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2005年10月09日

マタイ22・1-14 (2005/10/9年間第28主日)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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「二人の息子」のたとえ、「ぶどう園と農夫」のたとえに続き、これも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られるたとえ話です。前の2つのたとえ話と同じように、神の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。

福音のヒント

  (1) ルカ14・15-24によく似たたとえ話がありますが、ルカでは、エルサレムに向かう旅の途中、イエスがファリサイ派の人から食事に招かれたときの話になっています。ルカの内容のほうがイエスの生前の状況に合うと言えるでしょう。マタイでは、後の時代の展開に合わせてさまざまな要素が付け加えられているようです。マタイの特徴は主に次の点です。
 a. ルカでは「ある人が盛大な宴会を催す」というだけですが、マタイでは「ある王が王子のために婚宴を催す」という話になっています。「婚宴」は聖書の中で、神と人とが一つに結ばれる終末的な救いのイメージであり、マタイはこの点を強調しています(なお、今回のイラストは現代のユダヤ人の結婚式をモチーフにしています)。「ある人」が「王」となっているのも、最後の裁き(11-14節)のイメージとつなげるためでしょう。
 b. ルカでは「招いておいた人々」のもとに僕(単数)が1回だけ遣わされますが、マタイでは複数の僕が2回遣わされています。ここでマタイは、旧約の預言者たちとキリストを信じる教会による2つの呼びかけを考えているようです。
 c. ルカでは招いておいた人々が拒否したのを知って、怒った主人はすぐに他の人々を招きますが、マタイでは、人々はただ拒否するだけでなく遣わされた「家来を捕まえて乱暴し、殺して」しまいます。そして、怒った王は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という展開になっています。これは前のたとえ話(先週の福音)の展開とよく似ています(マタイ21・35、41)。マタイは、紀元70年に起こったエルサレムの滅亡を、キリストを受け入れなかったユダヤ人に対する神の罰のように見ているのでしょう。だとすると、ここでも先週の話同様、マタイはたとえ話の中に歴史を読み込んでいることになります。
 d. ルカではその後、2回の招きがあります。まず貧しい人や障害者が招かれますが、それでもまだ席があるので、主人は「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。これはイエスによる神の国への招きを連想させます。一方、マタイでは1回だけで「善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」となっています。マタイは教会に招かれた人々のことを考えているようです。
 e. 11-14節はルカにはありません。これについては後ほど考えましょう。

 (2) このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、ルカ14・18-20では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」となっています。彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです(断る口実を見つけることはいくらでもできるとも言えるでしょう)。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。わたしたちはどうでしょうか。

 (3) ルカでは貧しい人や障害者が招かれるところに特徴がありますが、マタイは「『見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」(9-10節)と言います。ここには、マタイの教会についての見方が反映しているのでしょう。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ13・24-30)なのです。18章でも「迷った羊」である罪びとをいかに取り戻すか、罪を犯した兄弟をいかにゆるすか、ということが大きなテーマでした。マタイ福音書の著者が、徴税人マタイであったということを現代の学者は否定しますが、この福音書の著者自身が「自分はゆるされた罪びとである」という意識を持っていたと考えると分かりやすいかもしれません。

 (4) 11節以下で、町の大通りからたまたま連れてこられた人が「礼服を着ていない」といって主人に責められるのはどう考えても不自然です。この礼服のたとえは本来、10節までのたとえとは別の話だったものをマタイが結び合わせたのでしょう。マタイにとって「罪びとも招かれている」ということの素晴らしさは確かです。しかし同時に「この素晴らしい招きにいかにふさわしく応えるか」ということももう一つの大きなテーマなのです。
 それはただ単に倫理的に立派な生き方をするというようなことでしょうか。むしろ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5・44-45)とあるように、罪びとをも愛する神の心に応えて生きることだと言えるのではないでしょうか。ここで言う「礼服」とは、すべての人を愛することだと言ってもよいでしょう。マタイはイエスの最後の説教の中でそのことを明確に示しています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・35-36、40)。

投稿者 ct : 2005年10月09日 15:10

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