文脈を抜きにしてこの詩編の言葉を味わうこともできるでしょう。「人に捨てられ、神に選ばれる」ということはわたしたちの体験の中にもあるのではないでしょうか?
(3) 実は、きょうの箇所に続いて44節には「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という言葉があります。写本によってはこの言葉のないものも多いので、本来マタイにはなく、ルカ20・18から転用された言葉だとも考えられます。これは終末における裁きを表す言葉だと言えます。
以上すべてのことから、マタイはこのたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えられるのです。神は旧約時代に預言者たちを遣わしたがイスラエルの民は彼らを受け入れなかった(34-36節)。最後に神はご自分の子を遣わしたが、このイエスも迫害され、殺された(37-39節)。しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てられた(42節)。そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになった(43節)。イエスは最後にすべての人を裁くために来られる(44節)。これがマタイの見ている「救いの歴史」の中身です。
(4) 冒頭33節の「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」は、イザヤ5章(この日のミサの第一朗読)を思い起こさせます。
「1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。 3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。 4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか・・・」この言葉は、主人(神)がすべてを配慮し、はじめから整えてくださっていたのだ、ということを印象付けています。
(5) それなのに、なぜ農夫たちはこれほど残虐な行為に走ってしまったのでしょうか。彼らは主人がずっと不在だったことから、いつの間にか、主人から与えられたものを、自分の力で得たもののように思い込み、主人からゆだねられて、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまったのではないでしょうか。そして、「自分のものに指一本触れさせてなるものか」と感じるようになり、収穫の分け前を受け取りに来る主人の僕や息子のことを、自分たちの物を奪いに来る泥棒としか思えなくなっていったのかもしれません。
イエスが戦ったのは、人々のこのような考えに対してでした。そして、この人々の姿は、実際にイエスを死に追いやった人々の姿と重なります。
それはわたしたちにとっても他人事ではないでしょう。わたしたちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは何でしょうか。地球の資源や環境? 自分のお金や持ち物? 力や才能? 地位や立場、さまざまな特権? それらは皆、神がわたしたちにゆだねたものなのではないでしょうか。それをわたしたち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。
2005年09月25日
マタイ21・28-32(2005/9/25年間第26主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書では、21章からイエスのエルサレムでの活動が始まります。神殿の境内で、イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。この「二人の息子」のたとえ話はマタイだけが伝えていますが、マタイは、直前の箇所(23-27節)の権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの姿が現れるのを受け、同じテーマの話として、このたとえ話を伝えています。
福音のヒント
(1) このたとえ話は、さまざまな写本を比べてみると微妙に食い違っています。大きく分けると2種類になりますが、1つは (a)新共同訳のように、最初に父に頼まれた息子が言葉では拒否しながら後で従い、次に頼まれた息子は言葉で承知しながら従わなかった、という順序のもの、もう1つは逆に、(b)最初の息子は言葉では承知しながら父に従わなかったが、別の息子は承知しなかったのに結局は父に従った、という順序になっています。(b)のように最初の息子が父の願いに従わなかったので、別の息子に頼んだ、というほうが論理的には自然でしょう。しかしだからこそ、写本が書き写されるときに(a)が(b)のように変わっていったとも考えられます。なお、(b)の順序は、ユダヤ人がイエスをキリストとして遣わした神のみこころを受け入れなかったので、救いが異邦人に及ぶようになった、という初代教会の理解にも合います。結局、どちらの順序が本来のものかは、正確にはわかりません。
(2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの前半部分だけを読むと、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるかもしれません。たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このたとえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「祭司長や民の長老」たちのことを表していて、「回心の呼びかけを受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だったのではないかと考える人もいます。
(3) きょうの箇所全体を一つのメッセージとして受け取るならば、注目すべきなのは、29節と32節に出てくる「後で考え直して」という言葉でしょう。「考え直す」はギリシア語では「メタメロマイmetamelomai」で、「考え(関心)を変える」という意味の言葉です。一般的には「メタノエオーmetanoeo(悔い改める)」のほうがより根本的な「回心」を表しますが、ここでは洗礼者ヨハネのメッセージとの関連で「メタメロマイ」が使われていますので、「メタノエオー」と同じような意味で使われていると言ってもいいでしょう。本当に神の呼びかけを深く受け取るかどうか、そして、自分を変えることができるかどうか、が問われているのです。
(4) 「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(28節)は先週のマタイ20・1-16のたとえ話を連想させるかもしれません。夕方まで誰からも雇ってもらえなかった人々の姿を思い出すならば、ここで父が願っているのは、息子たちに辛い労働をさせて苦しめることではなく、父のもとで生きる喜びにすべての人を招くことだと言えるのではないでしょうか。
徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々から神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていました。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心して救いにあずかることができる」ということだからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪深さを認め、神に立ち返る道ですが、イエスはこれこそが神との正しい関係のあり方だと言うのです。
(5) 一方、当時の社会・宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんでした。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。しかし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを自分たちに向けられたものとしては受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生ける神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったのです。
このたとえ話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由はどこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親とともに生きようとはしていなかったからだと言えるのかもしれません。
(6) 「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(32節)の「それ」は「徴税人や娼婦たちは信じた」ということです。ここから考えると、当時の指導者たちには2つの回心のチャンスがあったということになるでしょう。1つは洗礼者ヨハネが回心を呼びかけたこと。もう1つは罪びとのレッテルを貼られていた人々が洗礼者ヨハネのメッセージに応え、神に対する信頼と希望を取り戻していった姿を見たことです。
わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ると言えるのではないでしょうか。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界に起こるさまざまな出来事も神からの呼びかけなのではないでしょうか。
2005年09月18日
マタイ20・1-16 (2005/9/18年間第25主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
このぶどう園の労働者のたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。この箇所の直前19・30と結びの20・16に「先の者は後になり、後の者は先になる」という言葉があり、これがこのたとえ話のテーマを示す枠のようになっています。
福音のヒント
(1) マタイ19・27で、ペトロはイエスにこう言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」これに対してイエスは弟子たちに大きな報いを約束しますが、同時に語られるのが30節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉です。そこから考えると、このたとえ話は弟子たちの中の問題(最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話)に聞こえますし、マタイがそういう意味でこの話を伝えているのは事実です。
ただし、イエスがたとえ話を語った本来の状況は必ずしも福音書どおりとは言えません(A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできるでしょう。だとすれば「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早くから働いた人で、イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人は最後の一時間しか働かなかった人ということになります。
(2) 多くの人はこのたとえ話を読むと、主人のやり方は不正だ、と感じます。サービス残業や不当な賃金格差という社会の問題がありますが、労働に対してはそれに見合う正当な賃金が支払われるべきです。その観点からすれば、この主人のやり方は確かに不当です。
しかし、現実の社会の中にそれとは違う面もあります。たとえば、企業の都合で正社員が減らされ、アルバイトやパートが増えているという現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、わたしたちの身近にもあるのです。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものではないでしょうか。「1デナリ」は当時の1日の日当であると言われますが、それは「人が1日生きていくために必要なもの」とも言えます。この主人は、1時間しか働かなかった人にも「同じように払ってやりたい」というのです。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださるのです。
(3) 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。これは19・30、20・16の「後の者は先に」という「枠」のような言葉に対応しますが、「先・後」という順番が本当の問題ではなく、もらう額のほうがもちろん問題なのです。
ただ、このたとえ話では、朝早くから働いた人が他の人に1デナリずつ渡されるのを見ていたことが話の展開上、重要になっています。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになったのです。
主人はこの最初からずっと自分のために働いた人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えるでしょう。実際、イエスはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。一生懸命働いてきたことが問題であるはずはありません。ただ「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのではないでしょうか。
ルカ15章の放蕩息子のたとえで、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。
(4) 「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)をイエスは100%否定してはいません。しかし、きょうのたとえ話のように「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということをイエスが強調しているのも事実です。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)でしょう。当時の人々が常識的に持っていた応報思想の問題点をイエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較に目が行ってしまい、人を蔑視したり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込む、ということです。きょうの箇所で朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。
(5) わたしたちは競争があたりまえ、人と人とを比較することがあたりまえという社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。逆に、ある場合は「自分は(人に比べて)何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところからわたしたちを解放し、もっと豊かな生き方へとわたしたちを招いているのではないでしょうか。
2005年09月11日
マタイ18・21-35(2005/9/11年間第24主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ18章の教会共同体についての教えをまとめた箇所の結びです。このたとえ話は、主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」という祈りの解説のようなたとえ話だと言えるでしょう。
福音のヒント
(1) 「7」という数は「完全さ」を表す数だと言われます。「7の70倍」は「490回まで」という意味ではなく「無限に」という意味です。1タラントンは1デナリ(一日の日当)の6000倍にあたると言われます。つまり、この家来の主人に対する負債(1万タラントン)は、自分が仲間に貸したお金(100デナリ)の60万倍ということになります。非常識な額ですが、これは神のゆるしのはかりしれない大きさを表わしています。なお、イエスはペトロに対して無限のゆるしを求めていますが、たとえ話の中では1回しかゆるされません。21-22節と23節以下は本来別の伝承だったと考えられます。
ここで「主君」と訳されている言葉はギリシア語では「キュリオス」で、普通「主・主人」と訳される言葉です。「家来」のほうは「ドゥーロス」で、普通は「奴隷・しもべ」と訳されます。この主君と家来の関係が、神と人との関係のたとえであることは明白です。
たとえ話の内容そのものも特別な説明を必要としないでしょう。
(2) 23節からのたとえでは罪のゆるしが「借金の帳消し、負債の免除」のイメージで語られています。主の祈りの中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」(聖公会・カトリック共通訳)も、新共同訳聖書では「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6・12)となっています。この「負い目」は「負債」を意味する言葉です。ルカ7・41-42にはこういうたとえもあります。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」これも明らかに罪のゆるしのたとえです。人は確かに罪を「負債」のように感じることがあります。だから何とか返済(埋め合わせ)しなければと思いますが、実は「罪」という借金を返済することはできません。また、罪を犯したという事実は永遠に消えることはありません。
それでも神はゆるすのです。なかったこと(帳消し)にしてしまうというのです。なぜでしょうか。ルカ7章のたとえでは「返す金がなかったので」借金を帳消しにし、マタイ18章でも返すことのできない家来を「主君は憐れに思って」ゆるしています。
(3) 罪を犯した人間というのは、いわば「借金で首が回らない状態」なのです。どうにも行き詰まり、生きていくことができなくなっている人間を、それでも生かそうとすること、これが借金の免除のたとえで語られる罪のゆるしです。現実の社会の中にある「倒産しそうな会社のための債権放棄」や「過大な債務に苦しむ貧しい国のための債務帳消し」も、同じように「その企業や国をなんとか生き残らせるため」というのがその理由です。
神は人間が罪のために滅んでしまうのが惜しいのです。「あわれに思って」はギリシア語では「スプランクニゾマイ」で、目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられるという、深い共感compassionを表すことばです(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。なぜ神が人の罪をゆるすのか、その答えはここにあります。
罪のゆるしが「借金の帳消し、負債の免除」のたとえで語られる理由はおそらく、ゆるしが相手を生かすことであることと、ゆるされる喜びの大きさを強調するためでしょう。
(4) 「どうしてもあの人はゆるせない」「ゆるしてはいけないこともある」という思いを抱くことがわたしたちにはあります。悪いことをした人が反省も謝罪もせず、のうのうと生きているように感じるとき、特に強くそう感じるでしょう。これは当然のことです。きょうのたとえで「ゆるし」とは一方的に借金を帳消しにしてやるという以前に、その人の罪の痛みへの共感から相手を生かそうとすることでした。そして、ゆるされた人が仲間をゆるさなかったのは、彼がゆるされた事実だけを受け取り、ゆるしてくれた主君の心を受け取らなかったからだとも言えるでしょう。「どうしてもゆるせない」という現実の中で、それでも神のゆるしの心を受け取って生きようとするとき、わたしたちにできることは何でしょうか。
(5) 「主の祈り」(マタイ6・9-13)の聖公会・カトリック共通訳では「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」となっていますが、上で見た新共同訳の「赦しました」はギリシア語の完了形の訳、「ように」は「ホース」という接続詞の訳で、新共同訳のほうが直訳といえます。この祈りは2つの意味で受け取ることができます。「わたしたちはもう人の罪をゆるしていますから、わたしたちの罪をゆるしてください」が一つ。もう一つは「わたしたちの罪をゆるしてください。そうすればわたしたちも人をゆるしますから」(ルカ11・4参照)です。聖公会・カトリック共通訳は、両方の意味をどちらも排除しないために、あえて前半と後半をつなぐ接続詞「ホース(ように)」を訳さず、「わたしたちも」の「も」によって前半との結びつきを示そうとしているようです(結果的に「わたしたちも人をゆるします」が独立した文章になって宣言のように聞こえてしまう、という批判もありますが)。実際にはきょうの福音のたとえ話のように、①先に神のゆるしがあり、②だから人は人をゆるすべきであり、③人が人をゆるさなければ神のゆるしは無意味になってしまう、ということでしょう。わたしたちはどのような思いで、この祈りを唱えているでしょうか。
2005年09月04日
マタイ18・15-20(2005/9/4年間第23主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えをまとめた箇所です。子どもを受け入れること(1-5節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9節)。一貫して問われているのは、メンバーの中の弱い人々に対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえ(10-14節)に続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。
福音のヒント
(1) 教会についての教えをイエスは語ったのでしょうか。むしろ、マタイが自分たちの教会のあり方を考えるために、伝えられてきたイエスの言葉を(多少、加筆修正しながら)ここに集めたのだと考えるほうがよいのでしょう。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言いますが、具体的にどういう罪が問題になっているかは分かりません。「兄弟姉妹である」とは「同じ父(である神)の子である」ということです。「罪」とはその関係を傷つけるような言動でしょう。しかし、それでもその兄弟を失わないこと、兄弟を再び兄弟として取り戻すこと、これがここでのテーマだと言えます。そしてそこにイエスの心があるとマタイは伝えたいのでしょう。
(2) 「異邦人や徴税人」(17節)は、当時のユダヤ人社会の言葉遣いで、神の民から排除された人を指します。しかし、徴税人や異邦人に対するイエスの態度から考えれば、イエス自身が弟子たちに語った言葉とはとても考えられません。とにかく、ここではどういう場合は「異邦人や徴税人」扱いせよ、ということではなく、「いかに切り捨てないようにぎりぎりまで努力するか」ということにポイントがあります。
「忠告」というのは難しいことです。忠告されることは誰にとってもイヤなことでしょう。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したがために恨みを買うことだってあるでしょう。それでも「忠告しなさい」。イエスは「面と向き合うこと」を求めているのではないでしょうか。陰でいくら文句を言っても事態は何も好転しないからです。
「ほかに一人か二人、一緒に連れて行く」「教会に申し出る」これは一人で解決できなければ、自分たちみんなで解決する、ということです。誰か外の人に解決してもらうのではなく、自分たちの中で解決を図るように、という意味にも受け取れます。
わたしたちの教会の中にもいろいろな問題があります。教会の中で人と人とが(兄弟姉妹同士が)傷つけ合うのは、実に悲しいことです。そういう現実を抱えたわたしたちに、きょうの福音は何かの光を投げかけてくれるでしょうか。
(3) 18節の「つなぐ、とく」はマタイ16・19では、ペトロに与えられた使命でしたが、ここではもっと広くすべての弟子に与えられています。これは、「つなぐ」も「とく」も弟子たちが自分で勝手に判断してよい、というのではなく、「弟子たちが天を閉ざしてしまえば、それは決定的なことになってしまうのだから、互いにゆるし合って、兄弟として受け入れ合うための最大限の努力をすべきだ」ということでしょう。そのためには、単なる人間的な努力だけでなく、祈りの中でイエスの心に近づくことが必要だとも言えるのではないでしょうか(そういう意味で、次節の祈りのテーマとつながっていくのでしょう)。
(4) 19節の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」は本当に大きな約束です。わたしたちは自分の部屋に隠れて一人で祈ることもありますが、同時に誰かと一緒に祈ろうともします。それはこのイエスの約束に信頼するからです。20節には原文では「ガル(なぜなら)」という言葉がありますから、これは19節の理由です。弟子たちの祈りがかなえられるのは「イエスがともにいるから」なのです。「わたしの名によって集まる」の「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。「イエスのうちに一つに結ばれて」と理解すればよいでしょうか。
祈りは、自分の願いを神にぶつけるだけではありません。むしろ、自分の願いを超えた神の思いを受け取ることです。二人・三人で一緒に祈ろうとするとき、自分のエゴを超えることが必要になります。さらに、二人・三人が自分のエゴを超えて一緒に祈ろうとする中で、キリストの心に近づいていく、ということもあるのではないでしょうか?
