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2005年08月28日
マタイ16・21-27 (2005/8/28年間第22主日)
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教会暦と聖書の流れ |
先週のペトロの信仰告白に続く「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白したペトロをイエスは祝福し、特別な使命を与えていましたから、きょうの箇所で同じペトロが厳しく叱責されるのは少し不自然に感じられるかもしれません。きょうの箇所全体はマルコ福音書に基づいていますが、マタイ福音書は「このときから、イエスは、・・・・始められた」(21節)と述べます。マタイ4・17にも同じ表現がありましたが、これは、前の話とのつながりを示すのではなく、ここからイエスの活動の新たな段階(ここでは受難に向かう歩み)が始まることを表す表現のようです。
福音のヒント
(1) 「受難予告」というのは特別な未来予知能力によるものと考える必要はありません。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にファリサイ派の人や律法学者には歓迎されませんでした。律法を基準にして人間をランク付けする考えに対して、イエスはすべての人を例外なく神の子として大切にしましたが、そのことは、律法の基準の上で社会的にも宗教的にも優位を保っていた人々には自分たちの地位を脅かすものと感じられたのです。その人々からの反発と敵意が迫ってきているのをイエスは感じていたはずです。さらに旧約時代の預言者たちの苦難や洗礼者ヨハネの殉教を考えれば、イエスがこのまま活動を続ければ迫害と死は避けられないと感じたとしても不思議ではありません。
それでも、イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えることはありませんでした。最後まで、すべての人の父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫くのです。受難の道を歩むというイエスの決断とはそういうものだったと言えるでしょう。
(2) 「受難予告」の中には、復活の予告も含まれています。「復活」という考えは旧約聖書の中で、ダニエル書12章やマカバイ記Ⅱ7章(第二正典)に特に明白に現れてきます。どちらも背景には、紀元前2世紀、セレウコス朝シリア(ヘレニズム王朝)の王アンティオコス4世エピファネスのユダヤ人に対する宗教迫害があります。神に忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受ける、という現実の中で、神が死を越えて従う者に救いを与えてくださる、と確信するのが復活の信仰です。イエスもまた、このような確信を抱いていたと考えるのは当然ではないでしょうか。
「必ず・・・ことになっている」はギリシア語の「デイ」という非人称動詞の訳です。これは必然的に起こることを表すだけでなく、それは神が定めたこと(神の計画)だということを表す言葉です。イエスはこの受難・死・復活に神の計画を見ているのです。
(3) イエスの受難予告は弟子たちには理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉はイエスの身を案じての言葉だったのでしょう。あるいは弟子たちは、当時のほかの人々同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシア像しか受け入れられなかったと言えるかもしれません。イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4・10)を思わせる厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」今のわたしたちを神から引き離そうとする力を感じることがありますか。
(4) 受難予告の後、イエスはご自分の道に従うよう、弟子たちを招きます。「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」(24節)とはどういうことでしょうか。十字架刑に処せられる死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を背負う」は「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」というニュアンスが強いのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちにとってそれは何を意味するのか、少しでもこのイエスの言葉に通じる経験を探してみて、それを分かち合ってみてはどうでしょう。
我が子や愛する人のために自分を捨てるということはわたしたちの身近にもあることではないでしょうか。避けることのできない自分の苦しみをある時、十字架だと感じ、だからそれを耐え、乗り越えることができたという体験もあるかもしれません。
(5) 25節で「命」という言葉は二通りの意味で使われています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」では「この世の命」と「永遠の命」が対比されています。永遠の命を強調することには、時としてこの世の命を軽視する危険もあります。「自爆テロ」というのはその最たるものでしょう。神のために人間の命(他人の命も、自分の命も)を犠牲にしてもよいという考えにわたしたちは賛成できません。しかし、この世の命を大切にしながら、それ以上に大切にすべきものがあるとしたらそれはどのような命でしょうか。
(6) 25,26節の「永遠の命を得る・失う」というテーマとの関係で、27,28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。イエスも初代教会のキリスト信者も世の終わりがすぐに来る(人の子が現れて世の救いが完成される)という期待を持っていたようです。わたしたちの時代はそれから2000年も経とうとしています。わたしたちにとっては「それがいつか」という時間的な問題は問題になりません。むしろ、
①それでもいつか最終的に神の救いが完成する、という希望を持って生きること。
②最終的な神の判断(裁き)を信じながら、今目先の利害に振り回されずに生きること。
これがわたしたちのテーマではないでしょうか。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みでもあったと言えるでしょう。
投稿者 ct : 2005年08月28日 09:49
コメント
十字架を背負って歩くイエスを思い、わたしたちもそれぞれの使命を果たしていけるように救い主である神に祈りましょう。
投稿者 フランシスコ.F.T : 2005年08月22日 20:17
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