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2005年06月26日

マタイ10・37-42 (2005/6/26年間第13主日)

教会暦と聖書の流れ

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 マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。きょうの箇所はその結びの部分です。16節からの、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。

福音のヒント

 (1) 「家族を大切にしなければならない」「家族は仲良くしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のことでしょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)というイエスの言葉はこのわたしたちの常識を揺さぶります。 この直前にはこういう言葉もあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(10・34-36)  イエスの言葉は明らかに「イエスか肉親か」の二者択一を迫っています。カルト宗教のような危険性さえ感じさせるこれらの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。マタイの文脈では、イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるように、という教えだと言えるでしょう。

 (2) しかし、なぜイエスのメッセージゆえに家族との対立が起こるのでしょうか。それはイエスのメッセージが家族の持つある種の「狭さ」を越える性格のものだからでしょう。
 「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12・48-50)「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10・29-30)。イエスは「自分の家族さえ良ければ」という閉鎖的な考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう人々を招いています。イエスの時代、誰からも顧みられない孤独な人、家族からも厄介者扱いされている人にとってそれはまさに「福音(よい知らせ)」だったでしょう。家族も捨ててイエスに従っていた弟子たちにとっても「福音」だったにちがいありません。わたしたちにとってこれは「福音」になりうるでしょうか。

 (3) わたしたち一人ひとりの家族についての思いは違います。「やっぱりわたしにとっては家族が一番大切」という人も多いでしょう。むしろ「家族が悲しみ、家族を傷つけても教会に行くべきだ」という考えのほうが問題でしょう。
 ただし、次のようなことも考えてみてはどうでしょうか。子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。親離れは一生絶縁してしまうことではありません。庇護し庇護されるだけの関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会うためです。子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。

 (4) 40節は使徒たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語りますが、マルコ9・37、マタイ18・5などに似た言葉があります。マルコではこうなっています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。本来は子どもについて言われた言葉が、神の子どもとなったキリスト者にも当てはめられるようになったのかもしれません。ここでは、弟子たちに対する態度が、弟子たちを派遣したイエスと神に対する態度と同じことだということになっています。
 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節) この言葉から、マザー・テレサやヨハネ・パウロ二世教皇が亡くなったとき、哀悼の心と祈りをささげた日本の非キリスト者の姿を思い浮かべることもできるでしょう。わたしたちがもしキリストのメッセージに忠実に生きるならば、必ず理解し、支えてくれる善意の人々と出会えるはずです。


(5) 38-39節の言葉は、最初の受難予告の後のマタイ16・24-25でもほとんど同じ形で繰り返されます。きょうの箇所全体の背景にも、迫害という状況があるのかもしれません。42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況ではたいしたことではありませんが、もし迫害されているキリスト者に対してそうするなら、水をあげた人自身もその仲間だと思われる覚悟が必要かもしれないのです。またここでは「わたしの弟子=小さな者」と言われていますが、これも迫害されているキリスト者の姿を連想させます。
 もちろん迫害という状況に限らず、「水一杯」はマタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)

投稿者 ct : 2005年06月26日 17:17