(5) 「アヴェ・マリア」という伝統的な祈り(「恵みあふれる聖マリア…」に始まる祈り)についても考えてみたらよいかもしれません。この祈りの中で願っていることは、「聖マリア、わたしたちのためにお祈りください」です。マリアに祈りを頼むわたしたちはマリアに祈らせておいて自分は祈らない、というのではありません。これはわたしたちがマリアとともに祈る祈りなのです。たった一人で祈っていても、小さなグループで祈っていても、そこにはマリアが代表する信じる神の民全体とのつながりがあることを思い浮かべたらよいでしょう。そしてわたしたちの祈りはマリアの「フィアット」(fiatはルカ1・38「お言葉どおり、この身になりますように」の「なりますように」にあたるラテン語です)に結ばれていくのです。たとえ遠く離れたところにいても、祈りは時間と空間を越えてわたしたち同士を結びつけます。また、わたしたちをイエスやマリアの祈りと結びつけます。そう感じられたらどれほど力づけられることでしょうか。
祈りとその効果(?)は物理法則のようなものではありません。このように祈ればこのような結果が必ず表れるというものではないのです。わたしたちはたぶん、自分自身が祈りの中でどんな体験をしてきたかを分かち合うことしかできないでしょう。ただその分かち合いは、わたしたち一人一人の祈りをもっと豊かなものにしてくれるはずです。
2005年08月28日
マタイ16・21-27 (2005/8/28年間第22主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
先週のペトロの信仰告白に続く「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白したペトロをイエスは祝福し、特別な使命を与えていましたから、きょうの箇所で同じペトロが厳しく叱責されるのは少し不自然に感じられるかもしれません。きょうの箇所全体はマルコ福音書に基づいていますが、マタイ福音書は「このときから、イエスは、・・・・始められた」(21節)と述べます。マタイ4・17にも同じ表現がありましたが、これは、前の話とのつながりを示すのではなく、ここからイエスの活動の新たな段階(ここでは受難に向かう歩み)が始まることを表す表現のようです。
福音のヒント
(1) 「受難予告」というのは特別な未来予知能力によるものと考える必要はありません。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にファリサイ派の人や律法学者には歓迎されませんでした。律法を基準にして人間をランク付けする考えに対して、イエスはすべての人を例外なく神の子として大切にしましたが、そのことは、律法の基準の上で社会的にも宗教的にも優位を保っていた人々には自分たちの地位を脅かすものと感じられたのです。その人々からの反発と敵意が迫ってきているのをイエスは感じていたはずです。さらに旧約時代の預言者たちの苦難や洗礼者ヨハネの殉教を考えれば、イエスがこのまま活動を続ければ迫害と死は避けられないと感じたとしても不思議ではありません。
それでも、イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えることはありませんでした。最後まで、すべての人の父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫くのです。受難の道を歩むというイエスの決断とはそういうものだったと言えるでしょう。
(2) 「受難予告」の中には、復活の予告も含まれています。「復活」という考えは旧約聖書の中で、ダニエル書12章やマカバイ記Ⅱ7章(第二正典)に特に明白に現れてきます。どちらも背景には、紀元前2世紀、セレウコス朝シリア(ヘレニズム王朝)の王アンティオコス4世エピファネスのユダヤ人に対する宗教迫害があります。神に忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受ける、という現実の中で、神が死を越えて従う者に救いを与えてくださる、と確信するのが復活の信仰です。イエスもまた、このような確信を抱いていたと考えるのは当然ではないでしょうか。
「必ず・・・ことになっている」はギリシア語の「デイ」という非人称動詞の訳です。これは必然的に起こることを表すだけでなく、それは神が定めたこと(神の計画)だということを表す言葉です。イエスはこの受難・死・復活に神の計画を見ているのです。
(3) イエスの受難予告は弟子たちには理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉はイエスの身を案じての言葉だったのでしょう。あるいは弟子たちは、当時のほかの人々同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシア像しか受け入れられなかったと言えるかもしれません。イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4・10)を思わせる厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」今のわたしたちを神から引き離そうとする力を感じることがありますか。
(4) 受難予告の後、イエスはご自分の道に従うよう、弟子たちを招きます。「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」(24節)とはどういうことでしょうか。十字架刑に処せられる死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を背負う」は「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」というニュアンスが強いのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちにとってそれは何を意味するのか、少しでもこのイエスの言葉に通じる経験を探してみて、それを分かち合ってみてはどうでしょう。
我が子や愛する人のために自分を捨てるということはわたしたちの身近にもあることではないでしょうか。避けることのできない自分の苦しみをある時、十字架だと感じ、だからそれを耐え、乗り越えることができたという体験もあるかもしれません。
(5) 25節で「命」という言葉は二通りの意味で使われています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」では「この世の命」と「永遠の命」が対比されています。永遠の命を強調することには、時としてこの世の命を軽視する危険もあります。「自爆テロ」というのはその最たるものでしょう。神のために人間の命(他人の命も、自分の命も)を犠牲にしてもよいという考えにわたしたちは賛成できません。しかし、この世の命を大切にしながら、それ以上に大切にすべきものがあるとしたらそれはどのような命でしょうか。
(6) 25,26節の「永遠の命を得る・失う」というテーマとの関係で、27,28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。イエスも初代教会のキリスト信者も世の終わりがすぐに来る(人の子が現れて世の救いが完成される)という期待を持っていたようです。わたしたちの時代はそれから2000年も経とうとしています。わたしたちにとっては「それがいつか」という時間的な問題は問題になりません。むしろ、
①それでもいつか最終的に神の救いが完成する、という希望を持って生きること。
②最終的な神の判断(裁き)を信じながら、今目先の利害に振り回されずに生きること。
これがわたしたちのテーマではないでしょうか。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みでもあったと言えるでしょう。
2005年08月14日
マタイ15・21-28 (2005/8/14年間第20主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
この話の直前には、「清め」に関するファリサイ派・律法学者とイエスの論争があります。彼らは神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の心を見失っていました。次に登場するのが、その正反対とも言える「神を知らないはずの」異邦人の女性です。
福音のヒント
(1) 「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町です。「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と彼女は呼びかけます。「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア=油注がれた者)を表すことばです。マタイ20・30-31でもイエスに助けを願った盲人がこう呼びかけていますが、これは彼ら自身の考えというよりも、当時の人々のイエスについての評判がそういうものであったということなのかもしれません。
(2) 当時は「悪霊」が病気を引き起こすと考えられていました。この女性の娘がどんな病気であるかは分かりませんが、イエスは彼女の願いを再三にわたって拒絶します。
このイエスの拒絶は何を意味しているのでしょうか。12人の弟子を派遣するときにも似た言葉がありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10・5-6)。このような言葉はマタイ福音書にしかありませんから、マタイのいた教会特有の問題意識がそこにはあるのかもしれません。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体だったと考えられますから、その教会の中に異邦人排除の考え方があり、マタイはその考えをここで用いながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません。
(3) イエスご自身がまず第一にイスラエルの人々のことを考えていたのだとすれば、それはなぜでしょうか。一つの可能性は、イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えたということでしょう(年間第11主日の「福音のヒント」参照)。自分が変わることによって、少しずつ自分の周囲が変わり始める、そしていつかそれが社会や世界の大きな変化につながっていく。イエスのやり方はそういうものだったと言えるかもしれません。
もう一つ考えられることは、イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だからという理由です。イエスが目にしていたイスラエルの民の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、事細かに律法を守ろうとする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」にしてしまっていました。その人々を神の群れに引き戻すこと、もう一度、神とのつながりを取り戻し、人と人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスにとって最優先の使命と感じられたと考えてもよいのでしょう(この「失われた羊」のイメージはエゼキエル34章のイメージです)。
(4) 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)も同じような拒絶の意味を持った言葉です。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では「忌み嫌われる動物」でした。このイエスの言葉は、今から見れば差別発言だと言わざるをえないかもしれません。しかし、ここでカナンの女は、このイエスの言葉を逆手にとって、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここには彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼が感じられるでしょう。イエスはこの彼女の姿に接して態度を変えます。
(5) 今日の箇所のポイントは、イエスがイスラエルを優先し、異邦人を排除していた、ということではありません。ポイントはイエスにイスラエル優先の考え方があったとしても、この異邦人との出会いの中で、イエスが変えられ、結局は彼女を受け入れたということです。イエスの弟子や最初のキリスト者も皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。彼らは、抽象的に異邦人も救いにあずかれるかと議論して、そこから異邦人への働きかけを始めたのではありません。むしろ、異邦人がイエスを信じるようになったという現実が先にあり、それがユダヤ人から始まった教会を変えていったのです。使徒言行録8章のサマリア人やエチオピアの宦官の洗礼の物語、10章のコルネリウスの物語がその例です。
(6) イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまず第一にユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でない人が信仰を示したのに出会ってしまったのです。この人間との出会いによってイエスは揺さぶられます。イエスにとってほんとうに大切なのは、自分の宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるでしょう。現実との出会い、人との出会いによって変えられていくイエスはステキだと思いませんか。
わたしたちにももちろん、自分なりの考えや計画があります。もしかするとそれは人と出会うことを妨げてはいないでしょうか。「この人はこういう人に決まっている」「あの国の人はああいう人たちだ」そう決め付けてしまい、出会うことをやめてしまっていることがあるかもしれません。国籍や民族の異なる人とどのように出会い、どのように理解し合い、信頼関係を築いていけるかは、今のわたしたちの大きな課題です。きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。
2005年08月07日
マタイ14・22-33 (2005/8/7年間第19主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
先週の福音は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという箇所でした。きょうはそれに続くもう一つの不思議な話です。弟子たちはこのような体験をとおして、イエスを特別な、神からの力に満ち溢れた方と見るようになっていきます。
福音のヒント
(1) ほんとうにイエスは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるのだからそのとおりに違いない、という人もいるでしょうし、どうしてもそうとは信じられないという人もいるでしょう。事実はどうだったのか、と議論してもあまり実りはなさそうです。
この出来事はマルコとヨハネも伝えていますが、ルカは省略しています。なお、マルコやヨハネではイエスが水の上を歩いたということだけで、ペトロが水の上を歩こうとした話はありません。さらにマルコ、マタイ、ルカに共通する「嵐を静める」出来事(マタイ8・23-27など)とも似ている面があります。これらの話は誰かが頭の中で考え出したフィクションではありません。ガリラヤ湖で何かしら弟子たちにとって不思議な体験があり、それが伝えられていくうちに今の福音書のような物語になったと考えたらよいでしょう。
(2) 彼らが向かった「向こう岸」は、34節によれば「ゲネサレトという土地」です。異邦人の土地ではありませんが、見知らぬ土地のイメージなのかもしれません。
ある人はこの出来事についてこう考えました。「弟子たちはイエスを残してガリラヤ湖に船出した。自分たちだけで見知らぬ土地に行く不安がある。案の定、逆風にあい、いつの間にか舟は岸に押し戻されていた。イエスは近くの岸辺を歩いてきたが、弟子たちは自分たちが湖の真ん中にいると思い込んでいたので、イエスが湖の上を歩いているのだと思った。」もちろんこんな考えは単なる想像で何の根拠もありません。ただ、そうだとしても本質的な意味に変わりはないのかもしれません。大切なのは実際の出来事そのものよりも、弟子たちにとってそれがどういう体験だったのか、ということだからです。この体験は弟子たちがイエスは特別な方であると気づく体験だったのです。マタイではこの物語の結びに「本当に、あなたは神の子です」という告白があります。
(3) この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信じる」はギリシア語で「ピステウオーpisteuo」、名詞の形は「ピスティスpistis」です。「ピスティス」は普通「信仰」と訳されますが、「信頼」と訳すこともできます。
「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、福音書の中で問題になっているのは、「神が存在するか否か」というようなことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないこと。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき「恐れ」に陥るのです。
イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と呼びかけます。「わたしだ」と訳されたことばは日本語訳だけ見ていると、「幽霊などではなく、わたしである」と言っているだけのように聞こえるかもしれません。この「わたしだ」は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」で、英語で言えば「I am」という言い方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳すことができます。つまり、「わたしはあなたとともにいる」という意味です。「安心しなさい。わたしがいる。恐れることはない」イエスは今もさまざまな恐れに囚われているわたしたち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。
また、この「エゴー・エイミ」は、旧約では神がご自身を表すときに用いられた表現(「わたしはある」)ですから、ここでもイエスが神としての威厳と力を持っていることを宣言している、と考えることもできます。
(4) 28-31節はマタイがマルコの伝承に書き加えた部分と考えられますが、マタイだけが知っていた別の伝承があったのでしょうか。このような物語は、イエスの地上での活動中にガリラヤ湖で起こった一回の出来事というよりも、むしろ、復活して今も生きているイエスと弟子の出会い、そしてキリストを信じて歩もうとするわたしたちすべての歩みを表していると考えたらよいでしょう。わたしたちもペトロのように水の上を(あるいは水の上でなくともイエスの道を)歩みたいのです。しかし「強い風」(さまざまな困難)のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。イエスはそんな弟子に対して、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださるというのです。そのようなイエスの助けをわたしたちも感じることがあるかもしれません。また、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」も、「もっと大きな信頼を持つように」という励ましと受け取ることができるでしょう。
福音書を読むときに大切なのは、2000年前の出来事として読むだけでなく、今のわたしたちと神(あるいは今生きているキリスト)との出会いの物語として読むことです。
(5) 広島・長崎の原爆、日本の敗戦から60年目の8月を迎えています。この世界では今もなお戦争やテロが繰り返されています。身近なところでもわたしたちは暴力や犯罪に脅かされています。本当に平和な世界を作るのは「水の上を歩く」ぐらい難しいことでしょうか。
「平和」と訳されるヘブライ語の「シャローム」は、「欠けたもののない状態」を表すそうです。神が共にいてくださり、すべての人が神の愛に満たされ、神の恵みがすべての人に等しく行き渡るところに本当の平和があります。その平和はまずわたしたち一人一人の中から始まると言えるのではないでしょうか。
2005年07月31日
マタイ14・13-21 (2005/7/31年間第18主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
このパンの出来事は4つの福音書に共通して伝えられている話です。マタイ福音書では洗礼者ヨハネの殉教の話に続いています。「イエスはこれ(洗礼者ヨハネの死)を聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)とありますから、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしているのでしょうか。しかし、人々の飢え渇きに応えるイエスの活動は変わらずに続いていきます。
福音のヒント
(1) 「大勢の群衆を見て深く憐れみ」(14節)は、この箇所全体をマタイ福音書がどう見ているかを示しているようです。「深く憐れむ」からイエスは病人をいやし、「深く憐れむ」から彼らにパンを与えようとされるのです。
「深く憐れむ」と訳されたことばは、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉で、「はらわたする」と訳した人もいます(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。人の苦しみや悲しみに対する深い共感(compassion)を表す言葉です。イエスが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動なのです。
人の行動にはいろいろな動機があります。わたしたちも「はらわたすること」「共感」から行動に駆り立てられるときがあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) パンを与えるときのイエスの動作は印象的です。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)。イエスの食事の際の動作はこの箇所でも最後の晩さんの席でも、ほとんどいつも「(パンを)取る」「賛美する」「(パンを)裂く」「与える」という4つの動詞で表されますが、「取る」のは「賛美する」ためですし、「裂く」のは「与える」ためですから、実は2つのことをしていることになります。「パンを取り、賛美する」はこのパンがたまたま目の前にある、というのではなく、神から与えられたものであることを表しています。人を生かしてくださる神とのつながりが強く意識されるのです。「パンを裂いて与える」。当時の中東のパンは円盤型をしていましたが、このパンを裂くのは、一人で食べるのではなく、皆と分かち合って食べるためです。ここには共に生きる人々との連帯がはっきりと示されます。
なお、「賛美する(賛美の祈りを唱える)」は「エウロゲオーeulogeo」という動詞ですが、同じ話を伝えるヨハネ福音書6・11では「エウカリステオーeucharisteo(感謝する)」という動詞が使われています。この2つの言葉はヘブライ語やアラム語では同じ言葉です。たぶんわたしたちにとっても、感謝と賛美は切り離せないことでしょう。
(3) 上で述べた2つのこと、神とのつながり・人と人とのつながりは、イエスの食事の特徴と言えるでしょう。もしパンが増えて大群衆が満腹したというだけのことであれば、それは2000年前の不思議な出来事でしかありません。大切なのは、この神とのつながり、人と人とのつながりの中にこそ、人のいのちがあるということではないでしょうか。神が人に多くの食べ物を与えてくださるから満腹できる、というだけでもなく、人と人とが分け合えば豊かになれるというだけでもありません。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスの食事の豊かさなのです。
なお、20節の「パンの屑」という日本語訳は不正確で、直訳は「裂かれたもの」です。それが12籠になったというところにも、満ち溢れるいのちの恵みが示されています。
(4) わたしたちの食事はどうでしょうか? 「自分の力で得た食べ物を自分だけで食べて何が悪い? だれに感謝する必要がある? だれと分け合う必要がある?」そんなところに陥ってしまう危険があるのではないでしょうか。わたしたちは幼いときから、自分のものは自分が努力して手に入れなければならない、人のものに手を出してはいけないということを学んできました。自分のものと他人のものをきちんと区別すること、もちろんそれは大切なことです。しかし人生はそれだけではありません。もともとわたしたちはすべてのものを自分の力で得たわけではなく、赤ん坊のときのことを考えれば、誰でもまず最初に一方的に多くのものを与えられてきたのです。そこに感謝と分かち合い(sharing)の原点があります。そんなことを考えると日本語で食事のたびに言う「いただきます」ということばは、実に深い祈りだと言えるかもしれません。
地域社会であれ教会であれ、コミュニティー(共同体)とは単なる個人の集合体ではありません。皆に共通の宝があり、その宝の恩恵に共にあずかるのがコミュニティーなのです。
(5) 「群集を解散させてください」(15節)という弟子たちの考えは常識的な判断です。自分たちの力でこの人々を養うのは絶対に無理だと知っているのでこう言うのです。しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16節)と言われます。イエスは弟子たちにその力があるからではなく、神とのつながりの力に、人と人とのつながりの力に信頼するからこう言うのです。弟子たちは結局、イエスを手伝って群集にパンを配ることになります。それはわたしたち自身の姿でもあるのでしょう。わたしたちが自分の力でできることも限られています。しかし、人と人とのつながりから力を得、さらにその中に神の力が働いていると感じるとき、今の自分ができること・すべきことが見えてくる、そんな体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
2005年07月24日
マタイ13・44-52 (2005/7/24年間第17主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ13・1から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分です。
福音のヒント
(1) きょうの箇所には3つのたとえ話があります。これらのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるたとえ話です。最初の2つのたとえ話はよく似ています。
イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの内容が確定できない理由は、イエスのことばだけが伝えられて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた実際の状況がよく分からないからです。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいでしょう。
(2) 古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして神の国を求めなければならない、という教えだと理解できそうです。マタイは「天の国」と言いますが、「神の国」と同じことで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だと受け取ることが可能です。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。こんなことを考えてみてもよいかもしれません。彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝なのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れることになる(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。
(3) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと考えることです。人間が神を求めるよりも、神さまがわたしたちを探し求めている、そう考えるとまったく別の光が見えてくるのではないでしょうか(なお、次の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です)。
このように考えると、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持ってくるかもしれません。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にありません。
たとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があるのです。
(4) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30、36-43節)とよく似ています。マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き。マタイ福音書ではこういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が大きいようです(先週の「福音のヒント」参照)。
毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあると言えるでしょう。
今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が良しとされるかを明確にするメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25・31-46です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
(5)「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使4・13)であった弟子たちが「学者」と言われるのです。マタイ23・34によれば、マタイの時代の教会には実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある者というよりも、すべての弟子のあるべき姿として受け取ればよいでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はイエスのことでしょう(マタイ10・25参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えればよいでしょうか。わたしたちはこのイエスに似ているというのです。本気で受け取れば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!
