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2005年09月04日

マタイ18・15-20(2005/9/4年間第23主日)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えをまとめた箇所です。子どもを受け入れること(1-5節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9節)。一貫して問われているのは、メンバーの中の弱い人々に対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえ(10-14節)に続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。

福音のヒント

(1) 教会についての教えをイエスは語ったのでしょうか。むしろ、マタイが自分たちの教会のあり方を考えるために、伝えられてきたイエスの言葉を(多少、加筆修正しながら)ここに集めたのだと考えるほうがよいのでしょう。
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言いますが、具体的にどういう罪が問題になっているかは分かりません。「兄弟姉妹である」とは「同じ父(である神)の子である」ということです。「罪」とはその関係を傷つけるような言動でしょう。しかし、それでもその兄弟を失わないこと、兄弟を再び兄弟として取り戻すこと、これがここでのテーマだと言えます。そしてそこにイエスの心があるとマタイは伝えたいのでしょう。

 (2) 「異邦人や徴税人」(17節)は、当時のユダヤ人社会の言葉遣いで、神の民から排除された人を指します。しかし、徴税人や異邦人に対するイエスの態度から考えれば、イエス自身が弟子たちに語った言葉とはとても考えられません。とにかく、ここではどういう場合は「異邦人や徴税人」扱いせよ、ということではなく、「いかに切り捨てないようにぎりぎりまで努力するか」ということにポイントがあります。
「忠告」というのは難しいことです。忠告されることは誰にとってもイヤなことでしょう。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したがために恨みを買うことだってあるでしょう。それでも「忠告しなさい」。イエスは「面と向き合うこと」を求めているのではないでしょうか。陰でいくら文句を言っても事態は何も好転しないからです。
 「ほかに一人か二人、一緒に連れて行く」「教会に申し出る」これは一人で解決できなければ、自分たちみんなで解決する、ということです。誰か外の人に解決してもらうのではなく、自分たちの中で解決を図るように、という意味にも受け取れます。
 わたしたちの教会の中にもいろいろな問題があります。教会の中で人と人とが(兄弟姉妹同士が)傷つけ合うのは、実に悲しいことです。そういう現実を抱えたわたしたちに、きょうの福音は何かの光を投げかけてくれるでしょうか。

 (3) 18節の「つなぐ、とく」はマタイ16・19では、ペトロに与えられた使命でしたが、ここではもっと広くすべての弟子に与えられています。これは、「つなぐ」も「とく」も弟子たちが自分で勝手に判断してよい、というのではなく、「弟子たちが天を閉ざしてしまえば、それは決定的なことになってしまうのだから、互いにゆるし合って、兄弟として受け入れ合うための最大限の努力をすべきだ」ということでしょう。そのためには、単なる人間的な努力だけでなく、祈りの中でイエスの心に近づくことが必要だとも言えるのではないでしょうか(そういう意味で、次節の祈りのテーマとつながっていくのでしょう)。

(4) 19節の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」は本当に大きな約束です。わたしたちは自分の部屋に隠れて一人で祈ることもありますが、同時に誰かと一緒に祈ろうともします。それはこのイエスの約束に信頼するからです。20節には原文では「ガル(なぜなら)」という言葉がありますから、これは19節の理由です。弟子たちの祈りがかなえられるのは「イエスがともにいるから」なのです。「わたしの名によって集まる」の「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。「イエスのうちに一つに結ばれて」と理解すればよいでしょうか。
 祈りは、自分の願いを神にぶつけるだけではありません。むしろ、自分の願いを超えた神の思いを受け取ることです。二人・三人で一緒に祈ろうとするとき、自分のエゴを超えることが必要になります。さらに、二人・三人が自分のエゴを超えて一緒に祈ろうとする中で、キリストの心に近づいていく、ということもあるのではないでしょうか?
 
 (5) 「アヴェ・マリア」という伝統的な祈り(「恵みあふれる聖マリア…」に始まる祈り)についても考えてみたらよいかもしれません。この祈りの中で願っていることは、「聖マリア、わたしたちのためにお祈りください」です。マリアに祈りを頼むわたしたちはマリアに祈らせておいて自分は祈らない、というのではありません。これはわたしたちがマリアとともに祈る祈りなのです。たった一人で祈っていても、小さなグループで祈っていても、そこにはマリアが代表する信じる神の民全体とのつながりがあることを思い浮かべたらよいでしょう。そしてわたしたちの祈りはマリアの「フィアット」(fiatはルカ1・38「お言葉どおり、この身になりますように」の「なりますように」にあたるラテン語です)に結ばれていくのです。たとえ遠く離れたところにいても、祈りは時間と空間を越えてわたしたち同士を結びつけます。また、わたしたちをイエスやマリアの祈りと結びつけます。そう感じられたらどれほど力づけられることでしょうか。
 祈りとその効果(?)は物理法則のようなものではありません。このように祈ればこのような結果が必ず表れるというものではないのです。わたしたちはたぶん、自分自身が祈りの中でどんな体験をしてきたかを分かち合うことしかできないでしょう。ただその分かち合いは、わたしたち一人一人の祈りをもっと豊かなものにしてくれるはずです。

投稿者 ct : 2005年09月04日 09:51

コメント

祈りは教会を支える大きな力となってきました。そのことを感じながら、わたしたちは豊かな未来を育んでいきましょう。

投稿者 フランシスコ : 2005年08月28日 23:10

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