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2005年12月18日
待降節第4主日(2005/12/18 ルカ1・26-38)
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教会暦と聖書の流れ |
クリスマスの直前の日曜日には、イエスの誕生に直接関係する出来事が読まれます。今年(B年)の箇所はルカ福音書1-2章のイエスの誕生と幼年時代の物語から採られた、いわゆる「受胎告知」(あるいは「お告げ」)の場面です。イエスを身ごもったマリアという一人の女性の中に、神の救いの働きがもう始まっているのです。
福音のヒント
(1) 28節は「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りの冒頭に引用されている大切な言葉です(「マリア」という固有名詞は聖書本文にはなく、後の時代に付け加えられました)。
「おめでとう」のギリシア語「カイレchaire」は直訳では「喜べ」ですが、一般的なあいさつの言葉として用いられていました。ゼカリヤ9・9やゼファニヤ3・14のギリシア語訳(七十人訳)にもこの言葉が使われています。このゼカリヤ書の箇所は有名な箇所です(日本語訳では「カイレ」が分かりにくいのですが・・・)。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って」これは救いの到来を預言した言葉で、イエスのエルサレム入城にあたって引用される箇所です(マタイ21・5など)。シオンはエルサレムの神殿のある丘の名前で、「娘シオン」「娘エルサレム」はエルサレムの町全体(あるいはその住民)を指しています。旧約の預言との関連から考えると「カイレ」は、単なるあいさつではなく、旧約の民が長く待ち望んでいた神の救いが、今、実現していることを感じさせる「喜べ」なのです。
「主があなたと共におられる」は、旧約のギデオンが士師として召し出されるときに天使から告げられた言葉です(士師記6・12)。神ご自身が人間に向かって「わたしはあなたと共にいる」というのも、モーセや預言者たちの召命の場面によく見られる表現です(出3・12、エレミヤ1・8など)。どちらも弱い人間が神の救いの道具として選ばれるときに与えられる神の力強い助けを約束する言葉であり、ここでもマリアに特別な使命が与えられることが暗示されています。
(2) 同じ28節の「恵まれた方」は、原文では「ケカリトーメネーkecharitomene」で、文法的には「完了形受動分詞」です。完了形には「以前からずっと恵まれていて今も恵まれている」というニュアンスがあるので、「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義につなげて考えることもできます。また、この完了形にはただ単に「恵まれた方」以上の強い意味があるとも考えられ、ラテン語ではgratia plena(「恵みに満ちている」という意味) と訳されています。日本語のAve Mariaの「聖寵満ちみてる」(文語)、「恵みあふれる」(口語)は同じ解釈から来ています。
(3) 「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」は「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7・14、マタイ1・23)とよく似た表現です。この「おとめ」はヘブライ語では「アルマー」で、単に「若い女」を意味する言葉ですが、古代のギリシア語訳では「処女」の意味がある「パルテノスparthenos」と訳されました。イエスを身ごもったマリアが処女であったことについてはさまざまな解釈がありますが、処女とは、単純に「子どもを産むことができない女」と考えてもよいのではないでしょうか。高齢のエリサベトが子どもを身ごもったのも神の働きですが、男を知らないマリアが身ごもることはまったく人間の力ではなく、完全に神の力によることです。救い主イエスの到来は人間の力によって実現するのではなく、「聖霊」=「いと高き方の力」(35節)によってもたらされる神の恵みの出来事なのです。
(4) 「なりますように」と訳された言葉はギリシア語では「ゲノイトgenoito」です。ラテン語では「フィアットfiat」と訳され、ある英語訳では「Let it be」と訳されて、多くの人に親しまれてきた言葉です。これは信仰者の模範としてのマリアの姿をもっともよく表わす言葉だと言えるでしょう。
マリアにとって、天使のお告げを受け入れることは決して簡単なことではありませんでした。この時点でマリアの妊娠を知ったヨセフがマリアを受け入れてくれるという保証はありません。常識的には婚約は破談になり、マリアはシングル・マザーにならなければならないところでしょう。それでもマリアは神の言葉を受け入れ、自分を神の言葉にゆだねました。マリアにとって、神の言葉は自分と関係ないどこかで実現するのではなく「この身に(わたしに)」実現するのです。主の祈りの「み心が行なわれますように」やゲツセマネの祈りの「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)も思い出すことができます(ラテン語では「行われますように」はいずれもfiatです)。
わたしたちにも「フィアット」と心から祈ることがあるのではないでしょうか。
(5) 神はマリアの受諾を必要としたのでしょうか。マリアに何も告げなくとも(あるいはマリアが断ったとしても)救い主を産ませることはできたかもしれません。しかし、神は天使をとおしてマリアに語りかけ、マリアが自由に応えることを求めたのです。神の救いを「握手」のイメージで考えると良いかもしれません。神の救いの手は人間に差し伸べられています。マリアはそれに応えて自分の手を差し出し、そこで初めて「握手」(本当の意味での救い)が成り立つのです。そういう意味では、このマリアの受諾から救いの時代が始まっていると言ってもよいでしょう。わたしたちは神の差し出される手(神のことば)にどのように応えているでしょうか。
投稿者 ct : 2005年12月18日 10:18
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