2005年07月17日
マタイ13・24-43 (2005/7/17年間第16主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ13章には天の国(神の国)のたとえが集められています。先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えたらよいでしょう。
福音のヒント
(1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(37-39節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(罪びと)を裁く(「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」40節)ということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。
(2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に応えるものであったと言えそうです。その批判とは「なぜあなたは罪びと(毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」という批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってあるかもしれないのです。単なる寛容の教えではなく、誰をも切り捨てることのない神の国の姿、イエスの姿勢を感じたらよいでしょう。
(3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(毒麦)は排除すればよい。犯罪を厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも、「罪びとを排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。そうではないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当によくなれるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。
(4) 「からし種」のたとえはマルコ3・30-32、ルカ13・18-19と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13・20-21だけと共通しています。
「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるということに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味にも受け取ることができるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。
(5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力の前では、愛そうという努力もむなしく感じられるかもしれません。しかし、そういう善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も捨てたものじゃない、と感じることができるのではないでしょうか。
人間の力に頼ろうとする傾向は今の時代、特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。
2005年07月10日
マタイ13・1-23 (2005/7/10年間第15主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
日曜日のミサの福音では省略されているマタイ12章は、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応を伝えています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長しているということを語るのが13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。
福音のヒント
(1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつう話を理解しやすくするためです。しかし、イザヤ6・9-10を引用してたとえで語る理由を述べるマタイ13・11-17は、イエスのたとえが特別な説明がなければ理解しにくいものであることを前提としているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアスという学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社)を参考にして話を進めます。
(2) イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。
A. イエスのたとえ話は本来イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。
B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「福音の弁明」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスが自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。
C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、本来批判者だったはずのたとえ話の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちがいつもイエスのことばを今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとしたためである。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになった。
(3) ルカ15・1-7にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「父はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18・10-14は「小さな者を軽んじないように」という教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。
(4) エレミアスのように考えるとすると、マタイ、マルコ(4章)、ルカ(8章)に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13・19-23)は初代教会の人々が付け加えた部分ということになります。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。
まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通でしょう。
パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題ではないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を土の中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。このような種まきは確かに一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
だとすると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。
(5) さてたとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになるでしょう。「農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ」
この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。
もちろん、エレミアスの読み方がすべてではなく、素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるかなのです。
2005年07月03日
マタイ11・25-30 (2005/7/3年間第14主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 25-27節はルカ福音書にも並行する箇所があります(ルカ10・21-22)。72人を派遣した後の箇所ですが、そこでもイエスのメッセージを受け入れず、悔い改めない町の話に続いています。イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識の意味でした。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたのが現実でした。イエスの活動はこの点でつまづきになります。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ました。 「天地の主である父よ、・・・」これはイエスの祈りです。人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神の意思の実現を見ます。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言ったらよいでしょう。27節の「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。27節は祈りの言葉そのものというよりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えるでしょう。そして、28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々への呼びかけなのです。 「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっと」したいのです。 (2) 「柔和」「謙遜」という言葉については少していねいに見ておきましょう。「柔和」はギリシア語で「プラユス」です。この言葉は、マタイ福音書の中で3回使われています。最初は5・5「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」ですが、この言葉の背景には詩編37・11「貧しい人は地を継ぎ」があると考えられています(この「貧しい人」と訳されているヘブライ語の「アナウ」の古代ギリシア語訳(七十人訳)が「プラユス」です)。もう一つの箇所はマタイ21・5「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な(プラユス)方で、ろばに乗り」という箇所です。これはゼカリヤ9・9の引用です。この箇所を新共同訳は「高ぶることなく、ろばに乗って来る」と訳しますが、この「高ぶることなく」は「アニ(アナウとほとんど同じ言葉)」なのです。「プラユス」というギリシア語は確かに「柔和な」という意味の言葉ですが、その背景にはヘブライ語の「アナウ」があります。この「アナウ」ということばはもともと身をかがめ小さくなっている人の様子を表すそうです。経済的に圧迫され、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのです(詩編37)が、みずから小さくなっている人という意味では「柔和な人、高ぶらない人」とも訳されます。この箇所の「プラユス」の背景にも「アナウ」というヘブライ語的な表現があるとすれば、もっとストレートにイエスが「わたしは貧しい」と言っていると受け取ることもできるでしょう。「謙遜」のほうは直訳すれば「心において(テー・カルディア)身分が低い人(タペイノス)」。この「心において」はマタイ的な表現だと考えることもできます。たとえば、ルカ6・20で「貧しい」というところをマタイ5・3では「心の(霊において=直訳)貧しい」と言い、ルカ6・21で「飢えている」というところをマタイ5・6では「義に飢え渇く人」と言い換えています。もし「タペイノス」だけで見るならば、これもストレートに「身分が低い」という意味だと言えます。
「柔和・謙遜」というと心の状態だけを考えがちですが、イエスのことばは「わたしは実際に貧しく、身分が低い」というニュアンスをもあわせ持つ言葉だったのではないでしょうか。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができるかもしれません。イエス自身が貧しく・身分が低いものである(「ラビ=律法教師」としての特別な資格や地位がない)から、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」とも訳せるような言葉です。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力も授業料もいらないのです!

(3) 「軛(くびき)」は家畜に荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、それはなぜ軽いと言えるのでしょうか。この「二頭立て」のイメージが役に立つかもしれません。わたしたちの軛・荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」といえるのではないでしょうか。マタイ23・4でイエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言います。イエスの生き方はその正反対だといったらよいでしょう。イエスは、わたしたちに、わたしがあなたの重荷を共に担おう、と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。そのイエスの招きを今のわたしたちは感じることができるでしょうか。
2005年06月26日
マタイ10・37-42 (2005/6/26年間第13主日)
| 教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。きょうの箇所はその結びの部分です。16節からの、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。
福音のヒント
(1) 「家族を大切にしなければならない」「家族は仲良くしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のことでしょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)というイエスの言葉はこのわたしたちの常識を揺さぶります。 この直前にはこういう言葉もあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(10・34-36) イエスの言葉は明らかに「イエスか肉親か」の二者択一を迫っています。カルト宗教のような危険性さえ感じさせるこれらの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。マタイの文脈では、イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるように、という教えだと言えるでしょう。 (2) しかし、なぜイエスのメッセージゆえに家族との対立が起こるのでしょうか。それはイエスのメッセージが家族の持つある種の「狭さ」を越える性格のものだからでしょう。
「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12・48-50)「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10・29-30)。イエスは「自分の家族さえ良ければ」という閉鎖的な考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう人々を招いています。イエスの時代、誰からも顧みられない孤独な人、家族からも厄介者扱いされている人にとってそれはまさに「福音(よい知らせ)」だったでしょう。家族も捨ててイエスに従っていた弟子たちにとっても「福音」だったにちがいありません。わたしたちにとってこれは「福音」になりうるでしょうか。
(3) わたしたち一人ひとりの家族についての思いは違います。「やっぱりわたしにとっては家族が一番大切」という人も多いでしょう。むしろ「家族が悲しみ、家族を傷つけても教会に行くべきだ」という考えのほうが問題でしょう。
ただし、次のようなことも考えてみてはどうでしょうか。子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。親離れは一生絶縁してしまうことではありません。庇護し庇護されるだけの関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会うためです。子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。
(4) 40節は使徒たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語りますが、マルコ9・37、マタイ18・5などに似た言葉があります。マルコではこうなっています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。本来は子どもについて言われた言葉が、神の子どもとなったキリスト者にも当てはめられるようになったのかもしれません。ここでは、弟子たちに対する態度が、弟子たちを派遣したイエスと神に対する態度と同じことだということになっています。
「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節) この言葉から、マザー・テレサやヨハネ・パウロ二世教皇が亡くなったとき、哀悼の心と祈りをささげた日本の非キリスト者の姿を思い浮かべることもできるでしょう。わたしたちがもしキリストのメッセージに忠実に生きるならば、必ず理解し、支えてくれる善意の人々と出会えるはずです。

(5) 38-39節の言葉は、最初の受難予告の後のマタイ16・24-25でもほとんど同じ形で繰り返されます。きょうの箇所全体の背景にも、迫害という状況があるのかもしれません。42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況ではたいしたことではありませんが、もし迫害されているキリスト者に対してそうするなら、水をあげた人自身もその仲間だと思われる覚悟が必要かもしれないのです。またここでは「わたしの弟子=小さな者」と言われていますが、これも迫害されているキリスト者の姿を連想させます。
もちろん迫害という状況に限らず、「水一杯」はマタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)
投稿者 ct : 17:17
2005年06月19日
マタイ10・26-33 (2005/6/19年間第12主日)
| 教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) きょうの箇所はルカ12・3-9とよく似ていますが、ルカがファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中で語られているのに対し、マタイでは迫害を予告する文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(マタイ10・26)は、マルコ4・22にも似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちにこのようなまとまった形になり、それをマタイ福音書は自分の福音書の文脈の中に取り入れている、と考えればよいでしょう。ですから、26-27節、28節、29-31節は無理に関連づけず、それぞれ別々に考えることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「恐れるな」(原文の語形は26節だけ違います)という命令です。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができます。
(2) 「覆われているもの」「隠されているもの」とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、本来の状況は今となっては分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょう。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることが多々あります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。
(3) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるので、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これは神が恐ろしい方だという意味ではありません。
出エジプト記にこういう話があります。「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1・15-17)。ここで神を恐れる(畏れる)というのは、他のものに対する恐怖から解放されること、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになることなのです。
(4) 「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、重い皮膚病の人の清めの儀式(レビ14章)に使われたようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約50円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも神の細かい配慮を強調するものです。2つのたとえを通して、わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならないことが強調されます。

(5) 32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7・21-23、25・31-46を見ると、ただ単に口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心を生きることだと言えるでしょう。
なお、この箇所は、どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではない、という力強い励ましにも感じられるのではないでしょうか。
(6) キリスト者への迫害と言っても、今のわたしたちにはピンとこないかもしれません。わたしたちは何に「恐れ」を感じるでしょうか。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあります。「恐れ」は必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあります。
恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10・23では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「本当にすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけているのではないでしょうか。
「恐れ」の問題は他にもあります。戦争を起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは人を簡単に戦争や暴力に走らせます。恐れは人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめることは大切でしょう。
2005年06月12日
マタイ9・36-10・8 (2005/6/12年間第11主日)
| 教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) イエスは「飼い主のいない羊のような群衆」を「収穫」と呼びます。収穫には「鎌で刈り取り、踏みつぶされる」終末の裁きのイメージもありますが、ここでは天の国に招き入れられる救いのイメージです。「飼い主」の役割は、狼や盗人から羊を守り、群れを1つに集め、草のあるところに導くことでした。イエスの目の前の群衆は、無力で価値がないように見えるかもしれませんが、「飼い主」と「収穫のための働き手」がいれば、豊かないのちを得、大きな実りとなるはずなのです。
「収穫のために働き手を送ってくださるように」(9・38)は多くの司祭が生まれることを願う召命の祈りの中でよく使われる言葉です。しかし、これは決して「どこかからわたしたちのための働き手を送ってください」という祈りではありません。イエスは群集に向けてではなく、弟子たちに向かってこう願うように命じています。この願いはイエスの弟子の祈りであり、「わたしたちと一緒に働く人を与えてください」という祈りなのです。自分たち以外の誰かが働き手になるのではなく、自分たち自身がイエスの弟子として招かれ、派遣されるにあたって、自分たちの数も力も足りないことを痛感しながらこう祈るのです。
(2) 「汚れた霊」はもちろん「悪霊」のことです。古代の人は、目に見えない大きな力を感じたとき、それを「霊」と呼びました。人を神と結びつけ、人と人とを結びつける力が「聖霊」であり、逆に人を神から引き離し、人と人との間を引き裂く力が「悪霊」だと考えればよいでしょう。古代には、悪霊の働きによって病気や障害が起こると考えられました。10・1でも「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」と言われています。もちろん、現代のわたしたちは病気や障害をそのように考えませんが、今のわたしたちの社会の中でも「神と人、人と人の関係を破壊する大きな力」を感じることはないでしょうか。イエスが戦い、またイエスの弟子たちが戦うことを求められているのは、この力に対してなのです。なお「汚れた霊に対する権能」と言いますが、イエスの悪霊との対決の仕方は、神への信頼と人への愛を貫き通し、人々の中にもこの信頼と愛を呼び覚ましていくという仕方でした。
(3) 「使徒(アポストロス)」は「遣わされた者」という意味の言葉で、マタイ福音書ではこの箇所だけで使われています。「十二人」はイスラエルの十二部族の数から来ていて「新しい神の民に核になる人々」を表します(19・28参照)。「十二使徒」という言い方は、イエスの復活後、教会の活動が始まってから定着したものかもしれません。もちろん、福音書の中でイエスご自身がこの人々を選んだことが伝えられていますが、十二使徒は昔のイエスの弟子たちというよりも、今の自分たちの教会を象徴的に表していると受け取ることが大切です。
マタイ福音書の十二使徒のリストは基本的にマルコ3・16-19と同じですが、二人ずつセットになっていることと、マタイのところが「徴税人マタイ」となっているのが特徴です。「二人ずつ組にして遣わす」(マルコ6・7)ということが背景にあるのかもしれません。ここで「徴税人マタイ」と言うのは、マタイ9・9で徴税人の名前をマタイと紹介したからです。徴税人はローマ帝国に仕えることによって生きていた人です。一方、「熱心党のシモン」の熱心党(ゼロータイ)は極端な愛国主義者で、ローマ帝国に対する武力闘争も辞さない考えの人々でした。政治的・社会的にまったく立場の違う人がイエスの弟子の中にいることは面白いことです。わたしたちの教会もそうでしょう。よく似た人同士が集まっているのが教会ではありません。イエスという生きた中心のもとにさまざまな人が1つに集まるのが教会です。

(4) 使徒たちの活動範囲は限定されています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」15・24ではイエスご自身が「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われますから、イエスの目は、まず第一にユダヤ人同胞に向けられていたと言わざるをえません。この限定は、復活後の派遣(「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」28・19)で取り払われますが、それ以前のイエスの言葉は異邦人を排除しているのでしょうか。むしろ、まず近くにいる人に目を向ける、と考えれば分かりやすいかもしれません。「失われた羊」は群れから離れ、孤立してしまっている人と言ってもいいでしょう。わたしたちのごく身近にも「失われた羊」がいるのではないでしょうか。
(5) 派遣された弟子たちがなすべきことは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(10・7-8)です。イエスが行っていたのとまったく同じことを弟子たちはしていくことになります。2000年後の日本に住むわたしたちが、イエスのしたことと同じことをしていくとはどういうことでしょうか。福音書に描かれた具体的な一つ一つの行為というよりも、イエスが今のこの日本にいたら、何をなさるだろうか、どういう人に近づき、どう関わり、どんなメッセージを語るだろうか、と考えてみたらよいのではないでしょうか。わたしたちはそれを知ろうとして、一緒に聖書を読んでいるのです。
2005年06月05日
マタイ9・9‐13 (2005/6/5年間第10主日)
