« ヨハネ4・5‐42 (2005/2/27四旬節第3主日) | メイン | ヨハネ11・1‐45 (2005/3/13四旬節第5主日) »
2005年03月06日
ヨハネ9・1‐41 (2005/3/6四旬節第4主日)
【教会暦と聖書の流れ】
四旬節第3~第5主日に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の2番目です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。きょうの箇所は、生まれながら目の見えなかった人がイエスによって「闇から光へ」と移される物語です (なお、今回も『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
【福音のヒント】
イエスの実際の出来事が起きてからヨハネ福音書が書かれるまでには長い年月がかかっています。出来事をそのまま伝える記録と読むには難しい面があります。たとえば、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)というのはイエスの地上での活動中のことではなく、福音書が書かれた1世紀末の状況を反映した記述だと言われています。ただし、この物語の核には、イエスと出会った人の真実の体験があると思って読むと良いでしょう。
(1) 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。普通は本人の罪の結果と考えられましたが、この人は「生まれつき目が見えない」ので「それでは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えたわけです。しかし、イエスは個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」(3節)。そして、「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。「ため」といいますが、イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明しようとしているのではなく、これから起こる出来事に目を向けさせているのです。イエスの関心は「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところにあると言ったらよいでしょう。
目の前の人が苦しんでいるとき、その苦しみについて自分が納得できる説明を見つけて傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちもイエスから問われているのではないでしょうか。
「シロアム」は「遣わされた者」の意味だと、ヨハネ福音書は解説しています。イエスが神から「遣わされた者」としてこのことを行うことを暗示しているのでしょうか(4節)。あるいは、いやされた人が「遣わされた者」になっていくことを暗示しているのでしょうか(この人は物語の展開の中で、次第に力強くイエスを証言する人になっていきます)。
(2) ファリサイ派は熱心に神に仕えようとしていました。そのために律法を解釈し、事細かに守ろうと努力していました。イエスは安息日に泥をこねて(これが律法違反と考えられたのでしょうか)この視覚障害者をいやしましたが、ファリサイ派の考えでは、安息日の律法を守らないような人間は間違いなく罪びとでした。しかし、罪びとがこのような「しるし」(奇跡)を起こすことはできないとも考えられていました(16節)。頭で理解し、納得しようとしてもうまくいきません(それは生まれつき目が見えないのは本人のせいか、両親のせいか、という弟子たちの戸惑いとも似たところがあります)。自分たちが納得するために彼らがとった方法は、イエスによるいやしの事実を否定する、ということでした。この事実が否定されれば、イエスは罪びとだということが確定すると考えるわけです。
宗教に熱心な人の落とし穴がここにありそうです。教えられたこと、信じていることに忠実であろうとするあまり、目の前の現実が見えなくなるのです。
イエスはファリサイ派の罪を指摘します。39節の「見える」「見えない」は肉体的な視力のことと、イエスを理解するか否かということの両方が掛け合わされています。「自分たちは何もかも理解している、見えている、分かっている」それが彼らの罪だというのです。「罪」とは根本的に神から離れることです。彼らは自分たちの確信を守るために、目の前で起こっている神のわざを否定して、生きた神とのつながりを見失ってしまったのです。
(3) 一方、いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことでした。たとえ彼の両親がそのことを知らないと言っても、彼には否定できません。なぜならそれは彼自身の体験だったからです。彼は、自分の意見を述べているのではなく、自分が体験し、それによって自分が救われた、その事実を証言するのです。
いやされた人はイエスに泥を塗られ、シロアムの池に行って見えるようになったのですから、実はイエスの姿を見ていませんでした。物語の最後に、この人はイエスに出会い、はっきりとイエスを見て、信じるようになります(38節)が、それまで、この人はイエスについての「知識」がほとんどありませんでした。イエスがどこにいるかと問われて「知りません」(12節)と答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)とも言います。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」これだけが彼の知っていることだったのです。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、イエスとの出会いを体験する、ということです。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と言われれば、わたしたちも「そのとおりです」と言うしかないでしょう。しかしイエスに出会って自分が変えられたのならば、そのことを証言せずにはいられないのです。イエスに出会ってわたしはどう変えられたのか。人を愛せるようになった? 解決できない問題を神にゆだねることができるようになった? 絶望的な状況の中でも、今自分にできる最善のことは何かと考えられるようになった? そういうことを分かち合えたらどんなに素晴らしいことでしょう。
投稿者 ct : 2005年03月06日 15:41
コメント
コメント欄にはその日の福音についての感想を書き込むことができます。福音の感想でなく管理者が不適切と判断した場合は、コメントを削除させていただくことがありますので、あらかじめご了承ください。 名前はハンドルネーム可、メールアドレスとURLは省略可(記入すると公開されます)。 ※ただいまコメントの投稿ができなくなっております。大変申し訳ございませんが、今しばらくお待ち下さいませ。