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2005年07月10日

マタイ13・1-23 (2005/7/10年間第15主日)

教会暦と聖書の流れ

聖書本文

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 日曜日のミサの福音では省略されているマタイ12章は、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応を伝えています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長しているということを語るのが13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。

福音のヒント

 (1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつう話を理解しやすくするためです。しかし、イザヤ6・9-10を引用してたとえで語る理由を述べるマタイ13・11-17は、イエスのたとえが特別な説明がなければ理解しにくいものであることを前提としているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアスという学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社)を参考にして話を進めます。

 (2) イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。
 A. イエスのたとえ話は本来イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。
 B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「福音の弁明」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスが自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。
 C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、本来批判者だったはずのたとえ話の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちがいつもイエスのことばを今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとしたためである。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになった。

 (3) ルカ15・1-7にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「父はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18・10-14は「小さな者を軽んじないように」という教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。

 (4) エレミアスのように考えるとすると、マタイ、マルコ(4章)、ルカ(8章)に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13・19-23)は初代教会の人々が付け加えた部分ということになります。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。
 まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通でしょう。
 パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題ではないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を土の中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。このような種まきは確かに一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
 だとすると、このたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。


 (5) さてたとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになるでしょう。「農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ
この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。
もちろん、エレミアスの読み方がすべてではなく、素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるかなのです。

投稿者 ct : 2005年07月10日 12:35

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