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2005年07月24日

マタイ13・44-52 (2005/7/24年間第17主日)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 マタイ13・1から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分です。

福音のヒント

 (1) きょうの箇所には3つのたとえ話があります。これらのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるたとえ話です。最初の2つのたとえ話はよく似ています。
イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの内容が確定できない理由は、イエスのことばだけが伝えられて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた実際の状況がよく分からないからです。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいでしょう。

 (2)  古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして神の国を求めなければならない、という教えだと理解できそうです。マタイは「天の国」と言いますが、「神の国」と同じことで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だと受け取ることが可能です。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
 最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。こんなことを考えてみてもよいかもしれません。彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝なのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れることになる(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。

 (3) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと考えることです。人間が神を求めるよりも、神さまがわたしたちを探し求めている、そう考えるとまったく別の光が見えてくるのではないでしょうか(なお、次の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です)。
 このように考えると、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持ってくるかもしれません。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にありません。
 たとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があるのです。

 (4) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30、36-43節)とよく似ています。マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き。マタイ福音書ではこういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が大きいようです(先週の「福音のヒント」参照)。
 毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあると言えるでしょう。
 今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が良しとされるかを明確にするメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25・31-46です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
  
 (5)「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使4・13)であった弟子たちが「学者」と言われるのです。マタイ23・34によれば、マタイの時代の教会には実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある者というよりも、すべての弟子のあるべき姿として受け取ればよいでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
 「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はイエスのことでしょう(マタイ10・25参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えればよいでしょうか。わたしたちはこのイエスに似ているというのです。本気で受け取れば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!

投稿者 ct : 2005年07月24日 09:35

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