« 2005年06月 | メイン | 2005年08月 »
2005年07月31日
マタイ14・13-21 (2005/7/31年間第18主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
このパンの出来事は4つの福音書に共通して伝えられている話です。マタイ福音書では洗礼者ヨハネの殉教の話に続いています。「イエスはこれ(洗礼者ヨハネの死)を聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)とありますから、ここでイエスは、自分にも危険が及びそうな状況を知って身を隠そうとしているのでしょうか。しかし、人々の飢え渇きに応えるイエスの活動は変わらずに続いていきます。
福音のヒント
(1) 「大勢の群衆を見て深く憐れみ」(14節)は、この箇所全体をマタイ福音書がどう見ているかを示しているようです。「深く憐れむ」からイエスは病人をいやし、「深く憐れむ」から彼らにパンを与えようとされるのです。
「深く憐れむ」と訳されたことばは、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたがゆさぶられる、自分のはらわたが痛む、ということを意味する言葉で、「はらわたする」と訳した人もいます(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。人の苦しみや悲しみに対する深い共感(compassion)を表す言葉です。イエスが病人をいやし、食べ物を与えるのは、この「苦しむ人への共感」から出た行動なのです。
人の行動にはいろいろな動機があります。わたしたちも「はらわたすること」「共感」から行動に駆り立てられるときがあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。
(2) パンを与えるときのイエスの動作は印象的です。「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)。イエスの食事の際の動作はこの箇所でも最後の晩さんの席でも、ほとんどいつも「(パンを)取る」「賛美する」「(パンを)裂く」「与える」という4つの動詞で表されますが、「取る」のは「賛美する」ためですし、「裂く」のは「与える」ためですから、実は2つのことをしていることになります。「パンを取り、賛美する」はこのパンがたまたま目の前にある、というのではなく、神から与えられたものであることを表しています。人を生かしてくださる神とのつながりが強く意識されるのです。「パンを裂いて与える」。当時の中東のパンは円盤型をしていましたが、このパンを裂くのは、一人で食べるのではなく、皆と分かち合って食べるためです。ここには共に生きる人々との連帯がはっきりと示されます。
なお、「賛美する(賛美の祈りを唱える)」は「エウロゲオーeulogeo」という動詞ですが、同じ話を伝えるヨハネ福音書6・11では「エウカリステオーeucharisteo(感謝する)」という動詞が使われています。この2つの言葉はヘブライ語やアラム語では同じ言葉です。たぶんわたしたちにとっても、感謝と賛美は切り離せないことでしょう。
(3) 上で述べた2つのこと、神とのつながり・人と人とのつながりは、イエスの食事の特徴と言えるでしょう。もしパンが増えて大群衆が満腹したというだけのことであれば、それは2000年前の不思議な出来事でしかありません。大切なのは、この神とのつながり、人と人とのつながりの中にこそ、人のいのちがあるということではないでしょうか。神が人に多くの食べ物を与えてくださるから満腹できる、というだけでもなく、人と人とが分け合えば豊かになれるというだけでもありません。すべてのものは神から与えられたものであり、だからこそ人と人とが分かち合って食べる、これがイエスの食事の豊かさなのです。
なお、20節の「パンの屑」という日本語訳は不正確で、直訳は「裂かれたもの」です。それが12籠になったというところにも、満ち溢れるいのちの恵みが示されています。
(4) わたしたちの食事はどうでしょうか? 「自分の力で得た食べ物を自分だけで食べて何が悪い? だれに感謝する必要がある? だれと分け合う必要がある?」そんなところに陥ってしまう危険があるのではないでしょうか。わたしたちは幼いときから、自分のものは自分が努力して手に入れなければならない、人のものに手を出してはいけないということを学んできました。自分のものと他人のものをきちんと区別すること、もちろんそれは大切なことです。しかし人生はそれだけではありません。もともとわたしたちはすべてのものを自分の力で得たわけではなく、赤ん坊のときのことを考えれば、誰でもまず最初に一方的に多くのものを与えられてきたのです。そこに感謝と分かち合い(sharing)の原点があります。そんなことを考えると日本語で食事のたびに言う「いただきます」ということばは、実に深い祈りだと言えるかもしれません。
地域社会であれ教会であれ、コミュニティー(共同体)とは単なる個人の集合体ではありません。皆に共通の宝があり、その宝の恩恵に共にあずかるのがコミュニティーなのです。
(5) 「群集を解散させてください」(15節)という弟子たちの考えは常識的な判断です。自分たちの力でこの人々を養うのは絶対に無理だと知っているのでこう言うのです。しかしイエスは「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」(16節)と言われます。イエスは弟子たちにその力があるからではなく、神とのつながりの力に、人と人とのつながりの力に信頼するからこう言うのです。弟子たちは結局、イエスを手伝って群集にパンを配ることになります。それはわたしたち自身の姿でもあるのでしょう。わたしたちが自分の力でできることも限られています。しかし、人と人とのつながりから力を得、さらにその中に神の力が働いていると感じるとき、今の自分ができること・すべきことが見えてくる、そんな体験がわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。
2005年07月24日
マタイ13・44-52 (2005/7/24年間第17主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ13・1から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分です。
福音のヒント
(1) きょうの箇所には3つのたとえ話があります。これらのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるたとえ話です。最初の2つのたとえ話はよく似ています。
イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの内容が確定できない理由は、イエスのことばだけが伝えられて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた実際の状況がよく分からないからです。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいでしょう。
(2) 古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして神の国を求めなければならない、という教えだと理解できそうです。マタイは「天の国」と言いますが、「神の国」と同じことで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だと受け取ることが可能です。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。こんなことを考えてみてもよいかもしれません。彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝なのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れることになる(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。
(3) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと考えることです。人間が神を求めるよりも、神さまがわたしたちを探し求めている、そう考えるとまったく別の光が見えてくるのではないでしょうか(なお、次の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です)。