| 教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) この話はマルコ2・13-17を元にしていますが、マルコ福音書ではこの徴税人の名前が「レビ」となっています。マタイ福音書では、10・2-4にある12人の弟子のリストでも、「徴税人マタイ」ということばがあります。マタイ福音書はこの「マタイ」という名前に特別な思い入れがあったのでしょうか。伝統的に、この徴税人マタイが「マタイによる福音書」のマタイであったという考えがあります。もちろん確かなことは分かりませんが、そう思って読むと、きょうの話は福音記者自身のイエスとの出会いの物語ということになります。
(2) 収税所というのは、主な街道に設けられて、そこを通る人からローマ帝国の通行税を徴収する場でした。そこで収税業務を行っていた人が「徴税人」です。彼らは収税所の権利を金で手に入れたユダヤ人であり、ローマ帝国から給与を得ていたのではなく、ローマ帝国の通行税に自分の手数料を上乗せして人々から徴収していました。一般的に、徴税人は不正な取立てをしていると考えられていました。しかし、徴税人が「罪人」の代表のように言われる理由はこれだけではありません。神の国であるはずのイスラエルにローマ帝国が税を課すこと自体が神に反することであり、そのローマの徴税に加担していることそのものが罪深いことだと思われていたのです。彼らは、ユダヤ民族に対する裏切り者として同胞から嫌悪されていました。
(3) 福音書の中で「罪びと」という言葉が出てきたとき、それを今のわたしたちの考える犯罪者のように考えないほうがよいでしょう。当時の善悪の基準は律法であり、律法に反すると思われるような職業の人には皆、罪びとのレッテルが貼られていたのです。貧しい人や病人も罪びとの部類に入れられていました。「あいつはダメなやつだ」「あんなやつはいないほうがいい」と人から思われている人、「自分は救われない人間だ」「自分なんか神から程遠い人間だ」と自分でも思わざるをえない人、罪びととはそういう人のことだと言ってもいいでしょう。今で言えば、それはどういう人のことでしょうか。
このように考えると、「わたしに従ってきなさい」というイエスの呼びかけを聞くことが、マタイにとってどれほど大きな喜びであったかを感じるとることができるでしょう。「人々から嫌われ、罪びとのレッテルを貼られている、自分でも正しい人間だとはとうてい思えない。こんなわたしでも呼んでくださる!」イエスに呼ばれたことは、彼にとって重荷や負担ではなく、自分の存在に意味を見いだす大きな恵みの体験だったはずです。
(4) マタイはイエスへの感謝の心からイエスを家での食事に招いたのでしょう。マタイが徴税人を辞めてイエスについていこうと思ったのであれば、この食事は昔の仲間と一緒にする最後の食事だったかもしれません。そこに大勢の「徴税人や罪人」がやってきます。ここでいう「罪びと」も律法に反すると見られていた職業の人々のようです。
一方、イエスを非難したファリサイ派は、イエス時代のユダヤ教の一派で、律法を細かく解釈し、厳格に守ろうとしていた人々でした。彼らからすれば「律法を学びもせず、守ることもしていない人」は皆、「罪人」の部類に属しました。
「一緒に食事をする」ということは、どんな民族・文化にあっても、そこにいる人々の絆を生み出し、その絆を確かめ合うことです。ユダヤ人にとって一緒に食事をすることは、さらに特別な意味を持っていました。神とイスラエルの民の契約(シナイ契約)のとき、モーセとイスラエルの長老たちは「神を見て、食べ、また飲んだ」(出24・11)と言われています。これが最高の救いの状態なのです。そして、地上で人間同士が共にする会食は、神のもとでの会食(宴)の先取りだと考えられました。地上で共に食事をする共同体は「神に救われる者の共同体」を表していたのです。だからファリサイ派のような熱心なユダヤ人は決して「罪人」のレッテルを貼られた人とは食事をせず、イエスの行動につまずきます。一方のイエスは、だからこそ、罪びとと一緒に食事をしたのです。

(5) イエスは「罪人」を「病人」にたとえます。「罪人は救われないダメな人間だ」と見るのではなく、「罪人こそ救いといやしを必要としている」という見方です。13節の「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉はマルコにもルカにもありません。これはホセア6・6の言葉で、新共同訳ではこうなっています。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」この「愛」はヘブライ語では「ヘセド」で、本来は「神への愛」を表していたのでしょう。マタイは70人訳(古代ギリシア語訳)聖書を直接引用して「エレオス(あわれみ、慈悲)」というギリシャ語を使っています。この場合は、もちろん「人へのあわれみ」の意味になります。「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」というときの「正しい人」は、「自分は律法に忠実に生きていて、神の前に落ち度がない、当然救いにあずかれる人間だ」と自負している人、「罪人」は、神からも人からも断ち切られ、救いにあずかる資格はないと感じている人のことでしょう。わたしたちはこのイエスの招きを自分に向けられた招きとして感じることができるでしょうか。
2005年05月29日
ヨハネ6・51-58 (2005/5/29キリストの聖体)
| 教会暦と聖書の流れ |
キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では次の日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「まとめ」と言ってもよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越」にわたしたちが結ばれることを意味しているからです。なお、特別に聖体の制定を記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5,000人以上の群集に分け与えたという話をきっかけとして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。
福音のヒント
(1) 51節、58節にはほとんど同じような表現「天から降って来たパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。 「天から降って来た」という表現は、イエスが「父のふところにおられ、父から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約の「マナ」との結びつきを思わせる表現でもあります(31節に引用されている詩編78の23-25参照)。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8・3も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことでした。(2) 35節以降一貫して、パンについてのイエスの言葉は「わたしはパンである」というものでした。もちろんそれは「イエスが人のいのちを真に生かす方である」ということを意味しています。そして「このパン(イエス)を食べる」ということは、「イエスのもとに来て、イエスを信じる」ということを意味しています。きょうの箇所のはじめにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型です。
(3) 一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「イエス=パン」ではなく「イエスが与えるもの=パン」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「これは天から降って来たパンである」は「イエス=パン」と「イエスの与えるパン=聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと言えるでしょう。
53~56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。「このパンとぶどう酒」を実際にいただくことの大切さが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージがあるのでしょうか。そのイエスの生き方に結ばれることが聖体の意味なのです。
ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、まったく1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよいことがある魔法のお薬」のように考えているのではありません。コムニオ(聖体をいただくこと)によって実現するのは、「人がキリストのうちに、そして、キリストがその人のうちにいる」ようになること、そして「人がキリストによって生きるものとなること」なのです。
(4) わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。
「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか? パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(6・11) このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5000分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認することではないでしょうか。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのちだったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。
2005年05月22日
ヨハネ3・16-18 (2005/5/22三位一体の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は三位一体の主日という特別な祭日です。教会の暦では四旬節から復活節にかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。この日は「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。
【福音のヒント】
(1) 福音の箇所は、非常に短い箇所です。3章1節から始まったイエスとニコデモというファリサイ派の議員との対話の中で、語られることばです。ギリシア語原文には、会話文を示す「 」(かぎカッコ)のような記号はありませんから、10節から始まったイエスのニコデモに対する言葉がどこまで続いているかは、内容から判断するしかありません。新共同訳聖書は21節までをイエスのことばとしていますが、16節からは福音記者の文章(地の文)と考えることもできます。
(2) 14-15節と16節は以下のように対応しています。
14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15 それは、信じる者が皆、彼(直訳)によって永遠の命を得るためである。
16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
b 彼を信じる者が皆(直訳)滅びないで、永遠の命を得るためである。
15と16bはほとんど同じですので、14と16aも関連がありそうです。「人の子が上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」という意味が含まれています。だとしたら「与える」はただ「世に遣わした」ということよりも「十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるでしょう。「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特別に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。しかし、この世は救われない世ではなく、神がイエスをとおして愛をもって救おうとなさった世なのです。
(3) ここでの「裁き」は「断罪する」の意味です。「信じない者は既に裁かれている」(18節)ということばは厳しく響きますが、この箇所の続きに現れる「光と闇」のイメージをヒントに考えてみてはどうでしょうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3・19-21) 神がもたらすものは裁き(断罪)ではありません。神は圧倒的な光としてイエスを与え、闇の世を照らそうとされたのです。その光を受けたときに人は救いの中に入っていき、その光を拒否するならば闇の中に留まることになる・・・ヨハネは「闇の中に留まること=断罪されること(救いから外れること)」と考えているわけです。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中でイエスの光を見いだしたという体験、神の愛を感じたという体験を持っているからでしょう。わたしたちはどうでしょうか?
(4) 何をあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、その人のために時間を使うこと、その人とともにいる時間を過ごすことが最高の愛だと感じることがわたしたちの体験の中にあるかもしれません。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。「父とそのひとり子イエスは1つである」という信仰は、きょうの福音の「神がひとり子をお与えになった」ということを、「神がイエスという方において、ご自分のすべてを与えてくださった」ことだと受け取る光を与えてくれます。イエスのなさったすべてのこと、イエスの生涯のすべては、神がわたしたちとともにいてくださり、わたしたちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのです。
(5) イエスの弟子たちが体験したことは、神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた、ということでした。イエスという具体的なひとりの人間のことばと生き方をもって、神は人に語りかけ、神に近づく道を示されました。彼らは、イエスをとおして、神の愛と神の救いを知ることができたのです。一方イエスが世を去って神のもとに行かれたのち、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それを聖霊と呼ぶようになりました。それはどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力だといってよいでしょう。イエスの父である神が、子であるイエスと聖霊を通してわたしたちに救いの働きかけをなさった。ここに「救いの三位一体的な構造」が現れてきます。
また、わたしたちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体的構造が大切になります。わたしたちは「キリストのことばと生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。このような「三位一体的構造」は教会の祈りの中にも現れています。「聖霊に支えられ、御子キリストをとおして、父に向かう」のが、ミサをはじめとする教会の祈りの基本的な形なのです。
「父と子と聖霊」とはわたしたちの生き方と関係ない神学的な教えだと考えるよりも、このようにわたしたちと神との関わりのダイナミズムとして捉えることができるでしょう。わたしたちは日々どのように神から働きかけられ、どのようにその働きかけに応えようとしてるのでしょうか。
2005年05月15日
ヨハネ20・19-23 (2005/5/15聖霊降臨の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2・1-11の記事に基づき、復活祭から50日目のこの日曜日、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、使徒たちが活動を始めたことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第二主日にも読まれた箇所で、復活の当日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されます。ここでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。
【福音のヒント】
(1) 福音の箇所については、復活節第二主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです(なお「舌」はギリシア語で「グロッサ」。6節の「言葉」と同じ語で、使徒たちに与えられる聖霊の賜物を表しています)。
(2) 聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネの「息を吹きかけて」は創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104・29-30でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる」この広さは大切です。「風(プネウマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは大切なことです。
しかし、人が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書を見るとそれは2種類の体験に関係しているようです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは、神と人・人と人とが結ばれるという体験です。
(3) 人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを感じます。何とかこのミッションを果たせたときに感じることは、不思議な仕方で神が助けてくれた、ということではないでしょうか。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています(Ⅰサムエル16・13、イザヤ61・1参照)。新約聖書の中では、成人したイエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録のペンテコステの出来事も、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章でも、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、これは秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。
(4) 絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。
福音で命じられる「ゆるし」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた異民族の人々の間に、相互理解が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)と断言しています。
(5) 聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、それも当然でしょう。大切なのは頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他者の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることです。
2005年05月08日
マタイ28・16-20 (2005/5/8主の昇天)
【教会暦と聖書の流れ】
使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられ(1章)、50日目の五旬祭(ペンテコステ)に聖霊が降りました(2章)。教会の暦はこの記事に基づいて復活節を祝っています(本来、主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。
A年の主の昇天では、マタイ福音書の結びの部分が読まれます。ここには、イエスが神の子としての栄光・権威を受けたことと、目に見えないがいつもわたしたちとともにいてくださるという、復活節全体の二つの大きなテーマがはっきりと示されています。
【福音のヒント】
(1) マタイ福音書は、28・7、10で天使から告げられていた、ガリラヤでのイエスと弟子たちの出会いを伝えます。「疑う者もいた」(17節)は「弟子たちはひれ伏し、(同時に彼らは)疑った」とも受け取れます。マタイは、復活を信じることが難しいと感じる後の時代の人々に、「イエスの弟子たちにも疑う心があった。しかし、イエスの力強いことばを聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。
(2) 19-20節には、「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という4つの動詞がありますが、このうち、原文ではっきりと命令法で書かれているのは「弟子にしなさい」ということばだけです。「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」は別々のことではなく、中心にある「弟子にする」ということの具体的な内容が「洗礼を授ける」と「教える」ことだと考えたらよいでしょう。マタイ福音書では4・18のガリラヤ湖畔に始まるイエスの活動全体が「弟子作り」(人々を弟子として招き、弟子として育てる)と言ってもいいかもしれません。これまでイエスがしてきた「弟子作り」という活動がイエスの弟子に受け継がれ、同じ「ガリラヤ」から始まり「すべての民」に広がっていくのです。もちろん、イエスの弟子たちに求められるのは自分たちの弟子を作ることではなく「イエスの弟子」を作ることです。
なお、「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける」はマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年ごろ)の教会の実際の洗礼式で用いられていた表現だと言われています。「洗礼を授ける」の元の意味は「(水に)浸す、沈める」です。この箇所は直訳では「父と子と聖霊の名の中に沈める」となります。「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表すものです。「父と子と聖霊」という表現は、イエスご自身の洗礼(マタイ3・16-17。聖霊が降り、天から「わたしの愛する子」という声が聞こえた)をも思い出させます。イエスの弟子の洗礼は、イエスご自身の洗礼にあずかることだと言ってもよいのでしょう。
(3) 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、マタイ1・23を思い出させます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である。」イエスの誕生に関連してこのように述べたマタイは、最後に「共にいる」というイエスの力強い約束を伝えています。「神が、キリストが共にいる」というテーマはマタイ福音書全体を貫くものだと言うことができます。今のわたしたちが「共にいてくださるイエス」をどのように感じることができるのか、マタイ福音書の中からヒントを探ってみましょう。
(4) マタイ18・20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
キリストを信じる者同士の集いの中にキリストがいてくださる、と感じることができればどんなに素晴らしいことでしょうか。残念ながら、教会の中にも人間関係の問題やトラブルがあります。教会の中で人に傷つけられ、この集まりの中にキリストがいるなんて信じられない、と感じることもあるかもしれません。客観的に教会という組織を観察していても、そこにキリストを見いだすことは難しいかもしれないのです。組織としての教会よりも、人と人が本気でキリストに信頼して集まるということが大切なのでしょう。それは一緒に聖書を読んだり共に祈ったりする小さな集いかもしれません。わたしたち一人一人がイエスの名において人と出会おうとすることからすべては始まるのではないでしょうか。
(5) マタイ25・40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
飢え渇き、病気であり、住むところも着るものもないような人々の中にキリストがいるという約束。マザーテレサをはじめ多くの人が、貧しい人との出会いの中でキリストとの出会いを実感するということを証言しています。それはわたしたちの身近な体験の中にもあることではないでしょうか。また、わたしたち自身が自分の貧しさや苦しみの中にあって、兄弟であるキリストと深く結ばれていることを感じたという体験もあるのではないでしょうか。
(6) マタイ26・26-28「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
わたしたちが主の食卓を囲むとき、そこにキリストがいてくださるということは、わたしたちの教会の大きな宝です。聖体(エウカリスティア)は2000年にわたって、喜びの中でも苦しみの中でも、多くのキリスト信者を支え続けてきました。わたしたちはどんなとき、聖体のイエスを親しく感じ、聖体に支えられ、励まされてきたでしょうか。
2005年05月01日
ヨハネ14・15-21 (2005/5/1復活節第6主日)
【教会暦と聖書の流れ】
先週に引き続き、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスのことばです。自分は目に見える形ではもういなくなる、しかし、何かが残るということをイエスはさまざまな形で約束しますが、その中心は「聖霊の派遣」だと言えるでしょう(14・16-17、14・26、15・26-27、16・7-15)。イエスが世を去って父のもとに行き、弟子たちに残されるのは何よりも聖霊なのです。復活節の流れの中では、聖霊降臨の主日を準備するような箇所だとも言えます。
【福音のヒント】
(1) この箇所の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。この言葉を中心にして、16-17節に「聖霊」の約束があり、19-20節には「イエスがともにいる」という約束があります。以下のように図解してみると分かりやすいでしょう。
15節 愛する、掟を守る
16-17節 聖霊が一緒にいる、世は見ない、知らない・あなたがたは知っている
18節 あなたがたをみなしごにはしておかない
19-20節 世はわたしを見ない・あなたがたは見る、分かる。あなたがたのうちにいる
21節 掟を守る、愛する
このように見ると、「聖霊が一緒にいる」ということと「イエスがわたしたちのうちにいる」ということはほとんど同じように考えられていることになります。「聖霊」とはわたしたちの内に働く神の力ですが、その聖霊の働きと、イエスが目に見えない形でわたしたちのうちにおられ、わたしたちを支え導いてくださるということとは、わたしたちの体験の中でもほとんど区別できないことではないでしょうか。ことばや表現は確かに違いますが、ことばや表現よりも聖霊やイエスに支えられているからわたしたちは決して孤立無援ではないと実感することのほうが大切でしょう。
(2) この箇所で、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。「弁護者(パラクレートス)」は「慰め主」とも訳されますが、もともとは「側に(パラ)、呼ばれた(カレオー)者」の意味です。裁判の席では、そばにいて助けてくれる人という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくださる方」と言ったらよいでしょうか。ヨハネの第一の手紙2・1にあるようにイエスご自身が第一の「パラクレートス」と考えられているので、ここで聖霊が「別の弁護者」と呼ばれているのでしょう。
(3) この箇所の中にある「世」と「あなたがた」のはっきりとした対比は少し気になるかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた1世紀末の状況では、キリスト者が完全にユダヤ教から排斥されたこととローマ帝国がキリスト教を迫害していること、この2つの厳しい状況があり、「キリストを受け入れない世」と「イエスの弟子たち」の対立は不可避と考えられたのでしょう。そこで、ここでも「世」は神とキリストに反するものだということが前提とされているのです。
一方、そんなヨハネ福音書だからこそ、3・16の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということばに重みがあります。神は世が良いものだから愛するのではないのです。世は確かにどうしようもなく神から離れ、滅びへと向かっている世かもしれない。しかし「だから世はもうどうなってもかまわない」というのではなく、「だからこそ、神はひとり子イエスによって世に救いをもたらそうとされた」のだというのです。
「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3・19)。この光と闇のイメージも大切です。イエスは闇に閉ざされた世界に光として来られました。問題はこの光を受けるか、闇の中にとどまるかなのです。
わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。ある人はこの世界もなかなか良いものだと感じているかもしれません。逆に世界は絶望的に悪い(真っ暗闇だ)と感じている人もいるかもしれません。また、この世界には良い面も悪い面もある、と見ている人も多いでしょう。わたしたちの見方によって、「世」と「わたしたち」についてのヨハネ福音書のことばの感じ方も変わります。たとえ大きな闇や問題を感じていても「だから世はダメだ」ではなく、「だからこそキリストの光が必要だ」と見ることができないでしょうか。
