« 2005年03月 | メイン | 2005年05月 »

2005年04月24日

ヨハネ14・1-12 (2005/4/24復活節第5主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 ヨハネ福音書では13章から17章までが最後の晩さんというたった一回の食事の場面です。この席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて長い遺言のような説教をしました。その言葉の多くは、イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、何かが残る、という約束です。もちろん1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、それをただ将来起こることについての約束ではなく、今すでに自分たちの中で実現した約束として伝えているのです。そして今のわたしたちも、このイエスの約束が(不完全かもしれませんが)自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と言うことができるのでしょう。

【福音のヒント】

 (1) この箇所の直前に、ペトロの離反が予告されます。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13・36)とイエスが言われたことに動揺した弟子たちに向かって、イエスは「心を騒がせるな」と語りかけます。「神を信じる」「イエスを信じる」は「神は存在すると思う」とか「イエスを神の子であると考えている」というレベルの話ではありません。「その方に信頼を置き、自分を委ねる」という意味での「信じる」です。なお、原文の形は「信じなさい(命令法)」とも「あなたがたは信じている(直説法)」ともとれます。「あなた方は信じている、だから心を騒がせるな」と受け取るならば少し違った響きが感じられるのではないでしょうか。いずれにせよ、自分や他の人を頼りにしている限り、不安や動揺はなくならないでしょう。

 (2) 「わたしは道である」とイエスは語ります。現代のわたしたちは、道は道路公団が作るものと考えがちですが、本来の素朴な道は人が歩くことによってできるものでした。イエスは「どこそこに道があるから、その道を行きなさい」と言うのではありません。「わたしが道だ」というときの道は、イエスご自身が歩むことによってできる道だと言ったらよいでしょう。そして、このイエスの道は十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道だというのです。ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10・19-20)。エルサレムの神殿には「聖所(至聖所)」があり、その前には垂れ幕がありました。そこには普通の人は誰も入ることができず、年に一度大祭司だけが入ることができたのです。ヘブライ書は、イエスによってわたしたちが神に近づくことができるようになった、ということをこのような比ゆで示そうとしています。

 (3) 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)は、イエスへの信仰という話でも、洗礼を受けたか受けていないか、ということでもないでしょう。「道」は、動く歩道やエスカレーターではありません。信仰告白や秘跡によって自動的に神のもとに行くことはできません。イエスが命がけで切り開かれた道をわたしたちも歩んでいかなければならないのです。
「真理」もそうです。ヨハネ福音書は、抽象的・哲学的な真理について語るのではなく、「確かなもの、頼りになるもの(ヘブライ語の「エメト=真理」の元の意味)」であるイエスご自身、そしてイエスにおいて現された神の姿が真理なのです。「真理を行う」(ヨハネ3・21)という表現もありますが、この真理は頭で理解する真理ではなく、イエスが行った真理であり、わたしたちが行うように招かれている真理なのです。「命」もイエスご自身の生きた「命」のことであり、この命をわたしたちも生きることになるのです。

 (4) フィリポのことば「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)はすべての人の心の深いところにある望みを表しているとも言えるでしょう。これに対するイエスの答え「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)は決定的な宣言です。ヨハネ福音書はイエスの受難の物語を次のように語り始めました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13・1)。ヨハネ福音書が受難のイエスの中に見ているものはこの愛です。この愛は、いつもイエスのうちにあり、そして死の時に完成されるような愛なのです。イエスは受難と死において「愛そのものである神」(Ⅰヨハネ4・7)を完全に現す方となった、だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われるのではないでしょうか。

 (5) 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)は不思議な言葉です。わたしたちがイエスよりももっと大きな業を行うということは常識的には考えにくいことです。この文脈の中では、続いて「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。イエスが父のもとに行くことによって実現するのは、聖霊が弟子たちのところに来て、弟子たちとともにいてくださるということです(14・16-17、14・26、15・26-27、16・7-15参照)。イエスを「信じる者が行う業」とは、彼ら自身の働きというよりも、信者のうちに、信者を通して働く聖霊の働きなのです。そして、それは地上でイエスが行ってきたことよりももっと豊かな働きだということでしょう。
 この「もっと大きな業」については他にもいろいろな解釈があります。何が正解かということよりも、わたしたち自身の体験に照らし合わせて考えてみたら良いでしょう。「信じる者は、イエスの行う業を行う」とわたしたちが感じるような体験があったとすれば、それはどんな体験でしょうか。

投稿者 ct : 16:33 | コメント (0)

2005年04月17日

ヨハネ10・1-10 (2005/4/17復活節第4主日)

【教会暦と聖書の流れ】

復活節第4~第6主日のミサの中では、ヨハネ福音書のイエスのことばが読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとの関わりを味わうために選ばれた箇所です。第4主日は毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえですが、ここには良い羊飼いとして羊にいのちを与えるイエスと羊であるわたしたちとの深いつながりが示されています(ちなみにB年に11-18節、C年に27-30節が読まれます)。