このように考えると、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持ってくるかもしれません。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にありません。
たとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があるのです。
(4) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30、36-43節)とよく似ています。マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き。マタイ福音書ではこういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が大きいようです(先週の「福音のヒント」参照)。
毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあると言えるでしょう。
今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が良しとされるかを明確にするメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25・31-46です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
(5)「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使4・13)であった弟子たちが「学者」と言われるのです。マタイ23・34によれば、マタイの時代の教会には実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある者というよりも、すべての弟子のあるべき姿として受け取ればよいでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はイエスのことでしょう(マタイ10・25参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えればよいでしょうか。わたしたちはこのイエスに似ているというのです。本気で受け取れば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!
2005年07月17日
マタイ13・24-43 (2005/7/17年間第16主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
マタイ13章には天の国(神の国)のたとえが集められています。先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えたらよいでしょう。
福音のヒント
(1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(37-39節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(罪びと)を裁く(「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」40節)ということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。
(2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に応えるものであったと言えそうです。その批判とは「なぜあなたは罪びと(毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」という批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってあるかもしれないのです。単なる寛容の教えではなく、誰をも切り捨てることのない神の国の姿、イエスの姿勢を感じたらよいでしょう。
(3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(毒麦)は排除すればよい。犯罪を厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも、「罪びとを排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。そうではないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当によくなれるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。
(4) 「からし種」のたとえはマルコ3・30-32、ルカ13・18-19と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13・20-21だけと共通しています。
「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるということに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味にも受け取ることができるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。
(5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力の前では、愛そうという努力もむなしく感じられるかもしれません。しかし、そういう善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も捨てたものじゃない、と感じることができるのではないでしょうか。
人間の力に頼ろうとする傾向は今の時代、特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。
2005年07月10日
マタイ13・1-23 (2005/7/10年間第15主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
日曜日のミサの福音では省略されているマタイ12章は、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応を伝えています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長しているということを語るのが13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。
福音のヒント
(1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつう話を理解しやすくするためです。しかし、イザヤ6・9-10を引用してたとえで語る理由を述べるマタイ13・11-17は、イエスのたとえが特別な説明がなければ理解しにくいものであることを前提としているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアスという学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社)を参考にして話を進めます。
(2) イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。
A. イエスのたとえ話は本来イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。
B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「福音の弁明」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスが自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。
