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2005年12月25日

主の降誕・夜半のミサ(2005/12/25 ルカ2・1-14)

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 今年は12月25日が日曜日にあたり、主日に降誕祭を祝うことになります。主の降誕の祭日のミサには早朝や日中のミサもありますが、ここでは「夜半のミサ」の福音を取り上げます。ルカ福音書だけが伝える、イエスが誕生した夜の物語です。
 この箇所の前半(1-7節)はローマ帝国の支配に翻弄された貧しい家族の中で1人の男の子が誕生する物語で、後半(8-14節)でその子の誕生の意味が解き明かされます。

福音のヒント

   (1) 1-2節で、ルカは歴史家のように皇帝や総督のことを述べますが、同時にこれは、当時の世界で圧倒的な力を持っていたローマ帝国の支配地域の片隅に生まれたこの赤ん坊こそが、実は「すべての人のメシア(王)である」という対比を印象づけようとしているのでしょう。紀元前63年ローマのポンペイウス将軍がパレスチナを占領して以来、ユダヤ、サマリア、ガリラヤなどの地方はローマの植民地になっていました。ローマは傀儡(かいらい)政権であるヘロデ王家を立て、ユダヤ人の宗教的な自由を認めつつ、植民地の住民に税金をかけることによって利益を得ていました。この税を徴収するために行なわれたのが「住民登録」でした。身重のマリアを連れたヨセフは、このローマ皇帝という強大な支配者に振り回され、苦しい旅を強いられたのです。

 (2) 「ベツレヘム」(4節)はダビデ王の出身地で、こう預言されていました。「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5・1)。
 7節の「初めての子」は、後にも子どもが生まれたことを意味していません。「長子」としての特別な権利を持った子どもとしてイエスが生まれたことを表しています。「飼い葉桶」はイザヤ1・3「牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない」を背景にしているとも言われます。「宿屋」と訳された言葉は「宿をとるところ」の意味で、大きな家の客間も指す言葉です。「彼らの泊まる場所がなかったからである」は直訳では「彼らのために場所がなかったからである」です。

 (3) 「羊飼い」はイスラエルの人々にとって馴染み深い職業でした。先祖は皆、羊飼いでした。ダビデ王も若いとき羊飼いであり(サムエル上16・11)、さらに神ご自身が羊飼いにたとえられました(詩編23など)。そういう意味で「羊飼い」をプラス・イメージで捉えることもできるでしょう。しかし、逆にマイナス・イメージもあります。イエスの時代、多くのユダヤ人は町や村に定住するようになっていました。その人々から見れば、羊飼いというのは「流れ者、野宿者」であり、ほとんど罪びとと大差ない連中と思われていました。彼らも「自分のために場所がない」と感じていた人々といえるかもしれません。
 「自分のために場所がない」と感じることはとてもつらいことでしょう。身近にそう感じている人はいるでしょうか。わたしたち自身もそう感じることがあるでしょうか。
 この羊飼いたちに、救い主誕生の知らせがもたらされます。彼らに示されたしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というものでした。きょうの箇所を特徴づける「貧しさ」は、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)という福音のメッセージにつながっていると言えるでしょう。

 (4) 「主の天使」「主の栄光」(9節)は神がそこにおられ、人間に語りかけることを表しています。羊飼いたちに告げられた天使の言葉(10-12節)のうち、「民全体」は直接には「イスラエルの民全体」を指す言葉ですが、ここにルカは「神の民となるすべての人」の意味を込めているようです。「大きな喜びを告げる」の「告げる」は「福音を告げる」という言葉が使われています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」の「今日」は、ルカ福音書では特別に、「救いが実現している時である今」を意味しているようです(4・21, 19・5,9, 23・43など参照)。