【福音のヒント】

 (1) 福音書の「章」はあとの時代の人が付けたもので、確かに役に立ちますが、ときにはわたしたちの目を惑わすことがあるかもしれません。実はヨハネ10章のイエスの言葉は、9章の終わりから続いているのです。9章は四旬節第4主日に読まれた「生まれながらの盲人のいやし」の物語でした。「それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる」(出エジプト記31・14)と言われていた安息日にもかかわらず、イエスは泥をこねてその人の目に塗り、その人をいやしました。そのことは、言わばいのちがけの行為でした。このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いのたとえが語られ、「わたしは良い羊飼いである」(10・11)と宣言されるのです。
 ヨハネ福音書には「わたしは○○である」というイエスの宣言がいろいろな箇所にあります。「わたしがいのちのパンである」(6章)、「わたしは復活であり、いのちである」(11章)、「わたしは道、真理、いのちである」(14章)。これらは単なる自己主張ではありません、非常に具体的な生き方に基づくイエスの自己紹介であり、そのイエスに出会った人々の信仰告白のことばでもあるのです。

 (2) パレスチナの羊飼いは半遊牧生活であったと言われます。羊飼いは50~100頭の羊の群れを追って、草のあるところを旅していきます。羊は弱い動物なので、一頭だけでいたらすぐに野獣に襲われて滅んでしまいます。羊飼いの役割は、羊を一つの群れに集め、狼や盗人から羊を守り、草のあるところに羊を導くことでした。広い牧場に柵があり、門があって羊はずっとその中にいるというのではないのです。ただし、夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、誰の所有というわけではなく、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちはちゃんと自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いに付いていくのだそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたといわれます。こういう当時の実際の羊飼いの生活が背景にあって、きょうのたとえが語られています。

 (3) 1-5節のたとえでは「聞く」と「知る」が大切な動詞です。「聞き分ける」(3節)は、原文ではただ「聞く」という言葉です。「聞く」にはただ単に耳で聞く、というだけでなく、「聞き分ける」という意味もありますし、「聞き従う」という意味もあります。
 4-5節の「知っている」「知らない」の「知る」はただ単に知識として知るという意味ではなく、お互いの関わりを表すことばです。日本語でも「○○さんを知っていますか」という言い方は単に「その人について知識がありますか」という意味ではなく、「その人と会ったことがありますか。どんな交際がありますか」という意味でしょう。この箇所の後の14-15節では「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」ということばがあり、両者の深い交わりを表現しています。9章でいやされた人が、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と言った言葉も思い出されます。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、自分を変えてくださったイエスとのつながりそのものでした。
 イエスがわたしたちを知っていてくださるとはどういうことでしょうか。また、わたしたちがイエスを知っている、わたしたちがイエスの声を聞くとはどういうことでしょうか。

 (4) 7-9節でイエスはご自分を「羊の門」にたとえます。9節「わたしを通って入るものは救われる」ここにあるのは、イエスを通って神の国に入る、父の家に入る、というイメージでしょう。それに対して次の「出入りして牧草を見つける」は実際の羊の囲いのイメージなのでしょうか。実際には、餌となる草は門の外にあるからです。いずれにせよ、イエスが人を豊かないのちに導く方であることが示されています。

 (5) 10節の「命」はギリシャ語では「ゾエーzoe」です。続く11節には「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉があり、こちらの「命」は「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」のほうは本来「息、生命の息」を表すことばで、psychology(心理学)の語源になったことばですが、ここでは「魂・精神」というよりも「自然の生命、肉体的な命」を指す言葉として用いられます。これに対して「ゾエー」は人を生かす根源的なエネルギーを表すと言ったらよいでしょうか。「永遠の命」というときはこの「ゾエー」が使われます。この2つのことばはいつも厳密に区別されているわけではありません(10・15-18ではイエスの肉体的な命と復活の命が同じ「プシュケー」という言葉で表現されています)。また、この2つのことばは対立しているのでもありません。しかし、イエスは「羊のために命(プシュケー)を捨てる」方であり、同時に「羊が命(ゾエー)を豊かに受けるために」来られた方です。ただ肉体的な命というだけでない、もっと豊かないのちの捉え方がここにはあります。わたしたちはいのちをどのように感じているでしょうか。

投稿者 ct : 16:29 | コメント (0)

2005年04月10日

ルカ24・13-35 (2005/4/10復活節第3主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 きょうの箇所も「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。前の週のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事というだけでなく、「生きておられる」(ルカ24・23)イエスと今のわたしたちとの出会いの物語として読むことができるでしょう。ミサや聖餐式との関連もよく指摘されています。聖書のことばを聞き、パンを裂く中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために、最適の箇所と言えるかもしれません。