(4) 「掟(エントレー)」という言葉は「命じる(エンテロマイ)」という動詞から来ていて、「命令」の意味があります。ところで、ヨハネ福音書で「新しい掟」(13・34)、「わたしの掟」(15・12)と呼ばれていることは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということだけです。
「愛」は心の中から自然に沸き起こるものであると考えると、「掟」や「命令」という言葉とは合わないかもしれません。「掟を守る」と言っても、それは外面的に守るべき規則のようなものではないのです。むしろ、愛の掟を実現するのは、わたしたちのうちにおられるイエス(あるいは聖霊)の働きです。イエスの愛がわたしたちの中にとどまり(あるいは、わたしたちがイエスの愛のうちにとどまり=ヨハネ15・9-10)、聖霊がわたしたちのうちに働くとき、わたしたちの中に「互いに愛し合う」という生き方が実現し始めるのです。
わたしたちは愛に反する現実をたくさん知っています。暴力、裏切り、無関心など。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。その愛の体験を深く掘り下げてみたとき、「聖霊が一緒にいてくださること」「イエスがわたしたちのうちにおられること」が見えてくるのではないでしょうか。
2005年04月24日
ヨハネ14・1-12 (2005/4/24復活節第5主日)
【教会暦と聖書の流れ】
ヨハネ福音書では13章から17章までが最後の晩さんというたった一回の食事の場面です。この席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて長い遺言のような説教をしました。その言葉の多くは、イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、何かが残る、という約束です。もちろん1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、それをただ将来起こることについての約束ではなく、今すでに自分たちの中で実現した約束として伝えているのです。そして今のわたしたちも、このイエスの約束が(不完全かもしれませんが)自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と言うことができるのでしょう。
【福音のヒント】
(1) この箇所の直前に、ペトロの離反が予告されます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13・36)とイエスが言われたことに動揺した弟子たちに向かって、イエスは「心を騒がせるな」と語りかけます。「神を信じる」「イエスを信じる」は「神は存在すると思う」とか「イエスを神の子であると考えている」というレベルの話ではありません。「その方に信頼を置き、自分を委ねる」という意味での「信じる」です。なお、原文の形は「信じなさい(命令法)」とも「あなたがたは信じている(直説法)」ともとれます。「あなた方は信じている、だから心を騒がせるな」と受け取るならば少し違った響きが感じられるのではないでしょうか。いずれにせよ、自分や他の人を頼りにしている限り、不安や動揺はなくならないでしょう。
(2) 「わたしは道である」とイエスは語ります。現代のわたしたちは、道は道路公団が作るものと考えがちですが、本来の素朴な道は人が歩くことによってできるものでした。イエスは「どこそこに道があるから、その道を行きなさい」と言うのではありません。「わたしが道だ」というときの道は、イエスご自身が歩むことによってできる道だと言ったらよいでしょう。そして、このイエスの道は十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道だというのです。ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10・19-20)。エルサレムの神殿には「聖所(至聖所)」があり、その前には垂れ幕がありました。そこには普通の人は誰も入ることができず、年に一度大祭司だけが入ることができたのです。ヘブライ書は、イエスによってわたしたちが神に近づくことができるようになった、ということをこのような比ゆで示そうとしています。
(3) 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)は、イエスへの信仰という話でも、洗礼を受けたか受けていないか、ということでもないでしょう。「道」は、動く歩道やエスカレーターではありません。信仰告白や秘跡によって自動的に神のもとに行くことはできません。イエスが命がけで切り開かれた道をわたしたちも歩んでいかなければならないのです。
「真理」もそうです。ヨハネ福音書は、抽象的・哲学的な真理について語るのではなく、「確かなもの、頼りになるもの(ヘブライ語の「エメト=真理」の元の意味)」であるイエスご自身、そしてイエスにおいて現された神の姿が真理なのです。「真理を行う」(ヨハネ3・21)という表現もありますが、この真理は頭で理解する真理ではなく、イエスが行った真理であり、わたしたちが行うように招かれている真理なのです。「命」もイエスご自身の生きた「命」のことであり、この命をわたしたちも生きることになるのです。
(4) フィリポのことば「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)はすべての人の心の深いところにある望みを表しているとも言えるでしょう。これに対するイエスの答え「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)は決定的な宣言です。ヨハネ福音書はイエスの受難の物語を次のように語り始めました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。ヨハネ福音書が受難のイエスの中に見ているものはこの愛です。この愛は、いつもイエスのうちにあり、そして死の時に完成されるような愛なのです。イエスは受難と死において「愛そのものである神」(Ⅰヨハネ4・7)を完全に現す方となった、だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われるのではないでしょうか。
(5) 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)は不思議な言葉です。わたしたちがイエスよりももっと大きな業を行うということは常識的には考えにくいことです。この文脈の中では、続いて「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。イエスが父のもとに行くことによって実現するのは、聖霊が弟子たちのところに来て、弟子たちとともにいてくださるということです(14・16-17、14・26、15・26-27、16・7-15参照)。イエスを「信じる者が行う業」とは、彼ら自身の働きというよりも、信者のうちに、信者を通して働く聖霊の働きなのです。そして、それは地上でイエスが行ってきたことよりももっと豊かな働きだということでしょう。
この「もっと大きな業」については他にもいろいろな解釈があります。何が正解かということよりも、わたしたち自身の体験に照らし合わせて考えてみたら良いでしょう。「信じる者は、イエスの行う業を行う」とわたしたちが感じるような体験があったとすれば、それはどんな体験でしょうか。
2005年04月17日
ヨハネ10・1-10 (2005/4/17復活節第4主日)
【教会暦と聖書の流れ】
復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとの関わりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日は毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえですが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにB年に11-18節、C年に27-30節が読まれます)。
【福音のヒント】
(1) 福音書の「章」はあとの時代の人が付けたもので、確かに役に立ちますが、ときにはわたしたちの目を惑わすことがあるかもしれません。実はヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わりから続いているのです。9章は四旬節第4主日に読まれた「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31・14)と言われていた安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。そのことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10・11)と宣言されるのです。
ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白のことばでもあるのです。
(2) パレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われます。羊飼いは50~100頭の羊の群れを追って、草のあるところを旅していきます。羊は弱い動物なので、一頭だけでいたらすぐに野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を一つの群れに集め、狼や盗人から羊を守り、草のあるところに羊を導くことでした。広い牧場に柵があり、門があって羊はずっとその中にいるというのではないのです。ただし、夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたといわれます。こういう当時の実際の羊飼いの生活が背景にあって、きょうのたとえが語られています。
(3) 1-5節のたとえでは「聞く」と「知る」が大切な動詞です。「聞き分ける」(3節)は、原文ではただ「聞く」という言葉です。「聞く」にはただ単に耳で聞く、というだけでなく、「聞き分ける」という意味もありますし、「聞き従う」という意味もあります。
4-5節の「知っている」「知らない」の「知る」はただ単に知識として知るという意味ではなく、お互いの関わりを表すことばです。日本語でも「○○さんを知っていますか」という言い方は単に「その人について知識がありますか」という意味ではなく、「その人と会ったことがありますか。どんな交際がありますか」という意味でしょう。この箇所の後の14-15節では「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」ということばがあり、両者の深い交わりを表現しています。9章でいやされた人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言った言葉も思い出されます。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、自分を変えてくださったイエスとのつながりそのものでした。
イエスがわたしたちを知っていてくださるとはどういうことでしょうか。また、わたしたちがイエスを知っている、わたしたちがイエスの声を聞くとはどういうことでしょうか。
(4) 7-9節でイエスはご自分を「羊の門」にたとえます。9節「わたしを通って入るものは救われる」ここにあるのは、イエスを通って神の国に入る、父の家に入る、というイメージでしょう。それに対して次の「出入りして牧草を見つける」は実際の羊の囲いのイメージなのでしょうか。実際には、餌となる草は門の外にあるからです。いずれにせよ、イエスが人を豊かないのちに導く方であることが示されています。
(5) 10節の「命」はギリシャ語では「ゾエーzoe」です。続く11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉があり、こちらの「命」は「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」のほうは本来「息、生命の息」を表すことばで、psychology(心理学)の語源になったことばですが、ここでは「魂・精神」というよりも「自然の生命、肉体的な命」を指す言葉として用いられます。これに対して「ゾエー」は人を生かす根源的なエネルギーを表すと言ったらよいでしょうか。「永遠の命」というときはこの「ゾエー」が使われます。この2つのことばはいつも厳密に区別されているわけではありません(10・15-18ではイエスの肉体的な命と復活の命が同じ「プシュケー」という言葉で表現されています)。また、この2つのことばは対立しているのでもありません。しかし、イエスは「羊のために命(プシュケー)を捨てる」方であり、同時に「羊が命(ゾエー)を豊かに受けるために」来られた方です。ただ肉体的な命というだけでない、もっと豊かないのちの捉え方がここにはあります。わたしたちはいのちをどのように感じているでしょうか。
2005年04月10日
ルカ24・13-35 (2005/4/10復活節第3主日)
【教会暦と聖書の流れ】
きょうの箇所も「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。前の週のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事というだけでなく、「生きておられる」(ルカ24・23)イエスと今のわたしたちとの出会いの物語として読むことができるでしょう。ミサや聖餐式との関連もよく指摘されています。聖書のことばを聞き、パンを裂く中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために、最適の箇所と言えるかもしれません。
【福音のヒント】
(1) 失意のうちに暗い顔をして歩んでいるとき、気づかないけれどイエスがともにいてくださる。もちろん、苦しみや悲しみのどん底にいるときにはなかなかそのように感じられないでしょう。しかし、後になってから「ああ、やっぱりあの時イエスは一緒にいてくれたのだ」と気づくことがあります。わたしたちの中にもそういう経験があるでしょうか。
(2) 「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24・25-27)
「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体・・・」は旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光について述べている、ということですが、ルカでは特にイザヤ52・13~53・12の主の僕(しもべ)の歌のことが考えられていると言えるかもしれません。ルカが福音書の続編として書いた使徒言行録8章で、フィリポがエチオピア人の宦官から「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)と問いかけられたのはまさにこの箇所についてでした。
「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52・13)。
「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53・11-12)
また、聖霊降臨の日にペトロが引用した詩編も思い浮かべることができるでしょう。
「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」(使2・25-28、詩編16・8-11の引用)
これらの箇所が語っているのはイエスのことだと、弟子たちが理解するためには、心の目が開かれる必要がありました。旧約聖書を読むときに、それをイエスと結びつけて読むというのは教会の伝統ですが、きょうの箇所によれば、そのような読み方はイエスご自身が示してくださった読み方なのです。そして、わたしたちの目を開いて聖書を悟らせてくださるのは、復活されたイエスご自身なのです。
(3) 復活のイエスとは一目見れば分かるものではなく、ある瞬間に「そうだ、やっぱりイエスは生きていてわたしたちと共にいてくださる」と気づくものであるようです。きょうの箇所の弟子たちにとって、それはパンを裂いたときでした。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」(ルカ24・30)。5つのパンを大群衆に分け与えたとき(9・16)も、最後の晩さんのとき(22・19)もイエスは同じようにしました。イエスのこの行為は弟子たちにとって特別に印象深いものだったようです。
復活したイエスに気づくためのしるしは、ヨハネ20・16のマグダラのマリアにとっては、「マリア」という呼び声でした。ヨハネ20・20の弟子たちにとっては「手とわき腹の傷」でした。これらは皆、目の前に立っている人と生前のイエスを結びつけるしるしでした。わたしたちも自分が経験している出来事の中に、福音書のイエスの姿を思い出させる何かが感じられたとき、自分たちの現実の中にイエスがいてくださることに気づくのだと言うことができるでしょう。それは乏しい中で持っているものを分かち合うことをよって皆が満たされるという体験であったり、打ちひしがれている人が立ち上がる勇気を得るという体験であったり、対立している人びとの間に心が通い合ったりするというような体験でしょう。そのように、わたしたちの「心が燃えていた」(ルカ24・32)体験を分かち合えたら素晴らしいことです。
(4) 「一緒にお泊まりください」(29節)の「泊まる」は「とどまる」とも訳される言葉です。「主よ、いつもわたしたちと一緒にいてください」それはわたしたちの心からの願いでもあるのではないでしょうか。
前の週の福音と同様、この物語の中にも、コミュニティ(共同体)というテーマが感じられます。イエスの死は弟子のコミュニティを破壊してしまう出来事でした。この二人も失望し、弟子たちのグループを離れて二人だけでエマオに向かって行きました。しかし、たった一人ぼっちではなく、二人連れでした。二人で話している間に、次第に二人とともにいるイエスに気づいていくのです。そして生きているイエスに出会った二人は、エルサレムに残っていたほかの弟子たちのところに走って戻ることになりました。復活の主との出会いはいつも人々の間に起こり、人々を再び一つに集める力だと言ったらよいのではないでしょうか。
2005年04月03日
ヨハネ20・19‐31 (2005/4/3復活節第2主日)
【教会暦と聖書の流れ】
復活節主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。
(2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしの最も明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。
(3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」(あるいは「愛」。ヨハネ13・34-35、15・12参照)です。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
(4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子も他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスもまた、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分にも他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくれました。
トマスはコミュニティーの中で、コミュニティーの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。
(5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のキリスト信者は皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能ですが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)のギリシア語原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも読むことができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれるのではないでしょうか。
2005年03月27日
マタイ28・1-10 (2005/3/27復活の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
復活の主日のミサには「復活徹夜祭」と「日中のミサ」、「夕刻のミサ」があります。古代ユダヤの日付は日没と共に変わることになっていましたが、イエスは死んで三日目、今で言えば土曜日の日没から日曜日の明け方までの間に復活したと考えられ、古代から主の過越(イエスが死からいのちへ移られたこと)の祝いは夜中に行われていました。光の祭儀や大人の洗礼・堅信を行って主の過越を祝う復活徹夜祭は復活祭のメインのミサだと言えるでしょう。
ここにあげたマタイ福音書の箇所はこの徹夜祭のミサの中で読まれる福音で、日中のミサでも読むことができます。日中のミサの固有の箇所は毎年同じヨハネ福音書20・1-9ですが、今回はマタイを取り上げます(なお、夕刻のミサではルカ24・13-35が読まれます)。
【福音のヒント】
(1) 「安息日」は今でいうと金曜日の日没から土曜日の日没までの一日を指します。土曜日の日没から始まる次の一日が「週の初めの日」でした。
マルコ福音書ではイエスの墓にいたのは「若者」ですが、マタイでは「地震」とともに「主の天使」が現れます。マタイはここに神の大きな働きがあり、ここで告げられる言葉はまさに神のことばであることを明確に示そうとしているようです。
(2) マルコでは女性たちが墓に着いたとき、すでに墓の入り口をふさいでいた石は取り除けてありましたから、その入り口を通って復活したイエスが墓から出て行ったような印象があります。しかし、マタイでは彼女たちが墓に行った瞬間に墓が開きます。マタイで墓の入り口が開かれるのは、イエスが墓を出て行くためではなく、女性の弟子たちに空の墓を見せるためだと言うことができるでしょう。イエスの「復活」とは、死んだ人が生き返ったというレベルの話ではなく、イエスが死に打ち勝ち、神の永遠のいのちを生きる方となったことを表すことばです。復活のいのちとは、時間・空間の制約を越えたいのちなのです。その意味では、物理的に墓の入り口が開かれている必要も、イエスの遺体がなくなっている必要もないと言えるでしょう。これらの出来事は、復活そのものの証拠というよりも、イエスが復活したということを弟子たちに悟らせるためのしるしなのです。
(3) 「マグダラのマリアともう一人のマリア」はマタイ27・51にも登場し、そこではイエスの埋葬を見守っています。さらにその前の27・56ではイエスの十字架を見守っていた女性たちの名として「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」の名前が挙げられています。男の弟子たちが逮捕されたイエスを見捨てて逃げ去ったのに、最後までイエスについていった女性の弟子たちの姿は印象的です。ヨハネ20章の空の墓の場面ではマグダラのマリア一人だけが登場しますが、マタイやマルコ、ルカはこれらの場面すべてに複数の女弟子が立ち合っていたことを伝えています。一人の証言よりも複数の証人による証言のほうが確かだと考えられていたからでしょうか。あるいは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・20)というイエスの約束を思い出すこともできるでしょう。
さらに、きょうの箇所で「もう一人のマリア」と呼ばれているマリアをわたし自身のことだと考えてみると、福音はもっと身近に感じられるようになるかもしれません。
(4) 福音書が伝える、復活したイエスに出会った弟子たちの物語は、2000年前に起こった一回限りの出来事というだけでなく、今もわたしたちの中で起こっている、わたしたちとイエスとの出会いの物語として読むとよいでしょう。
見張りをしていた人たちは地震と天使の出現に「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(4節)のですが、二人の女性も同様だったかもしれません。天使は彼女たちに「恐れることはない」(5節)と語りかけますが、この命令形は現在していることを禁じる命令の形で、「恐れることをやめよ」という意味です。天使のことばを聞いた女性たちは「恐れながらも大いに喜び」ました。この時点では「喜び」と「恐れ」が同居しています。彼女たちが本当に恐れから解放されるのはイエスに出会ったときです。イエスは「おはよう」と語りかけましたが、このことばは直訳では「喜べ」です(一般的なあいさつの言葉でもあるので「おはよう」と訳されています)。さらにイエスは彼女たちに天使と同じ言葉で「恐れることはない」(10節)と言います。この出会いが、彼女たちを根本から変えるのです。
わたしたちの中にもさまざまなことに対する恐れがあります。時としてわたしたちは恐れに囚われて身動きできなくなっているかもしれません。「恐れ」から解放されて「喜び」に満たされていく体験、そして凍り付いていたわたしたちの心が動き始める体験、そういう体験が復活(過越)の体験だと言ってもよいのでしょう。
(5) きょうの箇所は確かに出現(死んだイエスとの再会)の物語を含んでいますが、天使もイエスも、この後にもっと重要な出現が起こることを予告します。「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。マタイ福音書のクライマックスは16-20節のガリラヤの山での出現で、きょうの箇所はそこに向かう前段階に過ぎないとも言えます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20) マタイ福音書が伝えようとする復活のイエスは、目に見えないが、いつもわたしたちと共にいてくださるイエスなのです。ところでガリラヤの山と言えば、マタイ福音書では5-7章の山上の説教も思い出されます。復活のイエスはきょうもわたしたちに「幸い」の福音を語りかけ、みことばをもってわたしたちを導いているとも言えるのではないでしょうか。
2005年03月20日
マタイ27・11-54 (2005/3/20受難の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
教会の暦では、この週の木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへ、という過越(パスカ)を記念します。毎年この中の聖金曜日の典礼でヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の前の週の日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイ。長い形としてマタイ26・14~27・66を読むこともできます)。
なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。
【福音のヒント】
(1) マタイの受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、そこにいくつかの独自の伝承を加えたものです。この箇所で、マタイが付け加えた伝承は、10節のピラトの妻からの伝言、24-25節のピラトと民衆のやりとり、さらに51-53節で神殿の垂れ幕が裂けた後の出来事です。10、24-25節では、イエスが無罪であること、イエスの死の責任はローマ人であるピラトにではなく、むしろユダヤ人にあることが強調されているようです。そこには、マタイ福音書が書かれたころのユダヤ教との対立、ローマ帝国によるキリスト教迫害(ローマ帝国と敵対しない配慮が必要だった)などの事情が反映しているのかもしれません。なお、イエスの裁判はイエスの殺害を正当化するために行われたもので、裁判からはイエスがなぜ死刑にならなければならなかったかは見えてきません。イエスは裁判で自分を神の子であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのこれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったのです(51-53節については後述します)。
(2) 40-43節で十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」は、マルコ福音書よりもくわしくなっています。この言葉は、イエスの宣教活動に先立つ荒れ野での誘惑のことばを思い出させます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」(マタイ4・6)
自分の身を守ることは一般的には悪いことではないはずです。しかし、ここで問題なのは、それがこの場合には人を神から引き離す誘惑であるからです。イエスは自分を神から引き離す誘惑を拒否しました。最後の苦しみの中でもそうしたのです。ただ「悪いことをするかしないか」という面だけで誘惑を考えるのではなく、「わたしたちを神から引き離そうとするものは何か」と考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないでしょうか。
(3) また、イエスをののしった人々のこの言葉は、詩編22をも思い出させます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」(9節) マタイの受難物語の背景には、この詩編があります(マルコもそうですが)。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」も詩編22の冒頭のことばです。「くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27・35)は、詩編22・18-19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」を思い出させます。
詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスはその一員だと言ったらよいでしょうか。
マタイは、イエスの十字架を神からも見捨てられたような悲惨な死であるというだけでなく、そこに、徹底して苦しむすべての人とつながりを生き、同時に神に従って生きる姿を見ていると言ったらよいでしょう。苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、それはわたしたちにとっても大きなテーマなのではないでしょうか。
(4) 51節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」はマルコ福音書も伝える話です。神と人とを隔てているものが取り払われることを暗示しているようです。51b-53節「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」は、マタイ福音書だけが伝える不思議な話です。確かに言えることは、イエスの復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということを、この出来事が指し示していることでしょう。イエスの受難だけでなく、復活にもすべての人との連帯性があるのです。復活とは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と約束されるイエスは、わたしたちが死に臨むときも、死を超えてさえも、つねに共にいてくださるかたです。ここにわたしたちの希望があるのではないでしょうか。
2005年03月13日
ヨハネ11・1‐45 (2005/3/13四旬節第5主日)
【教会暦と聖書の流れ】
四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死から命へ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
【福音のヒント】
(1) ラザロのよみがえりはイエスの復活とは違います。ラザロは地上の命に戻されますが、それはいつかまた死ぬべき命です。これに対して、復活したイエスのいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。このような違いはありますが、それでもこの物語の中に「死からいのちへ」という「過越」のイメージがはっきりと示され、この中でイエスが「復活であり、命である」(25節)ことが現されます。
なお、この出来事はヨハネ福音書では、イエスの受難と密接に結びついています。イエスが死者を生き返らせたという評判が広まったことを警戒した人々は、イエスをこのまま放っておけない、と感じてイエスを抹殺しようとするのです(11・45-53、12・9-11,17-19参照)
(2) ベタニアという町は、エルサレムの近くにあります(18節「5スタディオン」は3km弱)。ルカ福音書10・38-42にも「マルタとマリア」という姉妹が登場しますが、その場所はエルサレムに近いとは思えません。それでも、ヨハネ11章の「マルタとマリア」とルカ10章に登場する姉妹の性格にはある共通点があります。ルカでもヨハネでも、イエスを迎えるのはマルタですし、マルタのほうがマリアより行動的だという印象があります。
「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」(2節)と紹介されています。ヨハネ福音書ではその話は後の12章にありますから、少しおかしな紹介の仕方かもしれません。ヨハネ福音書は、誰もが知っているあまりにも有名な話だからこう言うのでしょうか。あるいはルカ7・36-50でイエスの足に香油を塗り、その髪でぬぐった女性の話を周知のこととして前提としているのでしょうか。
(3) 3節の「愛する」は「フィレオー」という動詞で、人間的な親愛の情(友としての愛)を表すことばです。36節の「愛する」も「フィレオー」です。一方、5節の「愛する」は「アガパオー」で「神の愛」というときに使われる言葉です。そのものを無条件に大切にする愛を表します。ヨハネ福音書はイエスの愛が、単なる人間的な愛着とは違うと言いたいのでしょうか。「栄光のため」「栄光を受ける」(4節)は先週の「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と似ています。「ため」は目的を表すというよりも、これから神がこの人に救いの働きをなさり、そのことを通して神とイエスの真の姿(素晴らしさ)が輝き出る、という確信を表していることばです。
(4) 6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」から16節の「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」までの展開は少し不自然に感じられるかもしれません。7~10節と16節だけを取り出してみれば、ラザロの物語とは関係ない別の物語(イエスが危険に満ちたユダヤに赴くが、トマスはイエスに従う決意を表す、という話)と考えることもできます。ラザロの物語の中の空白の数日間を埋めるために、別の言い伝えが挿入されたのでしょうか。とにかくイエスが到着する前に、ラザロは死んでしまいました。
(5) マルタのことば「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」はイエスに向かって不平を言っているように聞こえます。しかし、おそらくだれでもそう言いたくなった経験があるでしょう。「主よ、もしあなたがいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに!」。ルカ10・40のマルタのことば「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」 これも不平のことばですが、わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるのではないでしょうか。マルタはただ不満を抱くのではなく、それをイエスにぶつけます。それはマルタなりの「祈り」だと言ってもいいかもしれません。そして、イエスとの対話の中で、マルタは本当に大切なイエスからの答えをいただくのです(ルカ10章でもそうでした)。ここにはわたしたちの祈りのためのヒントがあるかもしれません。
(6) この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)ということばです。福音書の中でイエスが泣くのは、ルカ19・41とこの箇所だけです。33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されていることばも、大きな感情の動きを表すことばです(別の訳では「激しく感動し」となっています)。さらに、死んで、聞く耳を持たないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿にも、イエスの激しい思いが感じられないでしょうか。
ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」(4章でもそうでした)。この二つの面は切り離せないでしょう。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではなく、イエスの深いコンパッション(共感)から起こる出来事なのです。いや、むしろこのコンパッションの中にこそ、「死を超えるいのち」が輝くと言えるかもしれません。わたしたちが人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われます。
2005年03月06日
ヨハネ9・1‐41 (2005/3/6四旬節第4主日)
【教会暦と聖書の流れ】
四旬節第3~第5主日に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の2番目です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。きょうの箇所は、生まれながら目の見えなかった人がイエスによって「闇から光へ」と移される物語です (なお、今回も『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
【福音のヒント】
イエスの実際の出来事が起きてからヨハネ福音書が書かれるまでには長い年月がかかっています。出来事をそのまま伝える記録と読むには難しい面があります。たとえば、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)というのはイエスの地上での活動中のことではなく、福音書が書かれた1世紀末の状況を反映した記述だと言われています。ただし、この物語の核には、イエスと出会った人の真実の体験があると思って読むと良いでしょう。
(1) 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。普通は本人の罪の結果と考えられましたが、この人は「生まれつき目が見えない」ので「それでは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えたわけです。しかし、イエスは個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(3節)。そして、「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。「ため」といいますが、イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明しようとしているのではなく、これから起こる出来事に目を向けさせているのです。イエスの関心は「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところにあると言ったらよいでしょう。
目の前の人が苦しんでいるとき、その苦しみについて自分が納得できる説明を見つけて傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちもイエスから問われているのではないでしょうか。
「シロアム」は「遣わされた者」の意味だと、ヨハネ福音書は解説しています。イエスが神から「遣わされた者」としてこのことを行うことを暗示しているのでしょうか(4節)。あるいは、いやされた人が「遣わされた者」になっていくことを暗示しているのでしょうか(この人は物語の展開の中で、次第に力強くイエスを証言する人になっていきます)。
(2) ファリサイ派は熱心に神に仕えようとしていました。そのために律法を解釈し、事細かに守ろうと努力していました。イエスは安息日に泥をこねて(これが律法違反と考えられたのでしょうか)この視覚障害者をいやしましたが、ファリサイ派の考えでは、安息日の律法を守らないような人間は間違いなく罪びとでした。しかし、罪びとがこのような「しるし」(奇跡)を起こすことはできないとも考えられていました(16節)。頭で理解し、納得しようとしてもうまくいきません(それは生まれつき目が見えないのは本人のせいか、両親のせいか、という弟子たちの戸惑いとも似たところがあります)。自分たちが納得するために彼らがとった方法は、イエスによるいやしの事実を否定する、ということでした。この事実が否定されれば、イエスは罪びとだということが確定すると考えるわけです。
宗教に熱心な人の落とし穴がここにありそうです。教えられたこと、信じていることに忠実であろうとするあまり、目の前の現実が見えなくなるのです。
イエスはファリサイ派の罪を指摘します。39節の「見える」「見えない」は肉体的な視力のことと、イエスを理解するか否かということの両方が掛け合わされています。「自分たちは何もかも理解している、見えている、分かっている」それが彼らの罪だというのです。「罪」とは根本的に神から離れることです。彼らは自分たちの確信を守るために、目の前で起こっている神のわざを否定して、生きた神とのつながりを見失ってしまったのです。
(3) 一方、いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことでした。たとえ彼の両親がそのことを知らないと言っても、彼には否定できません。なぜならそれは彼自身の体験だったからです。彼は、自分の意見を述べているのではなく、自分が体験し、それによって自分が救われた、その事実を証言するのです。
いやされた人はイエスに泥を塗られ、シロアムの池に行って見えるようになったのですから、実はイエスの姿を見ていませんでした。物語の最後に、この人はイエスに出会い、はっきりとイエスを見て、信じるようになります(38節)が、それまで、この人はイエスについての「知識」がほとんどありませんでした。イエスがどこにいるかと問われて「知りません」(12節)と答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)とも言います。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」これだけが彼の知っていることだったのです。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、イエスとの出会いを体験する、ということです。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と言われれば、わたしたちも「そのとおりです」と言うしかないでしょう。しかしイエスに出会って自分が変えられたのならば、そのことを証言せずにはいられないのです。イエスに出会ってわたしはどう変えられたのか。人を愛せるようになった? 解決できない問題を神にゆだねることができるようになった? 絶望的な状況の中でも、今自分にできる最善のことは何かと考えられるようになった? そういうことを分かち合えたらどんなに素晴らしいことでしょう。
2005年02月27日
ヨハネ4・5‐42 (2005/2/27四旬節第3主日)
【教会暦と聖書の流れ】
古代から伝わる洗礼志願者のための朗読箇所は、ヨハネ4章(サマリアの女)、9章(生まれつきの盲人のいやし)、11章(ラザロのよみがえり)です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。現在の朗読配分では、この3箇所がA年(今年)の四旬節第3、第4、第5主日に読まれます(なお、ここでは、『聖書と典礼』の短い朗読ではなく、伝統的な長い朗読に基づいて話を進めます)。
【福音のヒント】
(1) ヨハネ福音書を読むときに、物語は単なる出来事の報告ではないことに注意すべきでしょう。ヨハネは一つ一つの出来事をとおしてイエスとはどういう方であるかが現れる、という見方をしています。この箇所では、この出来事をとおして「イエスこそがいのちの水の与え主である」ことが現されるのです。それは2000年前のどこかの誰かの物語ではなく、「復活して今も生きている神の子キリスト」であるイエスとわたしたちとの出会いに気づかせるための物語だと言ってもよいでしょう。
(2) 福音の舞台はサマリアの町です。サマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立し、ゲリジム山に独自の聖所を持ち、後にサマリア人として民族的にもユダヤ人と分かれてしまいました。この物語の背景には、こういう民族間の「壁」があります。エルサレムか、ゲリジム山か、礼拝の場所の問題は、ユダヤ人とサマリア人を隔てる大きな問題でした。
もう1つの壁は、男女の間の「壁」です。当時の社会では、男性と女性は対等な人間同士として関わることはできないと考えられていました。女性は男性の性的欲望の対象であり、だからこそ距離を設けて守られるべき存在と見られていました。道端で男性が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられなかったのです。だから、この女性も弟子たちもイエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることに驚いたわけです(9節、27節)。
さらに、この女性と町の普通の人々との間の「壁」。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節) 彼女はイエスにこう言いあてられます。罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性というべきでしょうか。この町での彼女の評判は決して良くなかったでしょう。当時、水汲みは女性の仕事でした。女たちは朝や夕方に水汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(井戸端会議)をしたのです。「正午ごろ」(6節)水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかと考えられます。
(3) イエスはどのようにこれらの「壁」を乗り越えていったのでしょうか。
イエスは自らも疲れ、渇く者として彼女に出会いました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と言われますが、きょうの箇所の直前に、イエスの活動が誤解され、ユダヤに留まることができなくなったという記事があります(1-4節)。イエスの疲れには、人々の無理解によるダメージという面も含まれているのかもしれません。だとすれば、イエスの姿は、人とのつながりを失っていたこの女性の苦しみと通じ合います。
水はいのちのシンボルです。「生きた水」(10、11節)は、ヨハネ7・37-39では「聖霊」のことを意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と考えればよいでしょう。彼女に対して、イエスは一方的に「わたしがいのちの水を与えよう」と言うのではありません。まず、イエスのほうが「水を飲ませてください」(7節)と言います。イエスの彼女との関わり方には、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という連帯性が感じられるのではないでしょうか。この連帯性の中で、男性と女性の間の壁、ユダヤ人とサマリア人の間の壁、評判のよい人と悪い人の間の壁が乗り越えられるのではないでしょうか。「霊と真理による礼拝」(23,24節) 霊は「神からの力」であり、真理は「イエスにおいて現されたこと」だと言えるでしょうか。ただあまり難しく考えず、単純に「真心をもって」と受け取ってもよいのかもしれません。ここにも人と人とを隔てる壁を乗り越えるものを見いだすことができるでしょう。
(4) 「水を飲ませてください」についてラルシュのジャン・バニエはこう言っています。「イエスは彼女に目を留め、『水を飲ませてください』と語りかけました。つまり、『あなたにお願いがあります』と伝えたのです。これは、『私のために何かしてほしい(あなたが必要だ)』とこちらから願って近づいていった本当にすばらしい出会いです。・・・・本当に人を愛するとは、何かをしてあげることではありません。何かをしてあげて、人を傷つけ、潰してしまうことは実に簡単です。一生懸命にお世話をしながら、『あなたは自分ではできないでしょう』と、その人の無力さを見せつけてしまうこともあるからです。人を愛するとは、その人自身の美しさを自分で発見させ、見せてあげることだと思います。その人の存在する場所を作ってあげることです。あなたは大切な人であり、あなたには価値があると、その人自身に示してあげることです」(『心貧しき者の幸い』あめんどう刊。40-41ページ)
(5) 27節から、帰ってきた弟子たちとの間で、ミッション(派遣・使命)の話になります。弟子たちは自分たちで食物を手に入れてきましたが、イエスは別なところに弟子たちの目を向けさせます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げること」(34節) イエスを生かすものは、神のミッションを生きることなのです。そして「刈り入れ」について語り始めます。ヨハネ4章の中での「刈り入れ」とは心に傷を負った女性とサマリアの町の人々とイエスとの間に心が通じたということでしょう。目の前でもうすでに神の働きが実現している、わたしたちもそれに気づくことができるでしょうか。
2005年02月20日
マタイ17・1‐9 (2005/2/20四旬節第2主日)
【教会暦と聖書の流れ】
古代からの伝統に従い、四旬節第2主日の福音では毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。今年はマタイ福音書です。山の上でイエスの姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けられる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここに「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
【福音のヒント】
(1) きょうの箇所の始めにある「六日の後」ということば(マタイ17・1。朗読聖書では省かれている)は、直前の出来事との関連を感じさせます。この箇所の前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16・21「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」変容の出来事は、この受難予告と密接につながっています。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17・9)もそのことを暗示しています。16章の終わりにあるのが「ことばによる受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間見させ、イエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9・31)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。
(2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光のときではなく、受難に向かうときだからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう。聖書の中では、目に見えない神がそこにいてくださる、というしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40・34-38参照)。
雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3・17)。この言葉の背景にはイザヤ42・1の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると言われます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。この受難の道も神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18・15参照)。受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど大きなイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。イエスについていけるという自信は誰にもないかもしれません。
(3) 「イエスが苦しみと死をとおって復活のいのちに移られたこと」を「主の過越(すぎこし)」といいます(ギリシャ語の「パスカ」という言葉もよく使われます)。もともとイスラエルの民のエジプト脱出の祝いが「過越祭(パスカ)」でしたが、イエスが十字架にかかって死に三日目に復活したのはこの過越祭のころ(春分の日の後の満月のころ)であり、イエスの死と復活を祝う新しい「過越祭(パスカ)」をキリスト者も祝うようになりました。
きょうの変容の出来事を「未来の栄光があるのだから今の苦しみに耐える」というだけではなく、「苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」という過越のイメージで捉えてみてはどうでしょうか。
隷属から自由へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。闇から光へ。死からいのちへ。
あるいはまた、孤立から連帯へ。疑いから信頼へ。憎しみから愛へ。
わたしたちの中にも、このような「過越」の体験があるのではないでしょうか。もしもわたしたちが、自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取ることができたとするならば、そこに、イエスを死からいのちへと移してくださった神の力強い働きを感じることができるでしょう。そのときにわたしたちは、イエスのあとを歩み、イエスとともに歩んでいることになるのではないでしょうか。
2005年02月13日
マタイ4・1‐11 (2005/2/13四旬節第1主日)
【教会暦と聖書の流れ】
洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生きはじめることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための特別な期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。
時代とともに、四旬節はただ洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間と受け取られるようになりました。
「四旬節」ということばは40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心=主に立ち返ること、さらに具体的に「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での誘惑の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。
【福音のヒント】
(1) 40という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりも紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。きょうの福音の箇所全体は、この荒れ野の40年の体験をもとにしています。
(2) 荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。荒れ野は、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆が分かち合う場でした。約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。そのとき、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そこから振り返ったときに、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づくのです。
(3) 「悪魔がイエスを誘惑する」というのは分かりにくいかもしれません。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになったのだと考えればよいでしょう。
「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑だと言えるでしょうか。「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑だと言ってもよいでしょう。このことばは、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27・40)によく似ています。「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑でしょう。「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエスをとがめたペトロに向かって言われたことば(マタイ16・23)と同じです。ここでもイエスの受難の道との関連が暗示されています。これらの誘惑を退けることを通して、イエスの道とはどのような道であるかが示されるのです。
ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑とは言えないかもしれません。イエスは5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしたと伝えられています。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。問題は、神との関係を見失ってそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言えるのではないでしょうか。
(4) イエスの悪魔への答えは、すべて申命記の引用です。申命記の大部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」というかたちを取っています。
