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2005年05月29日
ヨハネ6・51-58 (2005/5/29キリストの聖体)
| 教会暦と聖書の流れ |
キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では次の日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「まとめ」と言ってもよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越」にわたしたちが結ばれることを意味しているからです。なお、特別に聖体の制定を記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5,000人以上の群集に分け与えたという話をきっかけとして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。
福音のヒント
(1) 51節、58節にはほとんど同じような表現「天から降って来たパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。 「天から降って来た」という表現は、イエスが「父のふところにおられ、父から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約の「マナ」との結びつきを思わせる表現でもあります(31節に引用されている詩編78の23-25参照)。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8・3も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことでした。(2) 35節以降一貫して、パンについてのイエスの言葉は「わたしはパンである」というものでした。もちろんそれは「イエスが人のいのちを真に生かす方である」ということを意味しています。そして「このパン(イエス)を食べる」ということは、「イエスのもとに来て、イエスを信じる」ということを意味しています。きょうの箇所のはじめにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型です。
(3) 一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「イエス=パン」ではなく「イエスが与えるもの=パン」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「これは天から降って来たパンである」は「イエス=パン」と「イエスの与えるパン=聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと言えるでしょう。
53~56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。「このパンとぶどう酒」を実際にいただくことの大切さが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージがあるのでしょうか。そのイエスの生き方に結ばれることが聖体の意味なのです。
ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、まったく1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよいことがある魔法のお薬」のように考えているのではありません。コムニオ(聖体をいただくこと)によって実現するのは、「人がキリストのうちに、そして、キリストがその人のうちにいる」ようになること、そして「人がキリストによって生きるものとなること」なのです。
(4) わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。
「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか? パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(6・11) このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5000分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認することではないでしょうか。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのちだったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。
投稿者 ct : 2005年05月29日 16:56
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