C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、本来批判者だったはずのたとえ話の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちがいつもイエスのことばを今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとしたためである。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになった。
(3) ルカ15・1-7にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「父はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18・10-14は「小さな者を軽んじないように」という教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。
(4) エレミアスのように考えるとすると、マタイ、マルコ(4章)、ルカ(8章)に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13・19-23)は初代教会の人々が付け加えた部分ということになります。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。
まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通でしょう。
パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題ではないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を土の中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。このような種まきは確かに一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
だとすると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。
(5) さてたとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになるでしょう。「農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ」
この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。
もちろん、エレミアスの読み方がすべてではなく、素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるかなのです。
2005年07月03日
マタイ11・25-30 (2005/7/3年間第14主日)
|
教会暦と聖書の流れ |
福音のヒント
(1) 25-27節はルカ福音書にも並行する箇所があります(ルカ10・21-22)。72人を派遣した後の箇所ですが、そこでもイエスのメッセージを受け入れず、悔い改めない町の話に続いています。イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識の意味でした。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたのが現実でした。イエスの活動はこの点でつまづきになります。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ました。 「天地の主である父よ、・・・」これはイエスの祈りです。人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神の意思の実現を見ます。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言ったらよいでしょう。27節の「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。27節は祈りの言葉そのものというよりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えるでしょう。そして、28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々への呼びかけなのです。 「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっと」したいのです。 (2) 「柔和」「謙遜」という言葉については少していねいに見ておきましょう。「柔和」はギリシア語で「プラユス」です。この言葉は、マタイ福音書の中で3回使われています。最初は5・5「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ」ですが、この言葉の背景には詩編37・11「貧しい人は地を継ぎ」があると考えられています(この「貧しい人」と訳されているヘブライ語の「アナウ」の古代ギリシア語訳(七十人訳)が「プラユス」です)。もう一つの箇所はマタイ21・5「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な(プラユス)方で、ろばに乗り」という箇所です。これはゼカリヤ9・9の引用です。この箇所を新共同訳は「高ぶることなく、ろばに乗って来る」と訳しますが、この「高ぶることなく」は「アニ(アナウとほとんど同じ言葉)」なのです。「プラユス」というギリシア語は確かに「柔和な」という意味の言葉ですが、その背景にはヘブライ語の「アナウ」があります。この「アナウ」ということばはもともと身をかがめ小さくなっている人の様子を表すそうです。経済的に圧迫され、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのです(詩編37)が、みずから小さくなっている人という意味では「柔和な人、高ぶらない人」とも訳されます。この箇所の「プラユス」の背景にも「アナウ」というヘブライ語的な表現があるとすれば、もっとストレートにイエスが「わたしは貧しい」と言っていると受け取ることもできるでしょう。「謙遜」のほうは直訳すれば「心において(テー・カルディア)身分が低い人(タペイノス)」。この「心において」はマタイ的な表現だと考えることもできます。たとえば、ルカ6・20で「貧しい」というところをマタイ5・3では「心の(霊において=直訳)貧しい」と言い、ルカ6・21で「飢えている」というところをマタイ5・6では「義に飢え渇く人」と言い換えています。もし「タペイノス」だけで見るならば、これもストレートに「身分が低い」という意味だと言えます。
「柔和・謙遜」というと心の状態だけを考えがちですが、イエスのことばは「わたしは実際に貧しく、身分が低い」というニュアンスをもあわせ持つ言葉だったのではないでしょうか。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができるかもしれません。イエス自身が貧しく・身分が低いものである(「ラビ=律法教師」としての特別な資格や地位がない)から、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」とも訳せるような言葉です。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力も授業料もいらないのです!

(3) 「軛(くびき)」は家畜に荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、それはなぜ軽いと言えるのでしょうか。この「二頭立て」のイメージが役に立つかもしれません。わたしたちの軛・荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」といえるのではないでしょうか。マタイ23・4でイエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」と言います。イエスの生き方はその正反対だといったらよいでしょう。イエスは、わたしたちに、わたしがあなたの重荷を共に担おう、と呼びかけてくださっているのではないでしょうか。そのイエスの招きを今のわたしたちは感じることができるでしょうか。