イエスの答え「人はパンだけでなく・・・」は申命記8・3の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた「マナ」について語ることばです。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、というのです。7節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6・16の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。イスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言う場面です。10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6・13の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、家を建て、豊かな食物で満腹となり、周辺民族の他の神々にひかれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られることばです。
(5) 四旬節のテーマは自分を荒れ野に置いてみることだ、と言えるかもしれません。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。生きるのにぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟たちとの連帯を思うのです。わたしたちにとっての荒れ野とは?
2005年02月06日
マタイ5・13‐16 (2005/2/6年間第5主日)
【教会暦と聖書の流れ】
マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続いて語られることばです。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらのことばを語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(4・24)であった群集もこのことばを聞いていたのです(7・28参照)。
マタイ福音書でイエスの活動の歩みを追っていく今年の年間主日ですが、今週の水曜日から四旬節になり、この流れは中断してしまいます。年間主日の流れに戻るのは、6月5日の年間第10主日(マタイ9・9‐13)です。祭日と重なるなどの理由で4つの主日が消えてしまうので、山上の説教の多くの部分は読まれないままです。それではあまりにも残念ですから、先週と今週の福音を手がかりに、ぜひ一人でゆっくり味わってみてください。
【福音のヒント】
(1) イエスが決して「地の塩になれ」「世の光になれ」と言っていないことに注意しましょう。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けといっているのではないのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断定します。そして、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だと言っているのです。
(2) しかし、本当にわたしたちは自分を「地の塩」「世の光」と感じられるでしょうか。このことばはわたしたち以上に、2000年前にガリラヤの丘の上でこのことばを聞いていた人にとって、信じられないようなことばだったでしょう。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4・23)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近い人々、いてもいなくてもよい人。しかし、その人々にイエスはこういうのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたに何ができるからとか、他の人よりも優れているから、ではないのです。神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ、というのです。これが福音です。問題は、この福音をわたしたちが本気で受け取れるかどうかです。
(3) 「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが関係ない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。わたしたちはどうやって伝えることができるのでしょうか。
(4) 塩は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいと思います。13節のイエスのことばは、「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているのでしょう。
「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21・1-22・5参照)。「エルサレム」と言っても、もちろん現実のある地名の話ではなく、象徴的な表現です。神の救いに満たされた状態、それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。あまりにもわたしたちの社会の現実とは程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが新約聖書の希望です。
16節の「立派な(カロス)」は、直訳では単に「良い」(「美しい、役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表すことば)です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちのことばと行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能なのです。だから、「良い行い」であがめられる(栄光を与えられる=直訳)のは、その行いをした人間ではなく「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じることがありますか。
(5) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神の御心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイア)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神が王(バシレウス)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次のことばを補って読んでみてください。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~」
2005年01月30日
マタイ5・1‐12a (2005/1/30年間第4主日)
【教会暦と聖書の流れ】
この箇所の直前、マタイ4・24に次のようなことばがあります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です(いわゆる「弟子」だけでなく、群集も聞いていました。7・28参照)。
【福音のヒント】
(1) マタイ福音書5~7章の長い説教は「山上の説教」と呼ばれています。イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られたことばがつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスのことばを集めたのでしょうか。内容から考えて、これらのことばは、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示すことばとして集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。
(2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「三つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ 5・3 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
5・4 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
5・5 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ 6・20 貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
21a 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
21b 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3とルカ6・20、マタイ5・6とルカ6・21aは多くの言葉が共通しています。マタイ5・4とルカ6・21bも内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスのことばが伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
なお、マタイ5・5の「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、このことばは、詩編37・11の引用と言ってもよいことばです。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」ということば(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表すことば)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。この句はおそらく、イエスのことばが伝えられていくある段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。
(3) 「貧しい人は幸いである」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福のことばなのです(マタイは三人称になっていますが、同様のことが言えます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、そう語りかけたのです。
「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイア)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウス)となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
このことばをわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」のことばを受け取るためのもっとも大切なヒントなのです。
(4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳です。「心の貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではありません。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」と受け取ったらよいかもしれません。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのだと考えればよいでしょう。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳の前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になるかもしれません。また、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調しています。
(5) マタイの後半の四つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切であるはずです(ちなみにルカでは別の発展がみられますが、今回は触れることができません)。
2005年01月23日
マタイ4・12‐23 (2005/1/23年間第3主日)
【教会暦と聖書の流れ】
きょうの箇所はマタイ福音書の、いわゆる宣教開始の場面です。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔からの誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。きょうから11月まで、年間主日のミサでは、マタイ福音書の朗読が続きます(途中に四旬節・復活節の大きな中断がありますが)。
きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8・23‐9・1は、主の降誕・夜半のミサでも読まれた箇所です。降誕節の余韻として「エピファニア(神の栄光の現れ、光・輝き)」のテーマが続いているとも言えるでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエス自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤは、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にもエルサレムの神殿と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7・52)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28・16)。見捨てられた暗闇の支配する場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会える場所。わたしたちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。
(2) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介し、二人が唯一の神の一つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。二人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11・11「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのような現実を指しているのでしょうか。
(3) イエスが最初にしたことは弟子を作るということでした。これも福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28・19)というものでした。マタイ福音書にとって、イエスの活動全体が「弟子作り」の活動だったと言ってもよいのでしょう。
「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味のことばが使われています。一方「従う」と訳された「アコリュセオー」というギリシャ語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。それはもちろん、司祭や修道者だけの問題ではありません。わたしたちキリスト信者すべてがイエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。
(4) この箇所で、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく、というのは少し乱暴ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスのことばと行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然です。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえないでしょう(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5・1‐11、ヨハネ1・35‐42)。
普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生に弟子入りを願うものでしょう。しかし福音書では、先生であるイエスが弟子を選ぶということが特徴的に描かれています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということになりますが、神の選びは優れた人間を選ぶのではありません。もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするのが神の選びです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1・26‐31参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)と言われていました。
「すぐに」ということ、「何もかも捨てて」ということが弟子の理想として描かれていますが、自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれません。ただわたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないでしょう。
2005年01月16日
ヨハネ1・29-34 (2005/1/16 年間第2主日)
【教会暦と聖書の流れ】
「年間主日」のミサの福音は福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。三年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになったわけです。
ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1・1-18)のあと、イエスの活動のはじまりを最初の六日間の出来事として伝えています(1・19~2・11)。それは創造の六日間(創世記1章)を思い起こさせるものです。イエスによって「新しい創造」とも言える神の業が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに降誕節の「エピファネイア(公現)=イエスの栄光の現れ」というテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。
【福音のヒント】
(1) ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも、1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。
(2) 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みのことばですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
(a) 過越の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
(b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53・7には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」ということばがあります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所でしょう。
(c) 犠牲動物としての小羊 その他、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいるのです。
ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとっても「神の小羊」は意味不明のことばだったはずです)。イエスについて説明して頭で理解するよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが大切なのではないでしょうか。
(3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、神はいつもおられる、と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指したことば(空間的な表現)ですが、古代の人はそのことばを用いて日常生活の空間を超えたものを表そうとしたました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。1・18で「父のふところにいる独り子である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
わたしたちの信仰は、わたしたちのいのちを「目に見えるものだけ、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときかもしれません。それ以外の場面でも感じることができるでしょうか。
(4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシャ語は「バプティスマ(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水に沈めていました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここには、イエスが聖霊(神のいのち、神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
ある人は「洗礼を授ける(バプティゾー)」を「漬ける」と訳します。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるとはどういうことでしょうか。
2005年01月09日
マタイ3・13-17 (2005/1/9 主の洗礼)
【教会暦と聖書の流れ】
降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、そこには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。
同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。
【福音のヒント】
(1) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3・2と4・17)というまったく同じことばで紹介しています。きょうの箇所でもイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々(ヨハネとイエス)にふさわしいことです」と言います。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスの共通性を強調していると言えるかもしれません。二人は神の1つの計画の中にいるのです。
(2) 洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こったことです。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降り、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた。
(a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63・19には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」ということばがあります。
(b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるということを表すイメージです。
(b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1・10-11)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3・21-22)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声は「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。この出来事は、洗礼者ヨハネはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなのです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を自覚したという面の両方があると考えたらよいでしょう。
(3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばの背景には、イザヤ42・1以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。
「1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。3 傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシャ語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味することばです。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味することばですが、イメージの上ではつながっています。つまり、この「愛する子」ということばには、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。
(4) 「あなたはわたしの愛する子」このことばは、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られていることばだと言えます。わたしたちの洗礼はそのことを意味しています。
「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。ペンテコステは「五旬祭」の意味ですが、イエスの復活後50日目のペンテコステの日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音宣教の活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣)」と結びついています(新約では、ルカ1・30-35、ヨハネ20・21-22などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられるのです。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。
「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。
(5) イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともに回心のしるしである洗礼(バプティスマ)を受けました。そこにイエスの、罪人である人間との深い連帯性を見ることもできるかもしれません。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照。バプティスマの元の意味は「水の中に沈めること」です)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできそうです。
2005年01月02日
マタイ2・1-12 (2005/1/2 主の公現)
【教会暦と聖書の流れ】
公現の祭日は本来は1月6日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシャ語では「エピファネイアepiphaneia」で「現れること」です。イエスにおいて神の栄光が現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。
福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。
【福音のヒント】
(1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったのでしょう)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。
(2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承があったのでしょう。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文に基づく新共同訳のミカ5・1はこうなっています。
「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。
(3) ヘロデは紀元前37~4年、パレスチナを王として支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたのでユダヤ人からは正当な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2・16-17)。
「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、このように「王」のイメージがつきまといます。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません。
(4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを考えてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
