« 待降節第1主日(2005/11/27 マルコ13・33-37) | メイン | 待降節第3主日(2005/12/11 ヨハネ1・6-8,19-28) »
2005年12月04日
待降節第2主日(2005/12/04 マルコ1・1-8)
|
教会暦と聖書の流れ |
毎年、待降節第2・第3主日のミサの福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表(その最後の人)だと言えるでしょう。大切なのは、洗礼者ヨハネを見つめることではなく、ヨハネが指し示した来(きた)るべき方=イエスを見つめることです。きょうの箇所にはまだイエスが登場しませんが、わたしたちにとって「イエスの到来」は2000年前にすでに起こったことです。教会の暦と朗読配分は、その到来の意味を待降節・降誕節全体をとおして味わうよう招いているのです。
福音のヒント
(1) 「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1・1)は、「神の子であり、キリストであるイエスの福音の初め」とも訳すことができます。新共同訳聖書は、ギリシア語の「クリストスchristos」が称号として用いられているときは「メシア」、イエスを指す固有名詞のように用いられているときは「キリスト」と訳し分けていますが、キリストもメシアも「油注がれた者」という意味の言葉で、「神から特別な使命を与えられ遣わされた方=救い主」を指します。1・1はマルコ福音書の冒頭の言葉ですが、福音書全体のテーマを表す言葉だとも言えるでしょう。この福音書はイエスが「神の子」であり、「キリスト」であるということを伝えようとしています(8・29、15・39参照)。そして、マルコがそのことを伝えるためにとった方法は、ヨルダン川での洗礼に始まり、イエスがどのように歩まれたかを物語ることでした。十字架の死に至るイエスの歩みをていねいに見つめれば、イエスが「神の子、キリスト」であることが分かると言いたいかのようです。
(2) 「イエスの福音の初め」と言いながら、マルコはまず最初に旧約聖書の2つの箇所を引用し、洗礼者ヨハネの活動を伝えます。「預言者イザヤの書に」と言いますが、実際には後半だけがイザヤ40・3から採られた言葉で、前半はマラキ3・1の引用です。マルコは洗礼者ヨハネの活動を単なる人間の活動ではなく、洗礼者ヨハネの登場そのものを神が昔から準備していたこと(神の計画)と見ているのです。そして、ヨハネとイエスはこの同じ神の計画の中にいるのです。そういう意味では「イエスの福音」は洗礼者ヨハネとともに始まっていると言えるのでしょう。なおここで「イエスの福音」とは「イエスが告げ知らせた良い知らせ」(マルコ1・14参照)だけでなく、「イエスの到来、活動、生涯すべてを通して告げられた神からの良い知らせ」という意味になります。
(3) 洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。「洗礼(バプティスマ)」の元の意味は「水に沈めること」「水に浸すこと」です(洗礼者ヨハネの洗礼も古代のキリスト教の洗礼も人の全身を水の中に沈めるものでした)。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、神から離れている古い自分に死んで、神によって生きる新たないのちに生まれ変わることを意味していました。そういう意味で、洗礼者ヨハネにとって「洗礼」は「悔い改め(回心)」のしるしだったのです。
ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め」ていたのは列王記下1・8に伝えられる預言者エリヤの姿と同じです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」にいて、「いなごと野蜜を食べ」ていました。つまりほとんど断食の日々を過ごしていたことになります。彼は神の裁きに備えて回心を呼びかける預言者だったのです。
「聖霊で洗礼を・・・」(8節)の「霊」はギリシア語で「プネウマ」と言います。マタイやルカでは「聖霊と火による洗礼」となっていますが、これは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです(A年待降節第2主日の福音のヒント参照)。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は神の裁きをもたらす方だったのでしょう。しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈しました。「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「霊=プネウマ」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現したのです。聖霊の基本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるしではなく、「人を神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものなのです。
(4) イエスが到来する以前、イスラエルの人々は神が遠くにいると感じていました。そこには、「自分たちの罪が神と自分たちの間を引き離している」という面と、「苦しむ人々を神がほうっておかれているのではないか」という両面がありました。2000年前の「イエスの到来」はこの旧約時代の人々の救いへの待望を満たすものでした。2000年前にイエスが来て、確かに決定的な救いのわざを行ってくださったとわたしたちは信じています。しかし、わたしたちの中に神の救いが完全に実現しているとも言えないでしょう。だからこそ、いつか神との決定的な出会いの時がある、これがキリスト教の終末(キリストが再び来られる時)についての確信です。
それは裁きの時でしょうか、救いの完成の時でしょうか。新約聖書の中に両方の表現が見られます。確かなことは、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13・12-13)ということ、そして「愛は決して滅びない」(13・8)ということです。そこからどのような「回心」がわたしたちに求められているかを考えてみてはどうでしょうか。
投稿者 ct : 2005年12月04日 11:08
コメント
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。