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2005年11月27日
待降節第1主日(2005/11/27 マルコ13・33-37)
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「待降節」と訳されたラテン語の「adventusアドヴェントゥス」(英語ではadvent)は、本来は「到来」を意味する言葉です。2000年前にイエスが世に来られたことを思い起こしながら、栄光のうちに再び来られることに思いを馳せます。この2重の意味での「到来」とそこに向かう人間の姿勢としての「待望」がこの季節のテーマです。第一主日には毎年、年間の終わり(終末主日)のテーマを受け継いで「目を覚ましていなさい」という、終末に向かう姿勢を問いかける言葉が読まれます。3年周期の主日のミサの聖書朗読配分はB年が始まりました。今年は主にマルコ福音書が読まれる年です。
福音のヒント
(1) マルコ福音書13・5から始まる終末についての説教の結びの部分です。この箇所の直前には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(32節)という言葉があります。「その日、その時」とは、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26節)ときのことです。これはダニエル書7章13節から採られた表現です。ダニエル書の物語の舞台は紀元前6世紀、捕囚時代のバビロンですが、実際に書かれたのは、紀元前2世紀のセレウコス王朝シリアの支配下で起こったユダヤ人に対する宗教的迫害の時代でした。ダニエル書7章は、「獣」のようなヘレニズム帝国が猛威をふるうが、いつか「人の子のような者」が神から遣わされて、正しい裁きを成し遂げる、という救いと解放のメッセージです。この「時」は決定的な神の介入の時なのです。
(2) 聖書の終末についてのメッセージには2つの面があります。
(a) 悪が栄えるこの時代はいつか終わり、神の正しい支配が訪れる、と語り、迫害の中にある信仰者を励ます希望のメッセージ、という面(上のダニエル書はその典型)。
(b) 日々の出来事に追われて本当に大切な物を見失っているときに、神の最終的な判断の目から見て、何を大切にして生きるべきかを語る警告のメッセージ、という面。
マルコ13章の説教にはその両面があります。きょうの箇所の「目を覚ましていなさい」はもちろん、(b)の面が強いメッセージだと言えるでしょう。
「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。きょうの箇所の「門番には目を覚ましているようにと、言いつけておく」(34節)から考えると、とにかくその時がいつ来てもいいように警戒している、というように感じられるかもしれません。しかし、終末に向かう姿勢として求められているのが「いつ来るかいつ来るか、とビクビクしている」ということであるとは考えにくいでしょう。「目を覚ましていなさい」というのは分かりやすいようでいて、意外に分かりにくい言葉なのかもしれません。
(3) 「目を覚ましていなさい」という言葉のニュアンスは、マタイ、マルコ、ルカで少しずつ異なっているようです。先週までのA年の「終末主日」に読まれたマタイ福音書によれば、それは「主人に言われたとおりにしている」(24・46)ことであり、結局のところ、助けを必要としている人に対する愛を持って生きること(25・31-46参照)ということになるでしょう。ルカ福音書は「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(21・36)と語り、「祈ること」すなわち「来(きた)るべき神とイエスに希望と信頼を置いて生きること」を「目を覚ましている」ことだと考えているようです。
終末についての言葉は、今のわたしたちの現実を無視する教えではありません。むしろいつか来る終わり(そのもっとも分かりやすいイメージはわたしたち自身の死です)に向かって、今をどう生きるかを問いかけることにあるのです。それは日々の生活の中で信仰と愛をもって生きるように励ます教えなのです。
(4) マルコではどうでしょうか。マルコ福音書の文脈をていねいに見てみましょう。11-12章はイエスのエルサレムでの活動を伝えています。イエスは神殿の境内で当時の有力者たちと対決しました。イエスは彼らの中に真実なものを見いだすことはできませんでした。神殿で見かけた人々の中で唯一イエスの心を打ったのは、レプトン銅貨2枚という自分にできる精一杯のものを神に差し出した貧しいやもめの姿だけでした。イエスはこれ以外にここには真実なものはない、と見定めたかのように神殿を後にします。
しかし弟子たちは違いました。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と弟子の一人が叫びます(13・1)。ガリラヤの田舎から出てきた弟子たちは、エルサレムの都にそびえる神殿の壮麗さに心を奪われていました。これに対するイエスの答えは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(13・2)というものでした。イエスはこの神殿もいつか滅びるもので、これが本当に頼りになるものではない、と言うのです。
そしてオリーブ山の上からエルサレムとその神殿を見ながら語るのが、13・5-37の説教です。イエスは目に見えるものではなく、目に見えないもっと確かなものに弟子たちの目を向けさせます。この説教の中には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(31節)という言葉もあります。このように見てくると、「目を覚ましている」とは目に見える、滅びゆくものではなく、目に見えない本当に確かなもの、決して滅びないものに心を向けていることだと言えるのではないでしょうか。今、わたしたちが生きている現実をどう見るか、その中で何が真実で、何が信頼すべきものなのか、そう問いかけていると言っていいのかもしれません。今年の待降節を迎えたわたしたちにとって、「目を覚ましていなさい」という呼びかけはどう響くでしょうか。
投稿者 ct : 2005年11月27日 10:11
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