(5) 「拝む」という日本語はほとんど死語かもしれません。ギリシャ語の「プロスキュノー」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使10・25)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられることばです。「黄金、乳香、没薬」にそれぞれシンボリックな意味を見ることもできますが、敬意を表す贈り物と考えればよいでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
(6) 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる日本人が、正月には突然のように神社仏閣にお参りしたり、初日の出を拝んだりするのは、何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」ということはできません。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものだと言えるでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちとすべての人のつながりを感じることができるでしょうか。
2004年12月26日
マタイ2・13-15,19-23 (2004/12/26 聖家族)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの後の主日は聖家族の祝日です。この日、イエスの子どものころの家庭生活に思いを馳せます。伝統的にイエス、マリア、ヨセフの家族は「聖家族」と呼ばれ、わたしたちの家庭の模範のように考えられてきました。今年の福音の箇所はマタイ福音書で、ヨセフと家族がエジプトに逃れる話ですが、この話はマタイだけが伝えるものです。次の日曜日「主の公現」の福音はマタイ2・1-12で順序が逆になりますが、今日の箇所とつながっています。
【福音のヒント】
(1) ヘロデ王がベツレヘムで生まれた幼子を自分の地位と権力を脅かす存在と考えて抹殺しようとしたので、ヨセフはイエスとマリアを連れてエジプトに逃れました。エジプトでの聖家族は、今で言えば「難民」です。難民の問題は20世紀に膨大な量で発生しました。わたしたちの周りにもさまざまな理由で国を追われたり、故国に帰ることができない人々がいます。その人々とエジプトでの聖家族の姿を重ね合わせてみたときに、どんなことが見えてくるでしょうか。
(2) 2・15「それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」2・23「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」マタイ福音書は幼子イエスの身に起こったことを、旧約の預言の成就と見ています。
15節はホセア11・1の引用です。ホセアは紀元前8世紀の北イスラエルの預言者です。エジプトからイスラエルの民を導き出し、民の数々の罪にもかかわらず、決して民を見捨てることのできない神の愛について語る美しい箇所です。
23節の「ナザレ」という地名は旧約聖書には見当たりません。「ナザレの人」は「ナジル人」を連想させることばです。ナジル人とは神に身をささげる特別な誓願を立てた人のことです(民数記6章参照)が、特に有名なのはサムソンです。彼の誕生のとき母親に対してこう告げられました。「あなたは身ごもって男の子を産む。その子は胎内にいるときから、ナジル人として神にささげられているので、その子の頭にかみそりを当ててはならない。彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」(士師記13・5)。
「ナザレ」という名はまたヘブライ語の「ネセル(若枝)」をも連想させます。イザヤ11・1ではこう言われています。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」エッサイはダビデ王(紀元前1000年頃)の父親の名前です。イザヤは来るべきメシア(ダビデ王の再来である救い主)についてこう預言しました。いずれにせよマタイは、「ナザレの人」であるイエスこそが救い主の到来という人々の希望と神の計画の実現なのだと受け取っていることになります。
「預言の成就」ということは、ただ単に「この幼子が救い主であるという証拠」というわけではありません。むしろ現実に起こるさまざまな出来事を神の救いの計画の実現として見るという見方です。わたしたちの中にも、自分の人生を振り返ってみるときに、そこに神の計画を感じたことがあるのではないでしょうか。自分の生涯の中で聖書のことばが実現してきたと感じられたこともあるのではないでしょうか。
(3) 家族と一緒に過ごす人も、そうでない人も、多くの人が家族のことを思う年末年始を迎える時期に「聖家族」を祝うことは意味深いことです。しかし、聖家族を模範として仰ぎ見れば見るほど、自分たちの現実の家庭とのギャップを感じてしまうという人も少なくありません。きょうの福音やイエスの家庭についての福音書の他の箇所から、わたしたちは自分の家庭生活にどんな光をいただくことができるでしょうか。
イエス、マリア、ヨセフの家庭は決して平穏無事で何の問題もない家庭ではありませんでした。旅先の家畜小屋のような場所での出産、幼子の命を狙う陰謀と、それを逃れるための難民生活、親と子の考え方の相違(特にルカ2・41-50にある12歳の少年イエスのエピソード)。聖家族も多くの問題に直面していたのです。
わたしたちの間にも厳しい問題に直面している家庭がたくさんあります。それは病気や経済的な問題だけでなく、何よりもお互いの心が通じあわないという問題でしょう。その背景には次のような問題もあるのではないでしょうか。「現代の消費社会は欲望と競争の原理の上に成り立っていて、わたしたちは皆、自分の努力で自分のほしいものを獲得するという世界に生きている。一方、家族には、自分がどんなに努力しても自分の思い通りにならない面がある。そこで、家族としてもっとも大切な『無条件にあなたがいてくれてうれしい』というメッセージがお互いに、特に子どもに伝わっていない」「家族が孤立している。特に都会では、地域社会や親戚との関わりも薄い。育児や家族内の人間関係のトラブルをどこにも相談できずに煮詰まってしまう」「社会の中にある暴力的な雰囲気が家族の中にも侵入してくる。家庭の外で大きなストレスを受けている人が、家庭の中で暴力という形でそのストレスを爆発させてしまう」などなど。
聖家族とは、それでもこの現実の中に神がともにいてくださることを見失わないで生きようとする家族だと言ったらよいでしょう。イエスはわたしたち人間の一員となり、わたしたちと同じように家族の一員となられました。もし、わたしたちが、自分の家庭にイエスを迎え入れれば、わたしたちの家庭も聖家族だと言えるのでしょう。ドメスティック・バイオレンスや児童虐待のことを考えると家族を絶対視するのも問題ですが、あきらめずにもう一度チャレンジしてみることはできないでしょうか。親が子どもを祝福することを! 夫婦がことばと行動で互いの愛を確認しあうことを! 家族で一緒に祈ることを!
2004年12月19日
マタイ1・18-24 (2004/12/19 待降節第四主日)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの直前の主日には、直接イエスの誕生に関係する箇所が読まれます。今年の箇所はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面です。
マタイ福音書は「イエス・キリストの系図」として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えます(1・1-17)が、16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。
【福音のヒント】
(1) 19節の「ヨセフは正しい人であったので」と「ひそかに縁を切ろうと決心した」はどのようにつながっているのでしょうか? 2つのことが考えられます。
1つは、マリアへの思いやりに満ちた態度の中にヨセフの「正しさ」を見る見方です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかない、しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとした、ということ。
もう1つは、神への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と見る見方です。ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の介入を感じた、そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした、ということ。この考えは、20節の「恐れずに」ともよく合います。
(2) 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」(21節)。「イエス」は旧約聖書の「ヨシュア」と同じ名前で、ユダヤ人の間によくある名前ですが、マタイ福音書はこの「イエス」という名の中にも意味を見いだしています。「ヨシュア(イエス)」は「主は救い」「主は救う」という意味なのです。
上の21節のことばは、23節で引用されるイザヤ7・14「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」によく似ています。この預言の言葉がイエスにおいて実現したとマタイは見ています。ここで「おとめ」と訳されたことばは、ギリシャ語(マタイ)では「パルテノスparthenos」ですが、元のヘブライ語(イザヤ)は「アルマー」です。パルテノスは「処女」を意味しますが、「アルマー」は単に「若い女」を意味することばです。もちろんイエスの誕生物語を伝えるマタイも、ルカも「パルテノス」を「処女」の意味で受け取っています。
マリアが処女でイエスを身ごもった(いわゆる「処女懐胎」)ということにはどんな意味があるのでしょうか。そこにマリアの「清らかさ」を見てきた伝統があります。しかし、ルカもマタイも共通して強調しているのは、それが「聖霊による」(マタイ1・18、20、ルカ1・35)ということです。マリアは人間的には子どもを産むことができないはずですが、そのマリアから子どもが生まれる。そこに、人間の無力さと、その中に働く神の力の対比があざやかに示され、その子どもの誕生(救い主の到来)が人間の力によるのではなく、神の力(聖霊)によるのだということが強調されているのです。
(3) イエスは新約聖書の他の箇所で一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。マタイは「インマヌエル」をイエスの「呼び名」ではなく、イエスの「本質を表す名」だと言っているのです。「インマヌエル」はヘブライ語で、「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共にいる神」の意味です。マタイ福音書はこの「インマヌエル」から始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・20)という約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」というのが福音書全体のテーマだと言ってもよいかもしれません。
(4) わたしたちはクリスマスを2000年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません。救い主の誕生(到来)という出来事が今も生きていることを祝うのです。「インマヌエルであるイエス」をわたしたちはどこで見いだすことができるでしょうか。
マタイ福音書からヒントを探してみましょう。
(a) 18・20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
キリストが信じる者の集いの中にいるという約束です。特に日本のような、周囲を見回してもキリスト信者がほとんどいないような社会の中で、誰かが一緒にいてくれる、支えあいながらキリストの弟子の道を歩んでくれる仲間がいる、ということは大きな励みでしょう。
(b) 26・26-28「取って食べなさい。これはわたしの体である」「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
パンとぶどう酒の形の聖体の中にいるという約束、これも2000年にわたって数知れない多くのキリスト信者を支え、励ましてきたことでした。それは特に困難や苦しみの中で感じられる支え・励ましかもしれません。キリストの死と復活を思い起こし、それに結ばれる。キリストと一つになり、キリストを中心として人と人とが一つになる。聖体の前で一人静かに祈る中でイエスに出会う。そういう体験がありますか。
(c) 25・40「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
日々出会う人々、特に助けを必要としている人の中にイエスはいる、これもとりわけ現代世界の中で大切なことでしょう。マザーテレサのように、もっとも貧しい人との出会いの中にキリストとの出会いがある、という体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
2004年12月12日
マタイ11・2-11 (2004/12/12 待降節第三主日)
【教会暦と聖書の流れ】
先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はイエスです。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、が示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」とも言われてきました。待降節は、英語で「Adventアドベント(到来の意味)」ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。
【福音のヒント】
(1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3・14参照)。それなのになぜ、このきょうの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられて、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、イエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、いう考えです。
もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思ったのではないか。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスのイメージが大きく違っていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネのイメージは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネはイエスの実際の活動を見聞きして、それが自分の考えるメシアのイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。
(2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業」とも訳せますが、それはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行っていた行為」という意味にも取れます。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせます。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。特に次の箇所が思い浮かびます。
イザヤ35・5-6「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
イザヤ61・1 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/
捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」
(3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人ではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれているのだ、と考えたらよいと思います。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのと反対の状態です。
ルカ4・16-21でもイエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」ということばをご自分にあてはめています。イエスの使命、イエスがもたらしたものを簡潔に表すことばだと言ってもいいかもしれません。わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか。
(4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは待降節の大切なテーマです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。この幼子の誕生は貧しい人に何をもたらしたのでしょうか。
イエスによって実現したこと(キリストの業)は、単なる病気の治癒ではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと。
2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと。
3. 人の心に、信頼と希望と愛が生まれること。
そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。
(5) イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(11節)と言います。それは、ヨハネが神の国の「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共に「まったく新しい救いの時代が始まっている」のです。
わたしたちはこの「もうすでに始まっている神の国(支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神の国(支配)を生きるわたしたちだからこそ、世の終わりの、人生の終わりのときの、救いの完成への確かな希望を持つことができる、と言えるのではないでしょうか。
2004年12月05日
マタイ3・1-12 (2004/12/5 待降節第二主日)
【教会暦と聖書の流れ】
待降節(英語ではアドベント、本来の意味は「到来」)の第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。
【福音のヒント】
(1) 洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られることば」を告げます。
彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40・3の引用ですが、福音書は原文を少し変えています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1・8に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野のなかでかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。ヨハネは典型的な預言者だったのです。
(2) 洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め=回心=メタノイア」でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が今、回心しなければならないのです。しかし逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、というメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子孫を造り出すことがおできになる。9節)。そして、その回心のしるしが「洗礼(バプティスマ=水に沈めること)」だったのです。
そして同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことです(ルカ3・11-14参照)。
(3) ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えています。「洗礼を授ける」のギリシャ語は「バプティゾー」で、本来の意味は「沈める、浸す」です(ヨハネの洗礼は、ヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というのは、神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める、という意味だと言ったらよいでしょう。
しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか? この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)ということばがあります。「箕」はもみ殻と麦粒を分けるための農具です。麦の実とその殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。
一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面がありますが、イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「愛と喜びに包まれた待望の時」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。
(4) 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書は、洗礼者ヨハネとイエスのメッセージをまったく同じことばで伝えています(4・17参照)。どちらも切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけています。「悔い改め、回心」の原語の「メタノイア」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」ことなのです。
ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあると言えるでしょう。イエスは父である神の、愛のバシレイア(国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」というのです。
待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面。それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切です。この「日々の到来」についてはわたしたちの姿勢が問われます。わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々の到来(アドベント)は受け取れません。その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにも切実な呼びかけではないでしょうか。
2004年11月28日
マタイ24・37-44 (2004/11/28 待降節第一主日)
【教会暦と聖書の流れ】
クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第一主日から新しい年になります。3年周期の主日のミサの朗読配分ではA,B,C年のうちA年にあたり、福音は主にマタイ福音書が読まれていきます。
「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、ラテン語はADVENTUS(英語ではアドベントadvent)で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節の福音朗読は、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」ということばから始まります。
【福音のヒント】
(1) 「人の子」はダニエル7・13に基づく表現で、神が最終的に天から遣わす方を表します。新約聖書では「人の子の到来」は、天に上げられたイエスが世の終わりに再び来られることを意味しています。人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの福音の箇所では、この「裁き」の面が強調されています。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13・8)ということばがありますが、神の裁きには「愛に反するものはすべて滅ぼされる」という面があるのです。「愛に反するものが滅ぼされる」というのは「愛に反する人が滅ぼされる」というよりも、「わたしたちの中の愛に反する部分が滅ぼされる」と受け取ることもできます。Ⅰヨハネ3・2の次のことばが参考になるでしょう。「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」
(2) 「ノアの時」は創世記6章から始まる有名な洪水物語のことです。人の子の到来の時(裁きの時)は人が考えていないときに突然やってくるということが強調されています。きょうの箇所の直前に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24・36)ということばがありましたが、内容的にそれとつながっています。「思いがけない時に来る」ということは43-44節でも繰り返されるテーマです。人にはいつ来るか分からない、ということだけでなく、来るということさえ意識していないということもあります。その中で「いつか確実に来るのだ」ということも強調されています。
「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40-41節)は、人の目にはまったく同じように見える人間が、神の裁きの目から見るとまったく違う評価を受ける、ということです。神の裁きは人間の常識では推し量ることができません。人間が勝手に神の裁きを想像して、自分で自分を裁いたり、他人を裁くこともできないのです。
(3) 「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか。泥棒を警戒するように「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ことでしょうか? 43節のたとえから考えるとそうなってしまいそうですが、それがわたしたちに求められている生き方だとは到底思えません。あるいは、「この世のことよりも終わりの時の裁きのことを考える」ということでしょうか? 最終的な神の裁きのことばかりを思うことには落とし穴があります。それは、今の生活がどうでもよくなり、現実の目の前の人間の苦しみや社会の不正に目を閉ざしてしまう危険です。実は、きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていないのです!
マルコ福音書13章は「目を覚ましていなさい」という警告でイエスの長い終末についての説教を結んでいますが、マタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、この説教を24・45~25・46まで大きく拡大しています。この部分は4つの話からなっていて、この4つの話はすべて「目を覚ましている」とはどういうことかを語る話だと言えます。それは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしている」(24・46)ことであり、「ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っている」(25・4)ことであり、「預かったタラントンを用いて、ほかのタラントンをもうける」(25・16-17)ことなのです。とはいえ、ここまでの3つの話はすべてたとえ話で、これらのたとえが何を意味しているか、本当に「目を覚ましている」こととは何なのか、ということは25・31-46になってはじめて明らかにされるのです。そこまで読まなければ、「目を覚ましている」ということは分からないようになっているのです!(ちなみにマルコやルカの福音書を読むと違う面が見えてきますが、今回は触れることができません)
(4) マタイ25・31-46は、飢え、渇き、旅人であったり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人に助けの手を差し伸べること、「わたし(キリスト)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」という箇所です。マタイ福音書の中で「目を覚ましている」とはどういうことか、と言えば、ここにもっとも明快な答えがあります。
「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」と言ったらよいでしょうか。あるいは、「出会う一人一人の人の中にキリストを見いだすこと」「苦しむ人、虐げられている人を通してキリストに出会うこと」と言うこともできるかもしれません。今年の待降節を迎えたわたしたちにとって、「目を覚ましている」どういうことでしょうか?
投稿者 ct : 13:17 | コメント (949)