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2005年07月17日
マタイ13・24-43 (2005/7/17年間第16主日)
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教会暦と聖書の流れ |
マタイ13章には天の国(神の国)のたとえが集められています。先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えたらよいでしょう。
福音のヒント
(1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである」(37-39節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(罪びと)を裁く(「毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」40節)ということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。
(2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に応えるものであったと言えそうです。その批判とは「なぜあなたは罪びと(毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」という批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってあるかもしれないのです。単なる寛容の教えではなく、誰をも切り捨てることのない神の国の姿、イエスの姿勢を感じたらよいでしょう。
(3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(毒麦)は排除すればよい。犯罪を厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも、「罪びとを排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。そうではないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当によくなれるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。
(4) 「からし種」のたとえはマルコ3・30-32、ルカ13・18-19と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13・20-21だけと共通しています。
「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるということに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味にも受け取ることができるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。
(5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力の前では、愛そうという努力もむなしく感じられるかもしれません。しかし、そういう善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も捨てたものじゃない、と感じることができるのではないでしょうか。
人間の力に頼ろうとする傾向は今の時代、特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。
投稿者 ct : 2005年07月17日 15:23
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