【福音のヒント】

 (1) 失意のうちに暗い顔をして歩んでいるとき、気づかないけれどイエスがともにいてくださる。もちろん、苦しみや悲しみのどん底にいるときにはなかなかそのように感じられないでしょう。しかし、後になってから「ああ、やっぱりあの時イエスは一緒にいてくれたのだ」と気づくことがあります。わたしたちの中にもそういう経験があるでしょうか。

 (2) 「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24・25-27)
 「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体・・・」は旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光について述べている、ということですが、ルカでは特にイザヤ52・13~53・12の主の僕(しもべ)の歌のことが考えられていると言えるかもしれません。ルカが福音書の続編として書いた使徒言行録8章で、フィリポがエチオピア人の宦官から「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)と問いかけられたのはまさにこの箇所についてでした。
 「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52・13)。
 「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53・11-12)
 また、聖霊降臨の日にペトロが引用した詩編も思い浮かべることができるでしょう。
 「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」(使2・25-28、詩編16・8-11の引用)
 これらの箇所が語っているのはイエスのことだと、弟子たちが理解するためには、心の目が開かれる必要がありました。旧約聖書を読むときに、それをイエスと結びつけて読むというのは教会の伝統ですが、きょうの箇所によれば、そのような読み方はイエスご自身が示してくださった読み方なのです。そして、わたしたちの目を開いて聖書を悟らせてくださるのは、復活されたイエスご自身なのです

 (3) 復活のイエスとは一目見れば分かるものではなく、ある瞬間に「そうだ、やっぱりイエスは生きていてわたしたちと共にいてくださる」と気づくものであるようです。きょうの箇所の弟子たちにとって、それはパンを裂いたときでした。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」(ルカ24・30)。5つのパンを大群衆に分け与えたとき(9・16)も、最後の晩さんのとき(22・19)もイエスは同じようにしました。イエスのこの行為は弟子たちにとって特別に印象深いものだったようです。
 復活したイエスに気づくためのしるしは、ヨハネ20・16のマグダラのマリアにとっては、「マリア」という呼び声でした。ヨハネ20・20の弟子たちにとっては「手とわき腹の傷」でした。これらは皆、目の前に立っている人と生前のイエスを結びつけるしるしでした。わたしたちも自分が経験している出来事の中に、福音書のイエスの姿を思い出させる何かが感じられたとき、自分たちの現実の中にイエスがいてくださることに気づくのだと言うことができるでしょう。それは乏しい中で持っているものを分かち合うことをよって皆が満たされるという体験であったり、打ちひしがれている人が立ち上がる勇気を得るという体験であったり、対立している人びとの間に心が通い合ったりするというような体験でしょう。そのように、わたしたちの「心が燃えていた」(ルカ24・32)体験を分かち合えたら素晴らしいことです。

 (4) 「一緒にお泊まりください」(29節)の「泊まる」は「とどまる」とも訳される言葉です。「主よ、いつもわたしたちと一緒にいてください」それはわたしたちの心からの願いでもあるのではないでしょうか。
 前の週の福音と同様、この物語の中にも、コミュニティ(共同体)というテーマが感じられます。イエスの死は弟子のコミュニティを破壊してしまう出来事でした。この二人も失望し、弟子たちのグループを離れて二人だけでエマオに向かって行きました。しかし、たった一人ぼっちではなく、二人連れでした。二人で話している間に、次第に二人とともにいるイエスに気づいていくのです。そして生きているイエスに出会った二人は、エルサレムに残っていたほかの弟子たちのところに走って戻ることになりました。復活の主との出会いはいつも人々の間に起こり、人々を再び一つに集める力だと言ったらよいのではないでしょうか。

投稿者 ct : 16:24 | コメント (10)

2005年04月03日

ヨハネ20・19‐31 (2005/4/3復活節第2主日)

【教会暦と聖書の流れ】

 復活節主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「目に見えないがイエスがともにいてくださるとはどういうことか」を示すヨハネ福音書の箇所。復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むこともできるでしょう。

【福音のヒント】

 (1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが逮捕され、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
 そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつのことば(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的なことばだったと言えるかもしれません。
 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。

 (2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15・11-32)、これがイエスの語るゆるしの最も明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。
 
 (3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神に派遣された者としてイエスが地上で行ってきたことを、今度は弟子たちが行っていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。弟子たちの使命の中心は「ゆるし」(あるいは「愛」。ヨハネ13・34-35、15・12参照)です。23節の「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人からゆるされる(愛される)ことをとおして神のゆるし(愛)を実感することができたという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

 (4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子も他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスもまた、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11・16参照)を果たせなかった自分にも他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくれました。
トマスはコミュニティーの中で、コミュニティーの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。

 (5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちへの祝福のことばだと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のキリスト信者は皆「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じることは「愛を信じる」というのと似ています。「目に見えないものは信じない」と言い張ることも可能ですが、「信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)のギリシア語原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも読むことができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれるのではないでしょうか。

投稿者 ct : 15:56 | コメント (0)