 (5) 14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」の「御心に適う」はギリシア語では「エウドキアeudokia」という言葉です。「エウ」は「良い」という意味で、「ドキア」は「思う」という動詞から来ています。「良く思うこと=好意」が元の意味ですが、聖書の中では特別に「神がお喜びになること」を意味します。「神がお喜びになる人」「御心に適う人」とは誰のことでしょうか? 「神はすべての人に好意を向けているはずだ」と考えれば、誰かを排除する言葉ではなく、すべての人を指していると受け取ることもできるでしょう。なお「御心に適う人」は「善意の」と訳されたこともありましたが、その場合「神のよい思い」ではなく「人間のよい思い」の意味になってしまいます。「平和」は単に争いのない状態ではなく、神の恵みに欠けることのない(それゆえ争いがない)状態を指します。ルカ19・38では「祝福、平和、栄光」がセットになっていますが、これらは別々のことではなく、密接につながっていると考えたらよいでしょう。降誕の夜は、そのすべてに満たされる時なのです。
 貧しく無力な人々に近づくために、イエスは貧しく無力な幼子の姿で世に来られました。救い主が誕生しても、この人々の現実が変わるわけではありません。しかし、マリアとヨセフと羊飼いたちは、この幼子の中に神の救いの約束の実現を見て、喜びに満たされました。わたしたちはこの幼子の中にどんな喜びを見つけることができるでしょうか。

投稿者 ct : 15:38 | コメント (0)

2005年12月18日

待降節第4主日(2005/12/18 ルカ1・26-38)

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クリスマスの直前の日曜日には、イエスの誕生に直接関係する出来事が読まれます。今年(B年)の箇所はルカ福音書1-2章のイエスの誕生と幼年時代の物語から採られた、いわゆる「受胎告知」(あるいは「お告げ」)の場面です。イエスを身ごもったマリアという一人の女性の中に、神の救いの働きがもう始まっているのです。

福音のヒント

    (1) 28節は「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りの冒頭に引用されている大切な言葉です(「マリア」という固有名詞は聖書本文にはなく、後の時代に付け加えられました)。
 「おめでとう」のギリシア語「カイレchaire」は直訳では「喜べ」ですが、一般的なあいさつの言葉として用いられていました。ゼカリヤ9・9やゼファニヤ3・14のギリシア語訳(七十人訳)にもこの言葉が使われています。このゼカリヤ書の箇所は有名な箇所です(日本語訳では「カイレ」が分かりにくいのですが・・・)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」これは救いの到来を預言した言葉で、イエスのエルサレム入城にあたって引用される箇所です(マタイ21・5など)。シオンはエルサレムの神殿のある丘の名前で、「娘シオン」「娘エルサレム」はエルサレムの町全体(あるいはその住民)を指しています。旧約の預言との関連から考えると「カイレ」は、単なるあいさつではなく、旧約の民が長く待ち望んでいた神の救いが、今、実現していることを感じさせる「喜べ」なのです。
 「主があなたと共におられる」は、旧約のギデオンが士師として召し出されるときに天使から告げられた言葉です(士師記6・12)。神ご自身が人間に向かって「わたしはあなたと共にいる」というのも、モーセや預言者たちの召命の場面によく見られる表現です(出3・12、エレミヤ1・8など)。どちらも弱い人間が神の救いの道具として選ばれるときに与えられる神の力強い助けを約束する言葉であり、ここでもマリアに特別な使命が与えられることが暗示されています。

 (2) 同じ28節の「恵まれた方」は、原文では「ケカリトーメネーkecharitomene」で、文法的には「完了形受動分詞」です。完了形には「以前からずっと恵まれていて今も恵まれている」というニュアンスがあるので、「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義につなげて考えることもできます。また、この完了形にはただ単に「恵まれた方」以上の強い意味があるとも考えられ、ラテン語ではgratia plena(「恵みに満ちている」という意味) と訳されています。日本語のAve Mariaの「聖寵満ちみてる」(文語)、「恵みあふれる」(口語)は同じ解釈から来ています。

