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2005年08月14日
マタイ15・21-28 (2005/8/14年間第20主日)
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教会暦と聖書の流れ |
この話の直前には、「清め」に関するファリサイ派・律法学者とイエスの論争があります。彼らは神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の心を見失っていました。次に登場するのが、その正反対とも言える「神を知らないはずの」異邦人の女性です。
福音のヒント
(1) 「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町です。「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と彼女は呼びかけます。「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア=油注がれた者)を表すことばです。マタイ20・30-31でもイエスに助けを願った盲人がこう呼びかけていますが、これは彼ら自身の考えというよりも、当時の人々のイエスについての評判がそういうものであったということなのかもしれません。
(2) 当時は「悪霊」が病気を引き起こすと考えられていました。この女性の娘がどんな病気であるかは分かりませんが、イエスは彼女の願いを再三にわたって拒絶します。
このイエスの拒絶は何を意味しているのでしょうか。12人の弟子を派遣するときにも似た言葉がありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10・5-6)。このような言葉はマタイ福音書にしかありませんから、マタイのいた教会特有の問題意識がそこにはあるのかもしれません。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体だったと考えられますから、その教会の中に異邦人排除の考え方があり、マタイはその考えをここで用いながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません。
(3) イエスご自身がまず第一にイスラエルの人々のことを考えていたのだとすれば、それはなぜでしょうか。一つの可能性は、イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えたということでしょう(年間第11主日の「福音のヒント」参照)。自分が変わることによって、少しずつ自分の周囲が変わり始める、そしていつかそれが社会や世界の大きな変化につながっていく。イエスのやり方はそういうものだったと言えるかもしれません。
もう一つ考えられることは、イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だからという理由です。イエスが目にしていたイスラエルの民の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、事細かに律法を守ろうとする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」にしてしまっていました。その人々を神の群れに引き戻すこと、もう一度、神とのつながりを取り戻し、人と人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスにとって最優先の使命と感じられたと考えてもよいのでしょう(この「失われた羊」のイメージはエゼキエル34章のイメージです)。
(4) 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)も同じような拒絶の意味を持った言葉です。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では「忌み嫌われる動物」でした。このイエスの言葉は、今から見れば差別発言だと言わざるをえないかもしれません。しかし、ここでカナンの女は、このイエスの言葉を逆手にとって、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここには彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼が感じられるでしょう。イエスはこの彼女の姿に接して態度を変えます。
(5) 今日の箇所のポイントは、イエスがイスラエルを優先し、異邦人を排除していた、ということではありません。ポイントはイエスにイスラエル優先の考え方があったとしても、この異邦人との出会いの中で、イエスが変えられ、結局は彼女を受け入れたということです。イエスの弟子や最初のキリスト者も皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。彼らは、抽象的に異邦人も救いにあずかれるかと議論して、そこから異邦人への働きかけを始めたのではありません。むしろ、異邦人がイエスを信じるようになったという現実が先にあり、それがユダヤ人から始まった教会を変えていったのです。使徒言行録8章のサマリア人やエチオピアの宦官の洗礼の物語、10章のコルネリウスの物語がその例です。
(6) イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまず第一にユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でない人が信仰を示したのに出会ってしまったのです。この人間との出会いによってイエスは揺さぶられます。イエスにとってほんとうに大切なのは、自分の宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるでしょう。現実との出会い、人との出会いによって変えられていくイエスはステキだと思いませんか。
わたしたちにももちろん、自分なりの考えや計画があります。もしかするとそれは人と出会うことを妨げてはいないでしょうか。「この人はこういう人に決まっている」「あの国の人はああいう人たちだ」そう決め付けてしまい、出会うことをやめてしまっていることがあるかもしれません。国籍や民族の異なる人とどのように出会い、どのように理解し合い、信頼関係を築いていけるかは、今のわたしたちの大きな課題です。きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。
投稿者 ct : 2005年08月14日 14:30
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