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2005年05月15日
ヨハネ20・19-23 (2005/5/15聖霊降臨の主日)
【教会暦と聖書の流れ】
日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2・1-11の記事に基づき、復活祭から50日目のこの日曜日、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、使徒たちが活動を始めたことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第二主日にも読まれた箇所で、復活の当日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されます。ここでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。
【福音のヒント】
(1) 福音の箇所については、復活節第二主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマ」、ヘブライ語で「ルーアッハ」、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです(なお「舌」はギリシア語で「グロッサ」。6節の「言葉」と同じ語で、使徒たちに与えられる聖霊の賜物を表しています)。
(2) 聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネの「息を吹きかけて」は創世記2章でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104・29-30でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる」この広さは大切です。「風(プネウマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは大切なことです。
しかし、人が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書を見るとそれは2種類の体験に関係しているようです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは、神と人・人と人とが結ばれるという体験です。
(3) 人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを感じます。何とかこのミッションを果たせたときに感じることは、不思議な仕方で神が助けてくれた、ということではないでしょうか。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降ると表現されています(Ⅰサムエル16・13、イザヤ61・1参照)。新約聖書の中では、成人したイエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録のペンテコステの出来事も、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章でも、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、これは秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。
(4) 絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。
福音で命じられる「ゆるし」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた異民族の人々の間に、相互理解が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5・22-23)と断言しています。
(5) 聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、それも当然でしょう。大切なのは頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他者の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることです。
投稿者 ct : 2005年05月15日 16:47
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