 (3) 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」は「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14、マタイ1・23)とよく似た表現です。この「おとめ」はヘブライ語では「アルマー」で、単に「若い女」を意味する言葉ですが、古代のギリシア語訳では「処女」の意味がある「パルテノスparthenos」と訳されました。イエスを身ごもったマリアが処女であったことについてはさまざまな解釈がありますが、処女とは、単純に「子どもを産むことができない女」と考えてもよいのではないでしょうか。高齢のエリサベトが子どもを身ごもったのも神の働きですが、男を知らないマリアが身ごもることはまったく人間の力ではなく、完全に神の力によることです。救い主イエスの到来は人間の力によって実現するのではなく、「聖霊」=「いと高き方の力」(35節)によってもたらされる神の恵みの出来事なのです。
 
 (4) 「なりますように」と訳された言葉はギリシア語では「ゲノイトgenoito」です。ラテン語では「フィアットfiat」と訳され、ある英語訳では「Let it be」と訳されて、多くの人に親しまれてきた言葉です。これは信仰者の模範としてのマリアの姿をもっともよく表わす言葉だと言えるでしょう。
 マリアにとって、天使のお告げを受け入れることは決して簡単なことではありませんでした。この時点でマリアの妊娠を知ったヨセフがマリアを受け入れてくれるという保証はありません。常識的には婚約は破談になり、マリアはシングル・マザーにならなければならないところでしょう。それでもマリアは神の言葉を受け入れ、自分を神の言葉にゆだねました。マリアにとって、神の言葉は自分と関係ないどこかで実現するのではなく「この身に(わたしに)」実現するのです。主の祈りの「み心が行なわれますように」やゲツセマネの祈りの「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)も思い出すことができます(ラテン語では「行われますように」はいずれもfiatです)。
 わたしたちにも「フィアット」と心から祈ることがあるのではないでしょうか。 

 (5) 神はマリアの受諾を必要としたのでしょうか。マリアに何も告げなくとも(あるいはマリアが断ったとしても)救い主を産ませることはできたかもしれません。しかし、神は天使をとおしてマリアに語りかけ、マリアが自由に応えることを求めたのです。神の救いを「握手」のイメージで考えると良いかもしれません。神の救いの手は人間に差し伸べられています。マリアはそれに応えて自分の手を差し出し、そこで初めて「握手」(本当の意味での救い)が成り立つのです。そういう意味では、このマリアの受諾から救いの時代が始まっていると言ってもよいでしょう。わたしたちは神の差し出される手(神のことば)にどのように応えているでしょうか。

投稿者 ct : 10:18 | コメント (0)

2005年12月11日

待降節第3主日(2005/12/11 ヨハネ1・6-8,19-28)

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先週のマルコ1・1-8と同様、洗礼者ヨハネのことが読まれますが、きょうの箇所はヨハネ福音書から採られています。
 待降節は「愛と喜びに包まれた待望の時」(「典礼暦年に関する一般原則」39)と言われますが、特にこの第三主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれ、救い主が確かに来られる、もうそこまで来ておられるという喜びの雰囲気をもって祝われます。

福音のヒント

 (1) ヨハネ1・1-18はこの福音書の「序文」と言われますが、6-8節はその中から採られています。ヨハネ福音書のはじめはこうなっています。
 「1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
 「言(ことば)」はギリシア語で「ホ・ロゴスho logos」(hoは冠詞)と言います。この「ホ・ロゴス」とは何でしょうか。昔からいろいろな人がいろいろな解釈をしてきましたが、やはり「光あれ」という言葉で創造のわざを始められた神の言葉のイメージが大切です(創世記1章参照)。「言」とは無からすべてのものをお造りになった「神の力強い働きかけ」そのものだということができるでしょう。そして、1・14には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。「肉」は人間のことですが、「滅び行く、弱いものとしての人間」を指す言葉です。神の力強い働きかけが、一人の弱く、滅び行く生身の人間となったというのです(このヨハネ1・1-18は「主の降誕・日中のミサ」で読まれる福音です)。
 きょうの箇所はそのイエスの登場、すなわち「世に来てすべての人を照らす光」であるイエスを証しし、指し示す人として洗礼者ヨハネを伝えています。

