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2005年11月06日

マタイ25・1-13(2005/11/6年間第32主日)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 年間主日のミサの福音朗読は、イエスの宣教活動の歩みをたどってきました。その結びの3つの主日(年間第32、33、王であるキリスト)に、今年はマタイ福音書でイエスの最後の説教となる3つの箇所 (25・1-13、14-30、31-46)が順番に読まれていきます。この3つの主日は「終末主日」とも呼ばれますが、福音の内容はちょうど終末についての教えになっています。指導者たちと対決した神殿を後にし、イエスはオリーブ山からエルサレムの町と神殿を見ながら、弟子たちに向けて終末についての説教をします(マタイ24-25章)。マルコ13章では、「目を覚ましていなさい」という警告でこの説教は結ばれますが、マタイはこの部分を拡大し、24・45-51のたとえと25章全体を伝えています。

福音のヒント

  (1) このたとえ話の背景には、当時のユダヤの村の結婚式の習慣があります。結婚式は夜中に行われました。花嫁は、介添えをする友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちます。「10人のおとめ」はこの友人たちです。花婿は花嫁を迎えるために花嫁の家に向かいますが、花婿の到着はしばしば遅れたそうです(図A)。花嫁の家で、花婿と花嫁一行は合流して花婿の家に向かいます。ともし火は松明(たいまつ)のようなものの先に油を染み込ませた布が巻いてあるもので火を灯しても15分ぐらいしか持たなかったようです。5人の油を持っていないおとめたちは、油を買うために店に寄っていったので遅れてしまうのです。ちなみに婚礼は村にとってのお祭のようなものですから、それが行われる晩はお店が夜中まで開いていたと考えてよいでしょう(図B)。婚宴は花婿の家で行われます。遅れた5人はそこに入れてもらえなかった、というのです(図C)。

(2) 「結婚」は神と人とが一つに結ばれる救いのイメージとして聖書にしばしば現れます。ここでも花婿の到着と婚宴は、世の終わりの救いの完成を表しています。
 世の終わりについての聖書の教えは、人に恐怖心を植えつけて人をコントロールするようなものではありません。聖書の終末についてのメッセージには2つの面があります。
 A) 迫害というような厳しい状況の中で、この悪の時代は過ぎ去り、最終的に神による救いと解放が実現する、という希望のメッセージ
 B) 日常的な生活のさまざまな関心事に埋もれてしまう中で、最終的な神の判断(裁き)を語ることによって、今をどう生きるべきかを示す、回心の呼びかけのメッセージ
 マタイ24-25章の説教にもこの両方の面がありますが、25章にはB)の面が強く表れています。「花婿の到着が遅れた」というところに、初代教会の人々の特別な関心が表れているようです。最初のキリスト者たちは、遠くない将来のイエスの再臨(イエスが再び来て、救いを完成する)を切望していましたが、その再臨は人々が予想したほどすぐには来なかったのです。そこで、再臨までの長い期間、「いつか分からないが突然訪れる」その時に向かってどのように生きるか、というテーマが浮上してきたのではないか、と考えられます。

 (3) 13節で「だから目を覚ましていなさい」と言いますが、このたとえ話では10人とも眠ってしまいましたから、言葉の上では少し合わないように感じられるかもしれません。もちろん、「目を覚ましている」というのは「肉体的に目覚めている」という意味ではなく、マタイ24・42から始まる「目を覚ましていなさい」というテーマは、24・45から25・46まで続く長い説教の中で、次第にその意味が明らかにされていくのです。ここで「目を覚ましている」ことは、内容的には「油を用意している」ということであるのは確かです。
この「油」は何を意味しているのでしょうか。きょうの箇所には「油」についての説明がありません。そこでいろいろな想像をすることができます。Ⅰテサロニケ5・19「“霊”の火を消してはなりません」などをもとに「油とは聖霊のことである」というような解釈もあります。ただし、このたとえ話だけからそう言い切ることには無理があります。
 むしろ、本当はこのたとえ話には説明部分があると考えてはどうでしょうか。続く「タラントンのたとえ」(14-30節)にも説明部分がありませんが、31-46節には、終末の裁きが語られています。そこでははっきりと「助けを必要としている人に対して手を差し伸べること」が問われています。この31-46節が2つのたとえ話の説明部分なのではないでしょうか? 「油」も「タラントン」も「愛」もそれぞれ必要だ、というのではなく、「油を用意している」とは、「タラントンを生かす」とは、結局、「愛する」ということなのだ。そう受け取ることが一番自然かもしれません。
 
 (4) このたとえを読んで、「5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめ」ではなく、「油を人に分けてあげない5人の意地悪なおとめと、分けてもらえなかった5人の可哀想なおとめ」の話だと感じる人もいるようです。もちろん、イエスが油を用意していたほうのおとめたちを評価していることは確かです。「なぜ油を分けてあげないのか?」そこにこのたとえ話を理解するヒントがあるのかもしれません。この油は「人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのではないでしょうか。たとえば「その人自身の生き方」。親は子どもに良いものをたくさん与えることはできますが、子どもの生き方は最終的にその子自身が選ぶしかありません。誰もその人の代わりにその人の人生を生きることはできない、そういう意味で人に分けてあげられないものが問われているのだとも言えるでしょう。

投稿者 ct : 2005年11月06日 11:08

コメント

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投稿者 website design : 2012年03月12日 20:45

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