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2005年10月30日
マタイ23・1-12(2005/10/30年間第31主日)
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教会暦と聖書の流れ |
マタイ福音書は、エルサレムの神殿の境内での宗教的指導者たちとの論争に続き、群集と弟子たちに向けた説教の形で、イエスのファリサイ派・律法学者に対する徹底的な批判の言葉を伝えています。マルコ福音書では短いことば(12・38-40)ですが、マタイではこの批判は36節まで続く長いものになっています。ルカ11・37-53にも同じような言葉がありますが、ルカではエルサレムへの旅の途中で出会ったファリサイ派の人と律法学者に向かって直接語られています。マタイは神殿の境内での論争をとおして、イエスとファリサイ派・律法学者との対立が決定的なものとなったことを印象づけるために、これらの言葉をここに置いているのでしょう。イエスの受難は間近に迫ってきています。
福音のヒント
(1) イエスの律法学者・ファリサイ派に対する批判はきょうの箇所では次の2点に要約できるでしょう。「言うだけで実行しない」こと(1-4節)と「行いは人に見せるため」ということ(5-7節)です。
安息日の律法についての考え方など、イエスの教えとファリサイ派の教えの間には大きな隔たりがありました(マタイ12・1-14参照)。しかし、ここでは律法学者・ファリサイ派の教えの内容は問題になっていません。むしろ、彼らが「言うだけで実行しない」ことが問題であり、「背負いきれない重荷を人に負わせるだけ」であることが批判されています。それは人々の重荷を共に荷うイエスの姿と正反対だと言えるでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11・28-29。A年年間第14主日の「福音のヒント」参照)
5-7節で問題にされているのは、人からの尊敬を得ようとする彼らの心です。「聖句の入った小箱」は本来自分の心に律法の言葉を深く刻みつけるために、ユダヤ人が祈りのときに身につけたものです(申命記6・8参照)。「衣服の房」についても、旧約聖書では「それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(民数記15・38)と言われていました。これらを目立たせるのは、人に対して自分がいかに律法を大切にしているかをアピールするためでしかない、というのです。
(2) 8節からは、直接群集と弟子たちへの戒めとなります。7-8節の「先生rabbi」はヘブライ語・アラム語で教師に対する尊称です。「師didaskalos」はギリシア語で「教える人」を意味する言葉です。10節の「教師kathegetes」(先に立って行く人、案内者)もよく似た言葉だと言えるでしょう。その間に9節の「父」についての言葉があります。
「師」と「教師」は重複しているように感じられます。本来のイエスの言葉は8節までで、9節以降は後の教会の中で拡大された部分だとも考えられます。8節までだけを考えてみると、もともと「先生=師」とは神ご自身のことだったのかもしれません。もちろんわたしたちにとっては、先生が神かイエスかということは大きな問題ではありません。わたしたちは皆「弟子仲間・兄弟姉妹」であり、「先生」とか「父」「教師」と呼ばれてはならない、という戒めに変わりはないのです。
(3) イエスの批判は、律法学者・ファリサイ派に向けられています。マタイはこれらの言葉を、当時イエス・キリストを受け入れないことがはっきりしてきたユダヤ教の人々への批判として伝えているのでしょうか。もちろん、そういう面もあるでしょう。しかし、むしろ、自分たちキリスト信者の中にも同じ危険があると感じているのではないでしょうか。だからこそ、これらの言葉は、「律法学者とファリサイ派の人々」にではなく、「群集と弟子たち」に向けて語られた言葉になっているのです。
わたしたちの中に、ここで批判されている「ファリサイ的なもの」がないとは言えません。「自分にできないことを人に要求している」「人に愛を求めながら、自分には愛がない」「結局、気にしているのは自分が人からどう見られるかばかり」「人生を勝つか負けるかの競争のように感じて、本当に大切な人と人との兄弟としてのつながりを見失ってしまう」などなど。このような態度は、神と人に対して良くない、というよりも、わたしたち自身が良く生きることを妨げているのではないでしょうか。
(4) 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(23・11-12)。しかし、福音書に伝えられているイエスの弟子たちの姿はこれとはかけ離れたものでした。彼らは「だれが一番偉いか」と論じ合い、少しでも人の上に立ちたいと願っていたのです(マルコ9・33-34、10・35-41)。わたしたちはどのようにしてそこから解放されていくことができるでしょうか。この11-12節とよく似た言葉は福音書のあちらこちらに見られます(マタイ20・26-27、マルコ9・35、10・43-44、ルカ9・48、14・11、18・14、22・26)が、そのほとんどはイエスの受難と関係しています。イエスの弟子たちが競争心や嫉妬心から解放されたのは、イエスの受難と死が現実になった後でした。「仕える者」「へりくだる者」となられたイエスの受難の姿がわたしたちの心に迫ってくるとき、わたしたちも、父である神の前での兄弟姉妹として共に生きること、教師であるイエスの前での弟子としての平等であること、を心から喜ぶことができるようになる。そんな体験がわたしたちの中にあるでしょうか。
投稿者 ct : 2005年10月30日 14:35
コメント
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