   (2) 序文のあと、1・19から福音書の物語が始まりますが、そこでの洗礼者ヨハネについての見方も同様です。ヨハネ福音書は他の福音書と違ってヨハネの生活や活動についてまったく伝えませんし、イエスがヨハネから洗礼を受けたという出来事さえ伝えません。この福音書では、ヨハネは「わたしはメシアではない」と公言し、「わたしは・・・声である」と宣言します。他の福音書も「荒れ野に叫ぶ者の声」というイザヤ40・3を引用してヨハネの登場の意味を語りますが、ヨハネ自身が声であると明言するのはヨハネ福音書だけです。ヨハネ福音書にとって、洗礼者ヨハネはあくまでも「イエスを指し示す人」なのです。
 先週に続き、きょうの福音でもイエスは「後から来られる方」として予告されているだけで、直接は登場していません。しかし、本当のテーマは「イエスご自身」です。待降節の福音の箇所は、洗礼者ヨハネを見つめるためではなく、ヨハネが指し示した、来るべきイエスに心を向けるために選ばれている箇所なのです。

 (3) 「証しする」という言葉は深く受け取りたい言葉です。日本語では「証言する、証人となる」と訳したほうが具体的なイメージが湧くかもしれません。それは単に言葉で自分の考えを述べる、ということではありません。ある事件の証人とはその出来事を確かに見たり経験したりした人を意味します。自分が「見たこと、経験したことを語る」のが「証言する」ということなのです。洗礼者ヨハネは何らかの仕方で神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのでしょう。
 「証しする」のは言葉だけではないはずです。「キリストの証人となる」というとき、いくら言葉で語っても伝わらないと感じることが多いでしょう。もちろん、「わたしはこのような体験の中でイエスを知った、イエスの愛を感じた」というような言葉には力があります。しかし、もっとも力強いのは、イエスと出会って人が変えられた(救われた)、ということがその人の生き方の中に表れるときではないでしょうか。教会の「殉教者」という言葉の原語は、もともと「証しする人」の意味でした。殉教者とは、言葉よりもその生涯と死をとおして、キリストを証しした人々なのです。キリスト教は、難しい神学ではなく、言葉と生き方による「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。わたしたちにとってイエスを証しするとはどういうことでしょうか?

 (4) ヨハネは「光について証しをするため」(1・7,8)に来ました。そして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(1・9)と言われます。
 「闇の中に光が輝く」ということは、待降節~降誕節全体を貫くテーマです。待降節と降誕節は「苦しみの季節」と「喜びの季節」と言った別々のテーマではなく、この一つのテーマが別の面から取り上げられていると考えたらよいのではないでしょうか。待降節は「わたしたちの救われていない部分、闇に覆われている部分、救いを必要としている部分」から救い主を見つめていきます。これは誰の中にもある面でしょう。そして、降誕節は「その闇の中にもうすでに輝いている、小さな、しかし確かな光」である幼子イエスを見つめるのです。これもわたしたちがどこかで経験していることではないでしょうか。
 クリスマスが来ても、わたしたちの闇が、苦しみが、問題がなくなるわけではありません。それでも「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光に打ち勝たなかった」(1・5。後半は新共同約とは別の訳)。クリスマスが冬至の季節に祝われるのもそのことと関連があるようです。寒い冬は確かに続いている。しかし、もう光の時が闇の時よりも長くなり始めているのだ。古代の人々が感じたこの喜びをわたしたちも感じとれるでしょうか。

投稿者 ct : 16:57 | コメント (25)

2005年12月04日

待降節第2主日(2005/12/04 マルコ1・1-8)

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 毎年、待降節第2・第3主日のミサの福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表(その最後の人)だと言えるでしょう。大切なのは、洗礼者ヨハネを見つめることではなく、ヨハネが指し示した来(きた)るべき方=イエスを見つめることです。きょうの箇所にはまだイエスが登場しませんが、わたしたちにとって「イエスの到来」は2000年前にすでに起こったことです。教会の暦と朗読配分は、その到来の意味を待降節・降誕節全体をとおして味わうよう招いているのです。

