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2005年11月20日
王であるキリスト(2005/11/20 マタイ25・31-46)
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教会暦と聖書の流れ |
この箇所はマタイ24章4節から始まった終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語です)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。
福音のヒント
(1) 31節では「人の子」が主語ですが、34節でそれが突然「王」に変わっているので、31-33節と34節以降は、本来別の話だったものをマタイが結びつけたと考えられます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(31節)は申命記33・2(のギリシア語訳)やゼカリヤ14・5から採られた表現であり、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)の背景にはエゼキエル34・17があります。神の現れと裁きに関する伝統的な表現であり、この31-33節は世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身(何が神によって決定的に問われることか、ということ)を語るための舞台装置の役割を果たしていると考えたらよいでしょう。
(2) 神の判断(裁き)で何が決定的に問われるか、ということについて、この箇所は疑問の余地のないほど明快な基準を示しています。ただし、この箇所をめぐって以下のような考えもありますので紹介しておきましょう。
一つは「誰がここで裁かれているか」ということについてです。実はわたしたちは「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」と言うことはできません。この箇所を読んでいるわたしたちは、このように裁かれることを知っているので、わたしたちにとってイエスの言葉は意外であるはずはないのです。だとするとこの箇所は、「聖書やキリストを知らない人々がどのような基準で裁かれるか」を語る話だと考えるべきではないか、という解釈があります。
また、これと関連して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことか、という問題もあります。マタイ10・40、42にこういう言葉があります。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」確かによく似ているので、ここでも「この最も小さい者」は一般的に助けを必要としている人ではなく、イエスの弟子(特に迫害されている弟子)のことだ、という考えがあります。
このように考えると、「キリスト信者でない人は、迫害されているキリスト信者に対してどのようにふるまったか、によって裁かれる」という話だということになります。
(3) このような考えは確かに言葉の解釈上は成り立つかもしれませんが、根本的に何か違うと感じられないでしょうか。この箇所全体は、世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話であるはずで、自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われることなのです。
(4) 実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」というのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛の道具として隣人を愛したのではないのです。
(5) それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいかもしれません。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11・12参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19・28)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言ってもいいのではないでしょうか。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。
わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためだと言ったらよいでしょう。わたしたちの中にどこかでそんな経験があるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2005年11月20日 10:40
コメント
あいと希望と信仰は同時進行してきたし今もいえすの血潮は生活感を躍動させる宝物
投稿者 ポウル : 2007年04月05日 22:58
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