福音のヒント

  (1) 「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1)は、「神の子であり、キリストであるイエスの福音の初め」とも訳すことができます。新共同訳聖書は、ギリシア語の「クリストスchristos」が称号として用いられているときは「メシア」、イエスを指す固有名詞のように用いられているときは「キリスト」と訳し分けていますが、キリストもメシアも「油注がれた者」という意味の言葉で、「神から特別な使命を与えられ遣わされた方=救い主」を指します。1・1はマルコ福音書の冒頭の言葉ですが、福音書全体のテーマを表す言葉だとも言えるでしょう。この福音書はイエスが「神の子」であり、「キリスト」であるということを伝えようとしています(8・29、15・39参照)。そして、マルコがそのことを伝えるためにとった方法は、ヨルダン川での洗礼に始まり、イエスがどのように歩まれたかを物語ることでした。十字架の死に至るイエスの歩みをていねいに見つめれば、イエスが「神の子、キリスト」であることが分かると言いたいかのようです。
 
  (2) 「イエスの福音の初め」と言いながら、マルコはまず最初に旧約聖書の2つの箇所を引用し、洗礼者ヨハネの活動を伝えます。「預言者イザヤの書に」と言いますが、実際には後半だけがイザヤ40・3から採られた言葉で、前半はマラキ3・1の引用です。マルコは洗礼者ヨハネの活動を単なる人間の活動ではなく、洗礼者ヨハネの登場そのものを神が昔から準備していたこと(神の計画)と見ているのです。そして、ヨハネとイエスはこの同じ神の計画の中にいるのです。そういう意味では「イエスの福音」は洗礼者ヨハネとともに始まっていると言えるのでしょう。なおここで「イエスの福音」とは「イエスが告げ知らせた良い知らせ」(マルコ1・14参照)だけでなく、「イエスの到来、活動、生涯すべてを通して告げられた神からの良い知らせ」という意味になります。

  (3) 洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。「洗礼(バプティスマ)」の元の意味は「水に沈めること」「水に浸すこと」です(洗礼者ヨハネの洗礼も古代のキリスト教の洗礼も人の全身を水の中に沈めるものでした)。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、神から離れている古い自分に死んで、神によって生きる新たないのちに生まれ変わることを意味していました。そういう意味で、洗礼者ヨハネにとって「洗礼」は「悔い改め(回心)」のしるしだったのです。
 ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め」ていたのは列王記下1・8に伝えられる預言者エリヤの姿と同じです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」にいて、「いなごと野蜜を食べ」ていました。つまりほとんど断食の日々を過ごしていたことになります。彼は神の裁きに備えて回心を呼びかける預言者だったのです。
 「聖霊で洗礼を・・・」(8節)の「霊」はギリシア語で「プネウマ」と言います。マタイやルカでは「聖霊と火による洗礼」となっていますが、これは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです(A年待降節第2主日の福音のヒント参照)。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は神の裁きをもたらす方だったのでしょう。しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈しました。「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「霊=プネウマ」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現したのです。聖霊の基本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるしではなく、「人を神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものなのです。

  (4) イエスが到来する以前、イスラエルの人々は神が遠くにいると感じていました。そこには、「自分たちの罪が神と自分たちの間を引き離している」という面と、「苦しむ人々を神がほうっておかれているのではないか」という両面がありました。2000年前の「イエスの到来」はこの旧約時代の人々の救いへの待望を満たすものでした。2000年前にイエスが来て、確かに決定的な救いのわざを行ってくださったとわたしたちは信じています。しかし、わたしたちの中に神の救いが完全に実現しているとも言えないでしょう。だからこそ、いつか神との決定的な出会いの時がある、これがキリスト教の終末(キリストが再び来られる時)についての確信です。
 それは裁きの時でしょうか、救いの完成の時でしょうか。新約聖書の中に両方の表現が見られます。確かなことは、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13・12-13)ということ、そして「愛は決して滅びない」(13・8)ということです。そこからどのような「回心」がわたしたちに求められているかを考えてみてはどうでしょうか。

投稿者 ct : 11:08 | コメント (0)